日本のモータースポーツの第一人者として、昭和30年代から活躍を続けてきた高橋国光さんが先日亡くなられました。温厚な性格で「国さん」の愛称でも親しまれました。謹んでご冥福をお祈りいたします。私のような若輩者が拙ブログで氏の功績をご紹介するなどとてもおこがましいのですが、経歴をご紹介しますと、輪業店に生まれて中学卒業後、オートバイ店への丁稚奉公(!)を通じて、オートバイと出会います。最初は2輪のライダーとしてホンダのマシンに乗り、世界GPでも5勝を飾ります。ドイツでの優勝(250cc)は、今日まで続く日本のライダーが海外で挙げた勝利としては初めてのものでした。ご本人は125ccで優勝した北アイルランドでのレースの方が競り合って手にしたものだったので印象深い、と後に語っています。ちなみに当時のホンダは二輪のグランプリチームの前線基地をオランダに置き、そこから欧州各国を転戦するスタイルをとっていました。
(日本人として初優勝を遂げたマシンRC162)
後に4輪に転向(2輪から4輪に転向という例は、2輪とF1の両方のチャンピオンとなったジョン・サーティースを筆頭に、昔は決して珍しくありませんでした)し、日産のワークスを皮切りに各カテゴリーで活躍しました。F1にも一度だけスポット参戦しており、1977(昭和52)年の富士で行われた2年目のF1日本GPに中古のティレルで出走、9位完走を果たします。この時の「国さん」は実に37歳でのF1デビューでした。この決勝の順位ですが、前年の高原の9位と同じく、1987年に中嶋悟の7位という記録が生まれるまで、日本人のF1デビュー戦の最高順位でした。このレースでは予選でコスワースDFVエンジン不調に悩まされるも、決勝ではエンジンも復調する中、無理せずステディに走りトップのハントから2周遅れのゴールでした。また、翌78年にはF2のJAFGPでは、既にF1ドライバーだったパトレーゼ、アルヌー、F1進級間近だったジャコメリ、ピローニ、ワーウィックといった当時の欧州の若手、もちろん国内のライバル、星野、中嶋、長谷見、桑島といったドライバー達に勝ち、JAFGPという当時のビッグレースを制しました。鈴鹿サーキットの名コーナー、デグナーでパトレーゼをかわすという本人曰く「ヨーロッパ的な戦法」でライバルの前に出るということもしています。
特に私の記憶にあるのは、既に50代でありながら全日本F3000で表彰台に上がったり、1995(平成)7年にはル・マン24時間のクラス優勝を遂げたときのことで、後者についてはNSXを駆り、飯田章、土屋圭市といったある意味きわめて日本的なドライバーと成し遂げた快挙と私の目には映りました。ドライバーを引退後も、スーパーGTの監督としてサーキットに立ち続け、近年もF1の元チャンピオン、ジェンソン・バトンと山本尚貴のコンビでタイトルを獲得しています。
(ル・マンクラス優勝車 NSX)
(スーパーGT2018年タイトル獲得車)
「国さん」のエピソードで印象に残っていることにこんな話があります。2輪時代の若き日、イギリスのマン島のレースに出場していたときのことです。マン島のレースは公道を利用して島を一周するような長いコースのため、選手たちは島に長く滞在し、走り込みをしていました。1960年代のことですから、日本人選手は珍しさもあって人気があったそうです。そんな中で現地の女性と恋に落ち、「クニ」と呼ばれ一緒に時間を過ごすこともあったようです。ところが1962(昭和37)年、レースで転倒して重傷を負うというアクシデントに見舞われました。そんな中でも恋人が毎日見舞いに訪れたほどだったそうで、本人も「精神的な支えになった」と語っています。残念なことに翌年はマン島での出走もかなわず、その後は日本国内が主戦場となったため、二人の仲はそこでフェードアウトしたのですが、それから30年余りが経った1995年にNHKの番組の企画で現地を再訪した際に、負傷して入院した際の主治医と再会しただけでなく、当時の恋人とも再会を果たしています(私もこの番組を観た覚えがあります)。その時に当時の恋人から一冊のスクラップブックを受け取っています。そこには、欧州で活躍する若き日の国さんの活躍ぶりが掲載された現地の新聞記事が残されていたそうです。ずっと取っておいてくれて、感動したと語っています。
