工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

T-TRAKジオラマ ローマ・マエストラーレ通りを作る(10)

2024年10月23日 | T-TRAKジオラマ ローマ・マエストラーレ通り

 久々にこちらに戻ってきました。今回からは人形や自動車といった街を彩るアクセサリー類を、建物や場所別に書いてまいります。

10-1 映画館

「オリオン座」では「さらば友よ」と「狼の挽歌」が上映されていますが、左側にはこれからチケットを買おうとしている男が、そして出入口には映画館から出てきたような感じの男が2人います。気分だけはチャールズ・ブロンソンです。

建物の上にも誰かいますね。

幕間で時間ができたのか、椅子を持ち出して座る男。この映画館の映写技師でしょうか。その昔、TOMIXがプライザーの人形を販売していたときの中の一体です。パイプか何かを口にくわえています。ニューシネマ・パラダイスでフィリップ・ノワレが演じた映写技師アルフレードをどこか意識して配置しました。

そして建物の縁に座るこの男は・・・

果たして何者なのでしょうか。これは某時代劇にストーリーとは関係ないところで出てくる「屋根の男」を意識しています。

 

10-2 新聞スタンドとワゴン車

新聞スタンドは以前ご紹介しました。新聞を選ぶ客、既に買い物を済ませてスタンドを後にする客(右)とさまざまです。

自動車は昔TOMIXから発売されていたクラウンのワゴンで、正直あまり似ているとは言い難いのですが、成形色ではなく、緑色系のメタリックを塗って、灯火類を色差ししました。

10-3 バール周辺

 

バールの前に停めた赤い車ですが、トミーテック「カーコレクション」に「ハコスカ」こと昔のスカイラインが入っておりまして、こちらをいじって(主にフロント部のライトやエンブレムなど)、アルファロメオ・ジュリア風にしました。塗装も一度はがして塗りなおしています。丸く大きなライトはプラ材から、逆三角形のアルファロメオのエンブレムはプラ板を小さく切り出しています。赤い車の手前、上着をなびかせてバールから飛び出した男はこちらもTOMIXが昔プライザーと組んでいた頃のおなじみ「歩行者 下町」のセットの一体です。

 

10-4 ホテル周辺

ホテル・マエストラーレの前には一台のタクシーが停まっています。ちょうどお客さんを下ろし、次のお客さんが乗り込もうとしているのでしょうか。こちらはTOMIXから昔出ていたクラウンのタクシーです。ローマのタクシーはみなアイボリーに塗られていて、このジオラマに登場するタクシーはみなGMカラー21番のアイボリーAに塗られています。灯火の部分は黄色です。TAXIの文字は自作デカールによります。

 

10-5 デパート「COIN」周辺

小さなデパートの横にもタクシーが横付けされています。こちらはカトーの「90年代日産車」よりセドリックを塗り替え、行燈を別に取り付けたものです。イタリアでは流しているタクシーを捕まえる、ということはあまりなく、広場などに「タクシー乗り場」が用意されていて、タクシーが何台も客待ちしていることが多かったと思います。もうちょっと大きなサイズでジオラマを作っていれば、車種も多種多様なイタリアのタクシーを再現できたところです。日本のようにジャパンタクシーか、クラウンかセドリックあたりでおしまい、ということはなく、イタリアのタクシー実にさまざまな車輌が使われています。冷房のほとんど効いておらず、シートも安っぽくて車内が埃っぽいフィアットもあれば、アウディのワゴンに乗ることができて今日はラッキー!という日もありました。フィアット・ムルティプラなんていう珍しいくるまに出くわすこともありました。

 

小ネタ満載、マエストラーレ通りのくるまと人形の話はしばらく続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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2024国際航空宇宙展に行ってきました

2024年10月19日 | 飛行機・飛行機の模型

 東京ビッグサイトで開催の「2024国際航空宇宙展」を見てまいりました(10/19まで)。私が見た日はトレードデーということで、一般の方は入ることができません。本業で関係のある企業が出展されていたこともありまして、トレードデーに見ることができました。

本業もまじめに勤めを果たしてきましたが、私の興味の範囲内どころか、趣味の対象ですから趣味人目線にもなってしまいます。そんな中でいくつか写真を撮ってきました。

入り口にあった「はやぶさⅡ」の模型

企業ブースで目立っていたのがこちら。川崎重工のドクターヘリ

内部も観ることができます。この実機、どうやって会場に運び込んだのかなあ

川崎のブースにはC-2輸送機、P-1対潜哨戒機の大型模型もありました。

 

