1976年と1977年のF1グランプリでは、なんとも奇妙な、そして強烈なインパクトを残したマシンが走っておりました。それがイギリスのコンストラクター「ティレル」が作ったP34というマシンでした。自動車は4輪、という常識を覆し、前に小径のタイヤを4つ、後ろに通常のタイヤを2つ装着した6輪車という前代未聞のマシンでした。当時のF1の規則でも、4輪以外のマシンなど出てこないだろう、というわけで、車輪の数までは明記されておらず、規制の網をかいくぐったマシンでもありました。
昨年12月に三栄書房のGPCarStoryのシリーズにこのマシンが加わりまして、私も早速読みました。既にお読みなった方もいらっしゃるかと思います。
この6輪車、通常の4輪の車輛を走らせる際に発生する前輪にかかる空気抵抗を減少させ、さらにタイヤの路面に対するグリップを向上させるために小径のタイヤを4つ履かせました。以前のブログでも書きましたが、この時代のマシンはチームは違えどほとんどがフォードのDFVエンジンを使用しており、後は空力などエンジン以外の要素でアドバンテージを得るしかなかったという事情もあるわけですが、ここまで「ぶっ飛んだ」マシンもなかったのです。タイヤメーカーのグッドイヤーもこのマシン専用の小径タイヤを独自に開発し、協力しました。こうして1976年シーズンはスウェーデンGPでの1-2フィニッシュをはじめ、いくつものレースで表彰台に立ち、ドライバーのランキングでもカーナンバーと同じでシェクターが3位、ドゥパイエが4位に入り、コンストラクターズ(チーム)のランキングでも3位につけるなど、チームが復活を遂げたかに見えました。しかし、翌1977年はグッドイヤーが小径タイヤの能力向上まで手が回らず(フランスのミシュランがF1に参入したことでタイヤの開発競争が激化して、一チームのためにタイヤの開発まではできなかったとも言われています)、未勝利に終わり、この6輪車も姿を消すことになります。
本書では、このマシンで唯一の優勝を収めたジョディ・シェクターへのインタビューをはじめ、過去の他誌からの再録も含め、関係者らのインタビュー、寄稿により、この特異なマシンを解析しています。このマシンが登場した時には既に引退していたものの、ドライブする機会があったチームOBのジャッキー・スチュワートのインプレッションも載っていますし、森脇基恭、今宮純、津川哲夫といった大ベテラン諸氏もそれぞれ若きエンジニア、ジャーナリスト、F1に憧れる1ファンとしてこのマシンに触れたときの思い出を書いています。他にも同時代のライバル、マリオ・アンドレッティや、この時代のフェラーリの名メカニック、エルマノ・コーギー、さらには少年時代にサーキットで見て、憧れの対象となり、とうとう実車を購入した元F1ドライバー、ピエル・ルイジ・マルティニのインタビューなども掲載されています。みなさん、それぞれの立場ではありますが熱く語っていて面白いです。やはりよその子が新しいおもちゃを持っているとみんな憧れる、というところなのでしょうか。
画期的に見えたマシンにも弱点はいくつもありました。例えば本来ならトラブルを避けるためにシンプルにしておきたいフロントタイヤ周りの構造が複雑だったというのは、タミヤから発売されているこのマシンのプラモデルを組んだ私にもなんとなくうなずけるものがありました。また、ドライビングも4輪とは違う特性を持っていたため、苦労を伴っていたようです。
このマシン、日本のファンにとっても特別な存在です。1976年という年はF1が日本に初上陸し、「世界選手権イン・ジャパン」として富士スピードウェイで開催されました。この時のファンの注目はラウダとハントのタイトル争いもありましたが、6輪車にも大きな注目が集まっていたようです。ちなみに車体には「たいれる」(当時ティレルチームは「タイレル」と呼ばれていました)とひらがなで名称が書かれ、ドライバー二人もひらがなで苗字が書かれていました。このレースではドゥパイエが2位に入っています。また、前述の「タミヤのキット」ですが、1/20で製品化されました。これは当時の潮流でモーターライズを前提に設計されたことからモーターと乾電池を収めるために選択したスケールだったわけですが、これが後々まで続く1/20F1キットの原点となりました。6輪車のキットはその後改修が加えられ、最近も再販されました。モーターライズのために選択したスケール、という意味では1/35ミリタリーミニチュアも同じですね。あの当時は「スーパーカーブーム」でもあり、F1マシンのスーパーカー消しゴム、なんていうものもあり、我が家にも6輪車のスーパーカー消しゴムがありましたが、あの時代のF1マシンは子供心には平べったくてカッコ悪いという印象でした。トミカでも発売されていましたが、我が家になかったので、たぶんF1マシンよりもはたらくくるまの方が良かったのでしょう。
