工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

日の丸をまとった異端の翼 拾遺

2020年03月29日 | 飛行機・飛行機の模型
 バンパイア練習機のことを書いてまいりましたが、ともにテストに供されたT-28練習機はどうなったのでしょうか。こちらはバンパイアよりは少しだけ長く日本の空を飛んでいました。
 実験航空隊(当時)でテストなどに使われたT-28は、発足間もない偵察航空隊に配置されました。模型の写真で見ていただいても分かるとおり、単発機とは思えないくらい大きなエンジンを積み、前脚をつけていますのでかなり腰高な印象を受けます。パイロットの目線もだいぶ高いところにあったのではないかと思います。

模型はSword 1/72のもので、隣のバンパイアはエアフィックス1/72です。尾翼に偵察航空隊・第501飛行隊の部隊マークをつけています。出来が悪いのは模型のせいではなく、私の腕が拙いからです。あしからず。

 ここで偵察用訓練機として使用されたのですが、昭和38年にハードランディングの事故を起こしてそのまま退役しました。以来、浜松基地で保管、展示され、今に至っています。
 この時代の自衛隊機の中には、ここまでご紹介した外国機だけでなく、国産機でも1機種1機のような「レアキャラ」がいました。こうした機体は連絡用に使われたりしていました。ご存知の方も多いと思いますが、鉄道でも昭和30年代に各車両メーカーが製造した試作ディーゼル機関車を国鉄が使用していたことがあり、こちらも1形式1輛の車輛ばかりで、メーカーに返却された車輛もありましたが、一部は長く本線上を走ったり、また私鉄で使用されていたものもありました。軍用機は民間に払い下げ、というわけにはいきませんので、用途も限られますし、1機のために部品を調達、管理するのも大変でしょうから、その多くが早々に退役したのも仕方のないことだったのでしょう。バンパイアなどは実験航空隊で各種試験を行う航空機のチェイス機として使われていたら、と思うのですが、やはり難しかったのでしょうね。なお、バンパイアに関しては木製部品が使われていて旧式・・・という記載を見かけますが、そもそも大戦中に開発が進められた機体をベースにしていますし、デ・ハビランド社はモスキート爆撃機に代表されるように木を構造に取り入れた機体を開発、製造し、成功を収めていますので、彼らにとって材料に木を使うことは抵抗がなかったのだと思います。バンパイアの練習機型はイギリスでは1960年代半ばまで練習機として使われたほか、スイス空軍のように1990年代初頭まで使用していた国もありました。使用国の事情もあるとは思いますが、長く使うことが可能だった機種と言えるのではないでしょうか。
 こうした異端の翼の中で唯一長く使われたのは、自衛隊機とは呼べないのですが防衛庁で国産機の開発の際にさまざまなテストに使われ、そのたびに形態も変化したサーブ・サフィール練習機でした。この機体については話すと長くなってしまいますので、いずれどこかの機会でお話ししたいと思います。