スバル(富士重工)には

UH-2のモックアップ

 

さらには、空飛ぶ車(左)とスバル360

 

こちらは日・英・伊の共同開発が予定されている次期戦闘機

共同開発は大概、紆余曲折がありますので、開発が順調に進むことを祈りましょう。

 

航空自衛隊のブースにはこんな模型が・・・

退役の近いC-1輸送機の模型でした。

IHIの展示はほとんど撮影禁止でしたが、こちらは撮影できました。以前ご紹介したジェット機・橘花の「ネ20」エンジン

ノースロップ工科大の貸与品であることを示すプレート

 

民間航空関連の展示も多くありました。JAL、ANAはビジネスクラスのシート体験などができたようです(仕事で来ているのでそこまで体験しませんでしたが)。

旅客機つながりでこちらは旅客機が地上で移動する際に使うmototok spacer。前輪を乗せてリモコンでプッシュバックできるようです。

 

海外勢の展示もたくさんありました。

韓国、KF-21戦闘機。

アメリカは大きなパビリオンに主に軍事関連の展示を出していましたし、エアバス、BAE、レオナルドといった飛行機好きにはおなじみの企業の展示もありました。

宇宙関連も・・・

月着陸実証機。月面は探査計画がいくつかありますので、月面用のビークルなども含め、展示をいくつかみかけました。

H3ロケットの模型

最終日の「トレード・パブリックデー」では一般向けのイベントも行われるようです。

今では「国際航空宇宙展」となっていますが、昔はこのイベント「国際航空宇宙ショー」として入間基地などで開催されていました。1976年のショーは9日間にわたって開催され、F-14、F-15が次期戦闘機の売り込みのためにフライトを行うなど、とても華やかだったと聞きます。このあたりの話は、月刊誌モデルアートのライターだった黒須吉人さんがレポートされています。ちなみにこの年のショーの最終日は朝からずっと雨でフライトがなく・・・とあり、調べてみたらショー最終日の10月24日は富士でF1が初開催され、ふりしきりる雨の中、レースをやるかやらないかで協議が重ねられ、午後しばらく経ってようやくレースがスタート、劇的なタイトル決定という日でもありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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鉄道開業時のレール

2024年10月14日 | モノものがたり

私のような趣味人というのは多分にコレクター気質もございまして、長く趣味を続けてまいりますと、さまざまなものが手元に集まってまいります。
そんな私の周りにあるものから、趣味に因んだ珍しいものやおもしろいものをご紹介するのが「モノものがたり」です。

今日は「鉄道の日」ということで、それに因んだものを紹介したいと思います。

こちらでございます。

この画像にピンと来た方は鉄道の歴史に詳しい方かと思います。これは、明治初期に鉄道が開通した際に輸入されたレールをスライスしたものです。通常のレールと何か違いますね。通常のレールならば片側(下側)が広く平らになっていますが、こちらは上下ともに車輪と接する面になっています。

こういったレールを「双頭レール」と呼び、鉄道開業時の日本にイギリスからもたらされたものでした。ダーリントン・アイアンというメーカーのもので、双頭式にすることで片側が摩耗しても上下逆さにして使える、ということでしたが、実際には摩耗の関係で片側しか使えなかったそうです。このため、双頭レールはダーリントン製の一部に限られ、ほどなくして平底型の(我々がよく知っている)形のレールが入ってきました。この中にはダーリントン製のものもあったそうです。失敗だった、ということなのでしょうね。一般的ではない錬鉄製というのも珍しいところです。

役目を終えたこれらのレールはホームの屋根を支えたり柵になったりと第二の人生を歩むわけですが、鉄道とは関連の無い建物の基礎や柱になつたものもありました。有名なところでは三越大阪店を解体した際に建物の基礎としてこのレールが使われていたことが判明したということで、特に第一次大戦時やその直後は鉄材も相当不足したと言いますから、役目を終えたレールは格好の材料となったことでしょう。今でもウクライナ紛争などで半導体が不足している、という話を聞きますが、歴史は違う形で繰り返すのです。