マン島での負傷のこともあって、事故が起きた時の対応でも称賛されることがありました。F2000で周回遅れにしようとした選手がクラッシュしてマシンから出られなくなった際も、トップを走行していたにも関わらず自らマシンを止めて救出する、といったこともありました(このレースはここで終了し、結果的に優勝となりました)。残念なことに1986(昭和61)年のル・マンではチームメイトのヨー・ガルトナーを亡くすということもありました。本人も「クラッシュでドライバーが死んでしまうと、原因はドライバーと一緒に消えてしまう。その意味でも死んではいけない」と語っており、安全性は向上しているものの、他のスポーツと比べて命の危険に関わる確率が高い世界に長年身を置く人ならではの言葉と思いました。
レース以外の話も書きましたが、1960年代初頭に海外で活躍するスポーツ選手は皆無に等しく、野球でいえば"マッシー"村上雅則投手が大リーグデビューを果たしたのが1964年で、これも例外的なもので、まだまだ海外と日本の交流も少ない時代でしたから、「国さん」の先駆者としての功績は大きいと思います。鈴鹿サーキット建設の折にも設計アドバイザーとなったジョン・フーゲンホルツ氏の来日に合わせて予定地の現地視察に同行しているほか、鈴鹿、富士とも初期の頃から優勝者のリストに名を連ねており、現役を退いた後も監督として第一線に立ち続けました。つまり、戦後日本のモータースポーツの発展と共にサーキットにその姿があったわけですから、その訃報が一般紙のスポーツ欄のベタ記事で収まるような方では無かったと思っています。若き日にヨーロッパで活躍した功績や、国内のサーキットで時には海外勢を迎え撃ったスピリッツがあったからこそ、今日の日本のモータースポーツがあるのだと思います。
なお、青山のホンダウェルカムプラザでは、4月3日まで生前ゆかりのマシンなどが展示されています(記事の写真)。
こちらはミニカーですが、1977年日本GP出走車のティレル007(スパーク1/43)。前年に星野一義がドライブしたマシンと伝えられています。
(参考文献 日本の名レース100選008 '78 JAF鈴鹿GP、日本の名レース100選068 '77日本GP、F1倶楽部№20 特集「レーサーの恋」、「鈴鹿サーキット開場50周年記念アニバーサリーデー・オフィシャルブック&全レース優勝者総覧」、Number 700号)
(日本人として初優勝を遂げたマシンRC162)
後に4輪に転向(2輪から4輪に転向という例は、2輪とF1の両方のチャンピオンとなったジョン・サーティースを筆頭に、昔は決して珍しくありませんでした)し、日産のワークスを皮切りに各カテゴリーで活躍しました。F1にも一度だけスポット参戦しており、1977(昭和52)年の富士で行われた2年目のF1日本GPに中古のティレルで出走、9位完走を果たします。この時の「国さん」は実に37歳でのF1デビューでした。この決勝の順位ですが、前年の高原の9位と同じく、1987年に中嶋悟の7位という記録が生まれるまで、日本人のF1デビュー戦の最高順位でした。このレースでは予選でコスワースDFVエンジン不調に悩まされるも、決勝ではエンジンも復調する中、無理せずステディに走りトップのハントから2周遅れのゴールでした。また、翌78年にはF2のJAFGPでは、既にF1ドライバーだったパトレーゼ、アルヌー、F1進級間近だったジャコメリ、ピローニ、ワーウィックといった当時の欧州の若手、もちろん国内のライバル、星野、中嶋、長谷見、桑島といったドライバー達に勝ち、JAFGPという当時のビッグレースを制しました。鈴鹿サーキットの名コーナー、デグナーでパトレーゼをかわすという本人曰く「ヨーロッパ的な戦法」でライバルの前に出るということもしています。