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バンパイア練習機に出会った日

2020年03月23日 | 飛行機・飛行機の模型
 私の手元に、一通の手紙があります。差出人は航空自衛隊・浜松北基地広報班となっています。昭和60年(1985年)、私が浜松北基地(当時の浜松基地は南北に分かれておりました)に問い合わせた手紙の返事でした。この手紙に行きつくまで、さらに1年ほど時計を巻き戻す必要があります。
 昭和59年、自衛隊が30年を迎えた折に、酣燈社から「自衛隊航空機の30年」という本が出版されました。自衛隊で使われた機体については知っていたつもりの私が初めて目にした機体の一つがバンパイアでした。なんとも変わった形の機体のことがその時から気になっておりました。
 その年の秋の浜松基地航空祭をレポートした航空ファン誌の記事の中にバンパイア練習機の事が載っており「どうやらバンパイアは浜松にいるらしい」ということが分かり「この目で見に行ってみよう」という気持ちが募りました。そして、昭和60年に私は浜松北基地に手紙を書いて確かめてみました。バンパイア練習機が航空祭で展示されるのか、バンパイア練習機がどのように運用されていたのか、ということを。
 返事にはこうありました。「バンパイア練習機は昭和30年に購入され、実験航空隊(現・飛行開発実験団)でテストされ、昭和32年頃退役。現保有は浜松南基地のため、詳細は浜松南基地に問い合わせてください。」と。さらに浜松北基地航空祭で展示されます、と記載がありましたので、昭和60年11月17日、勇躍浜松に赴くことになりました。以前上田交通の記事を書いた際、浜松には昭和61年に初めて行った、と書きましたが、昭和60年の誤りでした。記憶だけを頼りに書くとろくなことがありませんね。反省です。
 入間基地や百里基地には行ったことがありましたが、関東圏以外の基地は初めてでした。入間に比べると面積も広く、まずそれが驚きであったのですが、てくてく歩いていくうちにバンパイア練習機と出会うことができました。当時のメモによると「とても背の低い飛行機」とあります。やっと会えたという感想を持ったのと、この機体以外にもイタリアから初めてやってきた飛行機の「フェラリン機」や零式艦上戦闘機なども並べられており、初めて見る機体もあって驚きでした。これらの機体は後に浜松広報館で展示されることになります。この時の航空祭、既に退役したブルーインパルスのF86Fが煙を吐きながら地上滑走したり、飛行開発実験団のF104Jがフライトを行ったりと、収穫の多いイベントとなりました。この日はあいにく雨まじりの天気で、バンパイアを始めいくつかの古い機体は早々に格納庫に収められました。バンパイアは一旦前脚を外してトーイングバーを装着して牽引車に引かれていきました。私のメモには「老兵は冷え症らしい」とあります。 
 こうしてバンパイア練習機とも出会うことができたわけですが、しばらくは航空祭でのみ会うことのできる存在でした。浜松広報館ができてからは好きな時に出会えるわけで、まさに「会いに行けるアイドル(苦笑)」となったわけです。
 バンパイア練習機については実験航空隊でテストされたという記事はあるのですが、飛行中の写真もほとんど残されていません。実験航空隊は昭和30年当時は浜松にありました。昭和32年に岐阜基地に移動し、現在に至っているわけですが、バンパイア練習機が果たして岐阜まで移動したのかは写真等では判別できず、詳しいことは分からずじまいでした。書類上は昭和35年に退役とありますが、浜松北基地の手紙にあるように昭和32年頃退役していたということになると、岐阜には移動していなかったのかもしれません。退役後は浜松基地で保管されることになりましたが、全国各地でのイベントでも展示されていたようです。「航空情報」2013年9月号の「自衛隊機列伝」によれば、分解されてトレーラーで各地に運ばれ、飛行場に関係のないイベントで展示、コックピットなども公開されていたそうです。遊園地のような場所で撮られた写真もあって不思議に思ったことがあったのですが、そういうことだったのですね。
 今は浜松広報館が安住の地となったわけですが、隣にはT-28練習機がたたずんでいます。さらにその奥にはT-1練習機もいます。バンパイア練習機とT-28は国産練習機開発の比較検討のために導入されたということもあり、現役時代も格納庫で隣り合わせに映っている写真がありますが、今も仲良く翼を並べています。