さて、このレールですが、役目を終えた後で国鉄(当時)の静岡鉄道管理局に保管されていたものだそうですが、昭和44年に切断されて倉庫に眠っていたと商品説明にあります。

私も古いレールを見つけにあちこちに出かけておりますが、双頭レールがスライスされて売られていると聞きまして、飛びついたわけです。「毒食らわば皿まで」なんていう言葉を思い出しましたが、鉄道開業時のレールの実物に行きつくとは、どこか必然だったのでは、と我ながら思いました。

 

今日(10月14日)は鉄道の日、ということで新橋~横浜間に鉄道が開通してちょうど152年目に当たります。入手したのが去年でしたので、鉄道150年に間に合わなかったわけですが「モノものがたり」に相応しいと思いまして採り上げた次第です。

 

今夜は家人と子供がいないのをいいことに、簡体字の看板と中国語が飛び交い、今や「ここは上海か重慶か」といった風情の高田馬場の街を歩き、知り合いのビアバーに向かいました。いつもならテレビに映している野球中継も今夜はありません。代わりに「みんなの鉄道」を流していました。旅情あふれる風景を肴に一杯いただき、ご主人がその昔、ヨーロッパでクシェット(簡易形の三段寝台)で大変な目にあったという話を聞きながら、旅に思いをはせておりました。

 

 

 

 

 

 

 

 


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あの日、俺たちは佐藤琢磨の表彰台を信じていた 2004年日本グランプリ

2024年10月14日 | 自動車、モータースポーツ

 昨日に引き続き2004年のBAR006ホンダをめぐる話です。2004年シーズンはミハエル・シューマッハが独走でタイトルを獲得、実に5年連続の王座となりました。そんな中で迎えた日本GPでしたが、いきなり不穏な空気に包まれます。台風22号が接近していて、週末には中部地方を直撃するのでは、と言われていました。

(2004年日本GP プログラム)

 初日の金曜日から既に強い雨となっていました。私はグランドスタンドにいましたが、当時は屋根のある席は限られており、私は野ざらしでベネトンのポンチョを被り、背もたれの無いベンチシートで見守りました。雨具がきかないほどの強い雨で心も折れます。おそらく、サーキットにいる時点で耳にしたとは思いますが、土曜日は台風が接近するのでサーキットは閉鎖します、予選と決勝を日曜にまとめて行います、ということでF1史上初めての「ワンデーレース」となりました。金曜日にいつまで私がサーキットにいたかは覚えていませんが、津まで伊勢鉄道で出て、近鉄特急に乗った途端にすごくほっとした気分だったことはよく覚えています。

 名古屋も台風が接近している、ということであわただしくなっていました。特にメディアなどで「伊勢湾台風以来」という言葉が聞かれたのでなおさらです。確かに予想進路が伊勢湾台風のそれと酷似していましたので、中京地区の人にとっては昔の話なれど、やはり「これは大変だぞ」という気持ちになったことでしょう。しかし、近年のように交通機関が計画運休する、とかお店を閉める、といったことは少なかったように思います。ホテルは繁華街の栄にありました。今は無くなってしまったようですが、古めかしい感じで、鉄の扉にアクリルの棒状のキーホルダーという、なんとも風情のあるお宿でした。当然オートロックでもなかったような・・・。雨で濡れたズボンを乾かし、靴に新聞紙を沢山詰めて何度も取り換えて・・・と思わぬ金曜日の夜を過ごしました。気温も下がってまいりまして、サーキットで買ったルノーのパーカーが役に立ちました。

 さて、これで土曜日の予定が丸々空いてしまいました。長久手にあるトヨタの博物館が開いているようだったので、地下鉄に乗って行ってみました。同じような理由で訪れている方も見かけました。初めての訪問でしたが、珍しい車もたくさんあって興味深かったです。台風は当初より東寄りにコースを取りましたので、静岡、関東で被害をもたらします。この土曜日に日比谷野外音楽堂でT-SQUAREの公演が予定されていましたが、当然中止になりました。私の友人夫妻が霞が関まで行ってやっぱり中止だと知って帰った、と後で教えてくれました。

