長いF1シーズンも終わり、見るF1からシーズンオフは読むF1というわけでもないのですが、レース関連の本のご紹介です。
10月に発売となっていますので、すでに読まれている方も多いとは思いますが「GPCarStory JordanEJ12(三栄書房)」についてです。
このGPCarStoryというのは、少し昔のF1マシンに毎号1車種ずつスポットを当て、マシンの解説、関係者の証言などを掲載しているシリーズです(たまにチームやドライバーなどでワンテーマにしている号もありますが)。
軍用機に興味のある方なら、こういった本ということですと、同じように毎号1機種を取り上げて刊行されている「世界の傑作機」というシリーズを思い浮かべる方もいるかと思います。
今回のJordanEJ12というのは、2002年にジョーダンチームがホンダと組んでグランプリを走ったマシンであり、佐藤琢磨選手のデビューマシンでもあります。
本書では、ドライバー(佐藤琢磨とG.フィジケラ)、デザイナーやエンジニア、ホンダ側のスタッフの証言などを通して、このマシンがどのような特性を持ち、どのように戦ったのかを紹介しています。また、このシリーズの他のマシンと同様、グランプリごとの細かな仕様の違いなども詳しく説明しています。
もちろんスポーツですから、ライバルも存在するわけで、このマシンが戦っていた中団グループのライバル、97年のチャンピオン・J.ヴィルヌーヴのインタビューも掲載されています。
当時の報道で、ジョーダンチームは懐事情が芳しくないようなことが伝えられていたのですが、そのあたりの内幕もチーム関係者のインタビューに書かれており、興味深く読みましたが、こういう話は「今だから話せる」ということなのでしょう。
日本のファンにとって、このマシンの活躍のハイライトは日本グランプリでの佐藤琢磨選手の5位入賞ではないかと思います。イギリスF3王者の称号を手に「飛び級」のF1デビューを果たした琢磨選手は「ついにF1で勝てる日本人が来た」という印象を抱かせるものがありました。日本でレースの経験を積んで、というのではなく、ヨーロッパのF3でタイトルを獲ってF1デビューというのは、他のチャンピオンたちがたどった道のりであり、デビューイヤーも大いに期待していたところでしたが、なかなかシーズン後半までいい結果を残せていませんでした。
このシーズンはM.シューマッハ(フェラーリ)の強さが圧倒的で、既に夏にはタイトルが決まり、最終戦の日本グランプリは言ってみれば消化試合なのですが、それでもホンダエンジンのマシンを駆る日本人ドライバーが母国に凱旋するということで、佐藤琢磨選手に期待が集まったわけです。この年はトヨタもF1参戦初年度でしたので「ジャパニーズ・パワー」が何かと注目を集める鈴鹿となりました。
地元ということもあって予選から好調を維持し、この年自己最高の7番手を獲得、決勝でも快走を見せて5位に入賞したのです。このレースは私もスタンドから観戦しておりましたが、観客の声援、応援の旗や手を振る様子などで琢磨選手のマシンがどこを走っているのかが分かるくらいサーキットが興奮のるつぼと化していました。日本グランプリで日本人が入賞するというのも久しぶりで、私もとても嬉しく、大いに感動したことを覚えています。
レース後の会見で、レースの勝者のM.シューマッハも「今日の勝者は二人いる。僕とタクマ・サトウだ」と言ったくらいですから「皇帝」シューマッハもルーキーの活躍を認めたレースだったのでしょう。
この年の日本グランプリには、個人的な思い出がもう一つあります。私はレース後も感動の中でなかなか帰りたくないという感じでサーキットで余韻にひたっており、帰りの列車に乗るために鈴鹿サーキット稲生駅に向かったのが少し遅くなりました。案の定、駅には既に列車を待つ長蛇の列ができています。これでは列車に乗れるのがいつになるか分かりませんでしたので、意を決して鈴鹿サーキット稲生駅から近鉄の白子駅まで歩くことにしました。
私のような考えのファンも相当数おりまして、1時間以上歩いて白子駅にたどりつきました。その後、近鉄の急行で名古屋に出て、名古屋でご飯を食べてその日のうちに帰京したのだと思います。白子駅まで歩いている間も、何かとても清々しいというか、楽しい気分だったのを覚えています。今、同じことをやれと言われても30分も歩かないうちに、膝が痛いとか、足が痛いとかなってしまいそうです。私も若かったということですね。体力は戻ってきませんが、あの頃の感性だけはサーキットに置き忘れることなく、これからも持ち続けたいですし、こういったレースにまた出会えることを祈りつつ、結びとしましょう。

2002年日本GPのプログラムをバックに、ホンダがサーキットで配布していたポストカードと、マシンの1/43ミニカーです。