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中止、延期・・・

2020年03月18日 | 日記
 前回までのブログの続きとして、バンパイア練習機の話を書く予定でしたが、コロナウイルス関連で世の中の状況も大きく変化しております。日記という側面もあるブログですので、この時代を生きている人間の「現場証言」として書き留めておきたいという気持ちもあり、今回はテーマを変えました。ご容赦ください。
 本来なら先週末にF1の今シーズンがオーストラリアGPで開幕、となるところでしたが、中止となりました。マクラーレンチームのスタッフにコロナウイルスの陽性反応があり、同チームはオーストラリアGPからの撤退を発表、その後レースそのものを開催するか否かが各チームも交えて話し合われ、中止の発表があったのはグランプリの週末が始まる金曜日の朝ということで、ギリギリの決断だったようです。現地に行かれている方の報告をSNS等を通じて読む限りでは本当にギリギリまで分からなかったようで、手持無沙汰な週末を過ごして帰国された方もいたようです。F1は第2戦目以降も「延期」とアナウンスされ、5月の欧州ラウンドでの開幕を目指していますが欧州が国境を閉鎖する「非常事態」ですので、開催できるかは不透明です。そもそも年間22戦の過密日程の中、延期となったレースを他の日程で開催というのも難しいところでしょう。
 日本でもスポーツに関しては無観客試合、あるいはシーズン開幕の延期といった状況です。プロ野球も開幕が延期されています。今年は二リーグ制70年で球団創設70年のイベントを予定しているチームもありますので、気が気ではないところでしょう。早く世の中が落ち着いて私も球場で夜風に吹かれながらビールを飲んで応援したいものです。
 さて、このブログが模型をテーマにしている以上書かなくてはならないのですが、3月21日、22日に予定されていた池袋鉄道模型芸術祭も中止になりました。こちらも開催に向けて努力が続けられてきたのですが、1週間前に中止が発表されています。会場が東京芸術劇場ということで、東京都から都民利用施設の休止、利用の制限が呼びかけられていたことから、中止の報を聞いたときには「ああ、やっぱり」という感がありましたが、残念な気持ちには変わりありません。もちろん、準備を進めてこられた方々が一番残念でしょう。今年は夏の国際鉄道模型コンベンションがオリンピック、パラリンピックの開催(こちらも現在ではさまざまな情報や発言が飛び交っていますが)もあって1年お休みして令和3年に開催予定とアナウンスされています。このため、今年に関してはさまざまな縮尺、ジャンルで活躍されているレベルの高いモデラーの展示を都心で見ることができないわけで、来年以降にお預けとなってしまいました。
 新型コロナウイルスに関しては、最初に感染者が確認された中国、それからヨーロッパで感染者が爆発的に発生したイタリア(特に北イタリア)とも個人的には縁があります。イタリア・ヴェネツィアには長く付き合いのある友人(というより親戚の叔父さんという感じですが)がおり、つい先日電話で無事を確認したところでしたが、ヴェネツィアは昨年11月の記録的な高潮と今回のコロナウイルスのダブルパンチで、電話をした際に「ゴンドラには誰も乗っていない、店も閉まっているし観光客が誰もいない」と嘆いていました。高潮についても今までなら水が入ってこないようなところで大きな浸水があったようで、後片付けが大変だった、と私の友人も話していました。現地には私よりだいぶ年上の知人やお世話になった方が多く、みんなが無事であることを祈っています。
 中国についても私自身が若いころ中国語を学び、仕事で現地にも行ったことがありますので、当然現地でお世話になった方もいます。イタリア、中国ともそれぞれの国のお国柄といいますか、メンタリティーも多少理解していますので、いろいろ思うところはあるのですが、ここで語るべきことではないでしょう。
 現時点では各国が国境封鎖という、21世紀の移動の自由があった世界からまるで城壁に囲まれた中世のような状況に置かれています。疫病がここまで人々の生活を制限したことも経験がなく、経済にも既に影響が出ています。お金だけでなく、人も、モノも動かなくなっているわけですから当然です。このブログも乗り物をネタにしていますので書きますと、航空、鉄道といった運輸業に既に影響が出ているようです。欧州では一部の航空会社が政府に支援を求めているというニュースを聞いていますし、日本国内も人の移動が盛んにならなければ鉄道も含めて死活問題になってくるように思います。この問題が短期的に収束したとしても、経済にとっては一時的に大きなマイナスになりますので、当然これから数年は税収も落ち込み、公共部門も余裕のある予算配分ができず、公的資金に頼っている事業者にとってはさらに厳しくなるでしょう。そして、経済が停滞すればF1も自動車メーカーの撤退など、影響で出るのではないかと心配しています。
 文字通り景気の悪い話ばかり書いてしまいました。私自身は歴史への興味が子供の頃からあるものですから、昔の人はこういう未知の疫病への恐れから寺院を建てて安寧を願ったり、安全な場所へ避難して物語を語り合う、といった文学作品が生まれたんだろうなと思っているのですが、現代に生きる我々は自宅で仕事をされる方も、お客様あっての商売(私もその一人)に従事し、テレワークができない人も、正しい知識と情報で疫病から身を守ることとしましょう。そして、いずれ歴史の一コマとして語られる日のために、なぜこういった疫病が発生し、拡大したのか、なぜマスクをはじめとした品物がなくなり(マスクは1月末に既に品薄だったわけですから)、誰が買っていったのかなど、科学的に検証されることを願っています。
 今回は堅苦しいことばかり書いてしまいました。せっかく外出する機会も奪われていますので、理屈ばかりこねないで、仕掛中の模型の工作に戻りましょう。
 