 名古屋駅前の百貨店も開いていて、少し遅めの昼を食べてホテルに戻りました。それでも時間が空いています。途中のコンビニで買った食玩の飛行機を組み立てたり(あの頃は食玩をコンビニでよく見かけました)、ホテルの中のテナントにマッサージのお店があって、服を着たままマッサージできます、ということで体の疲れをほぐしてもらったりしました。栄で晩御飯を食べ、初のワンデーレースに向けて英気を養いました。サーキットにいたドライバー達もそれぞれのお休みを過ごしたようで、M.シューマッハは遊園地・ホテル併設のボウリング場で楽しんだ、という記事を見かけました。自由席で観戦される方の中には徹夜で場所取りとか、オートキャンプ場で夜を過ごす方もいましたが、どこで、どうやって一夜を明かしたのか、みなさん大変だったと思います。

 日曜日はJRと伊勢鉄道を使ってサーキットに着いたと思います。GPスクエアと呼ばれる広場でT-SQUAREがリハーサルをしています。野音の中止の後でどうやってここまで来たのか不思議です。T-SQUAREは特設ステージでミニライブを行い、私も観ました。

(リハーサル風景・安藤正容さん(左・ギター)、伊東たけしさん(中央・ewi)の姿が見えます)

 午前9時からの予選は当初ウェット路面でしたが、次第に乾き始めてドライコンディションになりました。ポールはミハエル・シューマッハ、そして2位に弟のラルフ・シューマッハ、3位がジャガーのマーク・ウェバー、4位に佐藤琢磨、5位にジェンソン・バトンと続きます。日曜午前にはサポートレースや、ホンダの初参戦40年を記念したパレードランが予定されていましたが、確か両方とも中止になったのではないかと思います。佐藤琢磨は4位でしたが、ウェバーなら前に出られそうですし、もしかしたらラルフ・シューマッハのウィリアムズにも勝てるんじゃないか、と思っていました。

(予選に向かうM.シューマッハ)

 

(BAR・ホンダのピット)

 

(ウィリアムズ・BMW ラルフ・シューマッハのマシン。白と紺のBMWカラーはすっきりとしていて好きでした)

 

(今も2コーナーあたりはジャパンパワーの応援席ですが、このときも琢磨の応援席がありました)

 

(グリッド上に向かうメカニックたち。BARの外国人メカニックはハチマキしています)

 

(ピットレーンの出口が良く見える席でしたので、ピットスタートのミナルディチームのマシンが見えました。ミナルディのバウムガルトナーは琢磨が3位に入ったアメリカGPで8位に入賞。これがシーズン中チーム唯一のポイントでした)

 

 決勝は午後2時半スタートでした。スタートが良かったのはバトンで、琢磨とウェバーを抜いて一気に3位に上がります。バトンに前を押さえられてしまったことで、バトンより1回多いピットストップ・給油戦略を取っていた琢磨は不利な展開です。

(フェラーリ・シューマッハに対するサインボード 現在1位、4.6秒後方にラルフ(シューマッハ)、14.3秒後方に佐藤(琢磨)、9周目 という表記です)

 一度は琢磨も3位に立ちましたが、バトンに逆転され、結局レースはそのままむの展開で進み、M.シューマッハが一度もラップリーダーを渡すことなく勝利。2位に弟のラルフ・シューマッハが入り、兄弟での1-2という結果が生まれました。3位にバトンが入り、佐藤琢磨が4位でした。地元鈴鹿で期待されていた表彰台に届かず、私も嬉しかったというよりも残念な気分になりました。もし、角田裕毅が4位に入れば、今なら大騒ぎでしょうが、この時の佐藤琢磨に関しては「琢磨ならもっと上に行けたはず」と当時の私は思っていたわけです。

 表彰式もそこそこに名古屋に戻りました。日曜も名古屋に泊っていたかもしれません。長く感じるグランプリの週末でした。

 この後、私は上下別になっている雨具を買い、雨の予報がなくとも荷物に入れるようになりました。ちなみに今使っているのはワークマンのものです。雨への対処は秋開催だろうが春開催だろうが求められますので、雨具だけでなくバッグをカバーで覆ったりとか、いろいろなことをしています。

 ワンデーレースはその後も日本GPをはじめ、いくつかのグランプリで行われています。それだけ気候変動でひどい天気になることが多くなっているわけでもあります。史上初のワンデーレース、さらに史上初めて同じ日にポールポジションと決勝の優勝を果たした、M.シューマッハのレースを目撃したというのは貴重な機会となりました。