特に私の記憶にあるのは、既に50代でありながら全日本F3000で表彰台に上がったり、1995(平成)7年にはル・マン24時間のクラス優勝を遂げたときのことで、後者についてはNSXを駆り、飯田章、土屋圭市といったある意味きわめて日本的なドライバーと成し遂げた快挙と私の目には映りました。ドライバーを引退後も、スーパーGTの監督としてサーキットに立ち続け、近年もF1の元チャンピオン、ジェンソン・バトンと山本尚貴のコンビでタイトルを獲得しています。
(ル・マンクラス優勝車 NSX)
(スーパーGT2018年タイトル獲得車)
「国さん」のエピソードで印象に残っていることにこんな話があります。2輪時代の若き日、イギリスのマン島のレースに出場していたときのことです。マン島のレースは公道を利用して島を一周するような長いコースのため、選手たちは島に長く滞在し、走り込みをしていました。1960年代のことですから、日本人選手は珍しさもあって人気があったそうです。そんな中で現地の女性と恋に落ち、「クニ」と呼ばれ一緒に時間を過ごすこともあったようです。ところが1962(昭和37)年、レースで転倒して重傷を負うというアクシデントに見舞われました。そんな中でも恋人が毎日見舞いに訪れたほどだったそうで、本人も「精神的な支えになった」と語っています。残念なことに翌年はマン島での出走もかなわず、その後は日本国内が主戦場となったため、二人の仲はそこでフェードアウトしたのですが、それから30年余りが経った1995年にNHKの番組の企画で現地を再訪した際に、負傷して入院した際の主治医と再会しただけでなく、当時の恋人とも再会を果たしています(私もこの番組を観た覚えがあります)。その時に当時の恋人から一冊のスクラップブックを受け取っています。そこには、欧州で活躍する若き日の国さんの活躍ぶりが掲載された現地の新聞記事が残されていたそうです。ずっと取っておいてくれて、感動したと語っています。
マン島での負傷のこともあって、事故が起きた時の対応でも称賛されることがありました。F2000で周回遅れにしようとした選手がクラッシュしてマシンから出られなくなった際も、トップを走行していたにも関わらず自らマシンを止めて救出する、といったこともありました(このレースはここで終了し、結果的に優勝となりました)。残念なことに1986(昭和61)年のル・マンではチームメイトのヨー・ガルトナーを亡くすということもありました。本人も「クラッシュでドライバーが死んでしまうと、原因はドライバーと一緒に消えてしまう。その意味でも死んではいけない」と語っており、安全性は向上しているものの、他のスポーツと比べて命の危険に関わる確率が高い世界に長年身を置く人ならではの言葉と思いました。
レース以外の話も書きましたが、1960年代初頭に海外で活躍するスポーツ選手は皆無に等しく、野球でいえば"マッシー"村上雅則投手が大リーグデビューを果たしたのが1964年で、これも例外的なもので、まだまだ海外と日本の交流も少ない時代でしたから、「国さん」の先駆者としての功績は大きいと思います。鈴鹿サーキット建設の折にも設計アドバイザーとなったジョン・フーゲンホルツ氏の来日に合わせて予定地の現地視察に同行しているほか、鈴鹿、富士とも初期の頃から優勝者のリストに名を連ねており、現役を退いた後も監督として第一線に立ち続けました。つまり、戦後日本のモータースポーツの発展と共にサーキットにその姿があったわけですから、その訃報が一般紙のスポーツ欄のベタ記事で収まるような方では無かったと思っています。若き日にヨーロッパで活躍した功績や、国内のサーキットで時には海外勢を迎え撃ったスピリッツがあったからこそ、今日の日本のモータースポーツがあるのだと思います。
なお、青山のホンダウェルカムプラザでは、4月3日まで生前ゆかりのマシンなどが展示されています(記事の写真)。
こちらはミニカーですが、1977年日本GP出走車のティレル007(スパーク1/43)。前年に星野一義がドライブしたマシンと伝えられています。
(参考文献 日本の名レース100選008 '78 JAF鈴鹿GP、日本の名レース100選068 '77日本GP、F1倶楽部№20 特集「レーサーの恋」、「鈴鹿サーキット開場50周年記念アニバーサリーデー・オフィシャルブック&全レース優勝者総覧」、Number 700号)