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バンパイア練習機とT-1練習機への道

2020年03月09日 | 飛行機・飛行機の模型
 先日までのブログでバンパイア練習機が日本に輸入された経緯などについて触れました。すでに新しい練習機の設計はタンデム(前後)の座席配置が決まっていたのに、なぜ「サイド・バイ・サイド」のバンパイアが輸入されたか、ということですが、そこに至るまでには紆余曲折もあったようです。
 戦後の航空機開発の再開、昭和29年の航空自衛隊創設で、国産機開発にも拍車がかかります。すでに国内の各航空機メーカーがジェット練習機について研究を進めており、防衛庁もその流れに乗り、各社からの聞き取りを行っていました。
 ただし、この時点では座席配置をどうするのか、というところまでは固まっていなかったようで、新三菱重工(当時)はサイド・バイ・サイドで設計を進めていました。海外でも練習機の座席配置にサイド・バイ・サイドを採用しているケースとタンデムを採用しているケースがあり、それぞれの長所・短所があったので、比較検討の必要は十分にあったのでしょう。私の手持ちの資料ではバンパイアは昭和31年1月に購入とされていますし、T-28は既に新三菱重工が取得していたものを昭和31年4月に防衛庁が買い取ったと言われています。官庁のことゆえいきなり購入ということは難しいでしょうし、既に現物が日本にあったT-28と違い、海外から運んでくる必要もありますから、時間をかけて検討を進める中でバンパイアを取得する話が出てきたのではないかと思います。
 こうした研究開発が本格化していくなかで、同盟国というよりこの時代ではついこの間まで日本を占領していたアメリカからも動きがあり、当時開発中だったT-37練習機を導入してはどうか、という話もあったようです。T-37はアメリカ、セスナ社の練習機で、アメリカを始め世界各国で使用されました。

(写真はポルトガル空軍アクロチーム アシャス・ド・ポルトガル仕様の1/72キット)
 見ていただくと分かるとおり、T-37はサイド・バイ・サイド配置です。T-1の開発にあたって座席配置をタンデムにした理由として、独立心を養うためにはタンデムがよい、という航空自衛隊草創期を支えた旧軍出身のパイロット達の意向があったとも言われています。そもそも旧軍時代から日本ではタンデム配置による乗員の養成が一般的でしたし、サイド・バイ・サイドで開発指示を出そうものならアメリカから圧力がかかるかもしれないという心理も働いたのではないか、という気もいたします。もちろんこれは私の推論の域を出ないところではありますが、わざわざ参考用に機材を購入したということは、時間をかけて比較検討することを当初は想定していたのではないでしょうか。ところが、アメリカからのT-37の売り込み、老朽化したT-6の交代を早く進めなければならないなど開発の方向性を早く出さなくてはならない状況となり、その結果わざわざ購入した機体が宙に浮いてしまったのではないか、と思うのですが・・・。

写真はあらためてバンパイア練習機(手前)と奥の581号機がT-28練習機です。
 かくして、富士重工の案に対してゴーサインが出ました。昭和31年7月のことで、各社が基本設計計画書を提出して3か月と少しでした。富士重工の案だけが後退翼を採用したラディカルなもので、そこから試作機のロールアウトが昭和32年12月ということで1年半程度ですから、今とは比較か難しいくらい開発のスピードが速いですね。

 T-1は昔のジェット機らしい後退翼、口を開けたようなインテーク、スマートな胴体と、私も好きな飛行機ではあります。
 
 次回はバンパイア練習機の短い「現役」だった頃のことと、私が初めてバンパイア練習機と出会ったときのことを話しましょう。

 

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