 

ホンダ参戦40年を記念した展示から

1966年デビューのRA273 タミヤの1/12キットでおなじみです。あまり見かけない感があります

 

第二期初期のマシン スピリット・ホンダ

 

エンジンなどが入っていない展示用と思われますが、マシンも随分みかけました。

BARホンダ

 

オリンパスのブースにフェラーリのマシンがありました。中継のスポンサーにもなっていましたっけ。

 

マクラーレン・メルセデス

 

マイルドセブンはルノーを支援していました。以前は試供品(当然タバコですが)を配っていたこともありました。

 

トヨタもワークス参戦していました。

 

日本GP仕様としてミニカーも後日発売されました。

(タバコ広告禁止はミニカーの世界にもおよび、本来ならあるはずの「ラッキーストライク」の広告はありません)

 

20年前は今よりも不便なところは多かったし、トイレは仮設が並ぶ野外フェス状態でしたが、それでもまだ企業ごと、自動車メーカーごとのオリジナリティのある展示があったりして、それはそれで楽しかったものです。パチモンすれすれだったり、F1と直接関係ないけど自動車ネタのグッズも見かけました。残してあった当時のチケットを見たら、この20年で値段も倍、場所によってはそれ以上になっています。俺の給料、倍になっていないのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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あの日、俺たちは佐藤琢磨の初優勝を願っていた BAR006と2004年のF1シーズン

2024年10月12日 | 自動車、モータースポーツ

 今日からしばらくジオラマの話は横に置き、別のネタになりますがご了承ください。

 いつもならこの時期はF1日本GPのお話を書いているわけですが、ご存じのとおり日本GPは今年から春開催となりました。今日はちょうど20年前の2004年シーズンに活躍したマシンとドライバーの話です。

 三栄のGPCar Storyが夏にBAR006というマシンを特集しました。こちらはホンダ第3期にホンダエンジンを積んで好走したマシンです。BARというのは「ブリティッシュ・アメリカン・レーシング」のことでラッキーストライクや「555」といったタバコでおなじみの「ブリティッシュ・アメリカン・タバコ」がスポンサーとなり、当初はジャック・ビルヌーブ(1997年年間王者)のためのチームでした。ホンダの第三期参入の際では、こちらとジョーダン・チームと組んでおりましたが、2003年時点ではジョーダンとのジョイントは外れ、ホンダがエンジン供給をBARに一本化しています。

 ドライバーはジェンソン・バトンと佐藤琢磨でした。琢磨は2002年にジョーダンでデビュー、2003年は「浪人中」でしたが、最終戦からビルヌーブの代わりにBARに加入、日本GPで6位に入る活躍をしています。バトンは20歳で鳴り物入りのデビューから5年目でしたが、この時点では表彰台に上がることはありませんでした。

 果たしてBAR006ですが、開幕前からなかなかの好調ぶりが伝えられ、シーズン入りしてその実力が証明されます。シーズン序盤のマレーシアを皮切りにバトンが10回の表彰台、佐藤琢磨も9度の入賞、そのうち1回はアメリカGPでの3位表彰台ということで、優勝こそありませんでしたがバトンはランキング3位、佐藤琢磨は8位で、コンストラクターズでも2位ということで、フェラーリ(シューマッハが18戦13勝と圧倒しました)に次ぐ成績で締めくくりました。

 本書ではいつものように、ドライバー、チーム関係者らの証言から、このマシンを紐解いています。バトンは「優勝できてもおかしくないくらいのマシン」と評していますし、佐藤琢磨にとってもリタイアが多いとは言え(しかもエンジンが理由と言うことがバトンよりも多く、ファンはそのたびに落胆したものです)、勝利を狙える位置でのレースはやはり充実したものだったことがうかがえます。マシンが良くなった理由に、空力面などの車体開発、エンジンの改良、ミシュランタイヤへの変更など、さまざまな要因が上手く重なったことが挙げられます。確かに車体は奇をてらわず、オーソドックスなつくりではありますが、見えないところでの工夫も随分となされていたようです。また、ミシュランへの変更については、ブリヂストンが事実上フェラーリの「ワークス」だったこともあり、このままでは勝てない、という思いがあったようです。個人的には「オールジャパン・パッケージ」に憧れたのですが・・・。テストドライバーりアンソニー・デビッドソンもミシュランとのマッチングの良さを挙げています。