10月に発売となっていますので、すでに読まれている方も多いとは思いますが「GPCarStory JordanEJ12(三栄書房)」についてです。
このGPCarStoryというのは、少し昔のF1マシンに毎号1車種ずつスポットを当て、マシンの解説、関係者の証言などを掲載しているシリーズです(たまにチームやドライバーなどでワンテーマにしている号もありますが)。
軍用機に興味のある方なら、こういった本ということですと、同じように毎号1機種を取り上げて刊行されている「世界の傑作機」というシリーズを思い浮かべる方もいるかと思います。
今回のJordanEJ12というのは、2002年にジョーダンチームがホンダと組んでグランプリを走ったマシンであり、佐藤琢磨選手のデビューマシンでもあります。
本書では、ドライバー(佐藤琢磨とG.フィジケラ)、デザイナーやエンジニア、ホンダ側のスタッフの証言などを通して、このマシンがどのような特性を持ち、どのように戦ったのかを紹介しています。また、このシリーズの他のマシンと同様、グランプリごとの細かな仕様の違いなども詳しく説明しています。
もちろんスポーツですから、ライバルも存在するわけで、このマシンが戦っていた中団グループのライバル、97年のチャンピオン・J.ヴィルヌーヴのインタビューも掲載されています。
当時の報道で、ジョーダンチームは懐事情が芳しくないようなことが伝えられていたのですが、そのあたりの内幕もチーム関係者のインタビューに書かれており、興味深く読みましたが、こういう話は「今だから話せる」ということなのでしょう。
日本のファンにとって、このマシンの活躍のハイライトは日本グランプリでの佐藤琢磨選手の5位入賞ではないかと思います。イギリスF3王者の称号を手に「飛び級」のF1デビューを果たした琢磨選手は「ついにF1で勝てる日本人が来た」という印象を抱かせるものがありました。日本でレースの経験を積んで、というのではなく、ヨーロッパのF3でタイトルを獲ってF1デビューというのは、他のチャンピオンたちがたどった道のりであり、デビューイヤーも大いに期待していたところでしたが、なかなかシーズン後半までいい結果を残せていませんでした。
このシーズンはM.シューマッハ(フェラーリ)の強さが圧倒的で、既に夏にはタイトルが決まり、最終戦の日本グランプリは言ってみれば消化試合なのですが、それでもホンダエンジンのマシンを駆る日本人ドライバーが母国に凱旋するということで、佐藤琢磨選手に期待が集まったわけです。この年はトヨタもF1参戦初年度でしたので「ジャパニーズ・パワー」が何かと注目を集める鈴鹿となりました。
地元ということもあって予選から好調を維持し、この年自己最高の7番手を獲得、決勝でも快走を見せて5位に入賞したのです。このレースは私もスタンドから観戦しておりましたが、観客の声援、応援の旗や手を振る様子などで琢磨選手のマシンがどこを走っているのかが分かるくらいサーキットが興奮のるつぼと化していました。日本グランプリで日本人が入賞するというのも久しぶりで、私もとても嬉しく、大いに感動したことを覚えています。
レース後の会見で、レースの勝者のM.シューマッハも「今日の勝者は二人いる。僕とタクマ・サトウだ」と言ったくらいですから「皇帝」シューマッハもルーキーの活躍を認めたレースだったのでしょう。
この年の日本グランプリには、個人的な思い出がもう一つあります。私はレース後も感動の中でなかなか帰りたくないという感じでサーキットで余韻にひたっており、帰りの列車に乗るために鈴鹿サーキット稲生駅に向かったのが少し遅くなりました。案の定、駅には既に列車を待つ長蛇の列ができています。これでは列車に乗れるのがいつになるか分かりませんでしたので、意を決して鈴鹿サーキット稲生駅から近鉄の白子駅まで歩くことにしました。
私のような考えのファンも相当数おりまして、1時間以上歩いて白子駅にたどりつきました。その後、近鉄の急行で名古屋に出て、名古屋でご飯を食べてその日のうちに帰京したのだと思います。白子駅まで歩いている間も、何かとても清々しいというか、楽しい気分だったのを覚えています。今、同じことをやれと言われても30分も歩かないうちに、膝が痛いとか、足が痛いとかなってしまいそうです。私も若かったということですね。体力は戻ってきませんが、あの頃の感性だけはサーキットに置き忘れることなく、これからも持ち続けたいですし、こういったレースにまた出会えることを祈りつつ、結びとしましょう。

2002年日本GPのプログラムをバックに、ホンダがサーキットで配布していたポストカードと、マシンの1/43ミニカーです。