 ジェンソン・バトンに対しては「俺が俺が」というタイプのドライバーではないところがあったとは言いますし、この時点ではタイヤの「使い方」は後にタイトルを獲ったアロンソなどに比べると上手ではなかった、という声もあります。しかし、バトンにとってはキャリア初の表彰台から表彰台の常連へあっという間、ということで大きな飛躍の1年となりました。ただ、このチームで優勝するのは2006年まで待つことになりますし、さらにタイトルを獲るのは2009年のことになります。

 佐藤琢磨のエンジンばかりが壊れる、というのは、ホンダのスタッフのインタビューなどではシフトアップ、シフトダウンでエンジンに悪影響を与える「魔の共振域」があり、その回転数でエンジンをホールドすると壊れてしまうということで、琢磨がその回転数を使うことが原因だったのでは、という分析もあるようですが、明確な答えにはなっていないようです。それでも、ニュルブルクリンクでは予選2位、インディアナポリスでは予選3位、決勝3位ということで、それ以外にも予選でトップ10以内が当たり前になっていましたので「今日はもしかしたら勝つかも」とか「今日はだめだったけど次はきっと」という期待を抱かせてくれるのでした。1994年の片山右京もそんな場面がありましたが、それ以上に表彰台、優勝が「夢ではない」と思わせてくれたのでした。日本人が表彰台に立ったのが1990年日本GPの鈴木亜久里以来ということで、日本GP以外での日本人の表彰台というのも2024年10月時点では唯一となっています。佐藤琢磨が表彰台に立ったインディアナポリスですが、琢磨が後にインディカーに参戦して二度の優勝を遂げたインディ500のコースの一部を拝借し、インフィールドにコーナーを配したつくりとなっていましたので、あまり高低差はありませんでした。それにしてもインディアナポリスと縁があるようですね。

 このシーズンを振り返ると、改めて「ジャパン・パワー」が何らかの形でサーキットにあふれていた時代だな、と思いました。ホンダだけでなく、トヨタはコンストラクターとして参戦していますし、ルノーはマイルドセブンの水色をまとっていました。タイヤにはブリヂストンがミシュランと「もう一つのバトル」を繰り広げていました。また、本書で興味深かったのは、ホンダのエンジニア、メカニックの中にその後も何らかの形でF1に関わっている人が多いことで、第4期で苦労の末、レッドブルと共に頂点に立った田辺豊治氏をはじめ、ハースの現代表・小松礼雄氏も当時はこのチームに関わっていました。

 その後のBARとホンダの関係ですが、最終的にホンダがBARのチームの株式を取得して、オール・ホンダが1968年以来誕生しました。2006年には一勝を挙げることができましたが、リーマンショックに端を発した恐慌もあり、ホンダは2008年で一度撤退します。BARではエンジン側と車体側の融合というか、開発の方向性でもなかなか足並みがそろわなかったのですが、車体もエンジンも、となった後も同じでした。2008年にロス・ブラウンがチームに加入、ここでみんなの方向性を一つに擦り合わせることが行われ、それがホンダ撤退後の「ブラウンGP」の成功に繋がっていくのが何ともやるせない感があります(ブラウンGPについては拙ブログでも書きましたが)。

 チームを指揮しながら、ホンダにすべて渡すことになったデビッド・リチャーズチーム代表のインタビューも一読の価値ありです。ビルヌーブのチームだったはずが、そのビルヌーブをクビにして、というくだりが「そういうことして追い出したのね」と思いましたし、それはビルヌーブとしばらく口を聞かなかったのもむべなるかな、という感じがしました。

 このシーズンはシューマッハ13勝、バリチェロ2勝、モントーヤ、トゥルーリ、ライコネンが各1勝ではありましたが、未勝利のBARがコンストラクターズ2位に入ったということは、チームのドライバー2人がいかによく頑張ったかを示しています。

 さて、このシーズンと言いますと、どうしても日本GPのことを書きたくなります。続きは次回に書きましょう。

1/43のミニカーです(ミニチャンプス製)。鈴鹿サーキット別注のものを購入しています。ラッキーストライクの「赤丸」部分がバーコードになっています。サーキットでタバコ広告を見かけることができたのはこの頃までです。

 

 

 

 

 

 

 

 


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