本書に話を戻しますが、実現はしませんでしたがこのマシン、ルノーのターボエンジンを積む、という話もあったというのは初めて知りました。ターボエンジンはルノーが先鞭をつけたものの、まだ実験的であり、なかなか「勝てる」エンジン足りえませんでした。サーキットがターボ一色になるのは80年代以降のことになり、86年から88年はホンダのターボエンジンが席巻することになります。
このマシンについて、オーナーのケン・ティレルは生前のインタビューで「成功作ではなかった」としています。1976年シーズンに関しては一定の成功を収めたものの、1977年はランキングで大きく後退したことからの感想なのでしょう。ティレルチームはこれ以降も1990年に一世を風靡した「逆ガルウイング」の019など、1998年にチームが幕を閉じるまでインパクトのあるマシンをいくつも世に送り出しています。また、中嶋悟、片山右京、高木虎之介といった日本人ドライバーが在籍したほか、ホンダ、ヤマハなど日本のエンジンを積んだ時代もありました。
ちなみに今のF1では、車輪の数は4つと決められています。したがって、このような特異なマシンは二度と世に出ることはないでしょう。オーナー本人の口からは成功作ではなかったという言葉がありましたが、フェラーリの元メカニックE・コーギーの言葉を借りれば「魂を突き動かした画期的な」マシンだった、という言葉が、このマシンへの何よりの賛辞でないかと思います。今の時代と比べることがいろいろな意味で難しいの承知の上ではありますが、あっと言わせるマシン、技術にあふれていた時代だからこそ世に出たマシンといえましょう。
写真はタミヤ所有のマシンです。昔のこのキットの箱のサイドにはケン・ティレルの顔写真とサインがプリントされていましたっけ。
昨年12月に三栄書房のGPCarStoryのシリーズにこのマシンが加わりまして、私も早速読みました。既にお読みなった方もいらっしゃるかと思います。
この6輪車、通常の4輪の車輛を走らせる際に発生する前輪にかかる空気抵抗を減少させ、さらにタイヤの路面に対するグリップを向上させるために小径のタイヤを4つ履かせました。以前のブログでも書きましたが、この時代のマシンはチームは違えどほとんどがフォードのDFVエンジンを使用しており、後は空力などエンジン以外の要素でアドバンテージを得るしかなかったという事情もあるわけですが、ここまで「ぶっ飛んだ」マシンもなかったのです。タイヤメーカーのグッドイヤーもこのマシン専用の小径タイヤを独自に開発し、協力しました。こうして1976年シーズンはスウェーデンGPでの1-2フィニッシュをはじめ、いくつものレースで表彰台に立ち、ドライバーのランキングでもカーナンバーと同じでシェクターが3位、ドゥパイエが4位に入り、コンストラクターズ(チーム)のランキングでも3位につけるなど、チームが復活を遂げたかに見えました。しかし、翌1977年はグッドイヤーが小径タイヤの能力向上まで手が回らず(フランスのミシュランがF1に参入したことでタイヤの開発競争が激化して、一チームのためにタイヤの開発まではできなかったとも言われています)、未勝利に終わり、この6輪車も姿を消すことになります。
本書では、このマシンで唯一の優勝を収めたジョディ・シェクターへのインタビューをはじめ、過去の他誌からの再録も含め、関係者らのインタビュー、寄稿により、この特異なマシンを解析しています。このマシンが登場した時には既に引退していたものの、ドライブする機会があったチームOBのジャッキー・スチュワートのインプレッションも載っていますし、森脇基恭、今宮純、津川哲夫といった大ベテラン諸氏もそれぞれ若きエンジニア、ジャーナリスト、F1に憧れる1ファンとしてこのマシンに触れたときの思い出を書いています。他にも同時代のライバル、マリオ・アンドレッティや、この時代のフェラーリの名メカニック、エルマノ・コーギー、さらには少年時代にサーキットで見て、憧れの対象となり、とうとう実車を購入した元F1ドライバー、ピエル・ルイジ・マルティニのインタビューなども掲載されています。みなさん、それぞれの立場ではありますが熱く語っていて面白いです。やはりよその子が新しいおもちゃを持っているとみんな憧れる、というところなのでしょうか。
画期的に見えたマシンにも弱点はいくつもありました。例えば本来ならトラブルを避けるためにシンプルにしておきたいフロントタイヤ周りの構造が複雑だったというのは、タミヤから発売されているこのマシンのプラモデルを組んだ私にもなんとなくうなずけるものがありました。また、ドライビングも4輪とは違う特性を持っていたため、苦労を伴っていたようです。
このマシン、日本のファンにとっても特別な存在です。1976年という年はF1が日本に初上陸し、「世界選手権イン・ジャパン」として富士スピードウェイで開催されました。この時のファンの注目はラウダとハントのタイトル争いもありましたが、6輪車にも大きな注目が集まっていたようです。ちなみに車体には「たいれる」(当時ティレルチームは「タイレル」と呼ばれていました)とひらがなで名称が書かれ、ドライバー二人もひらがなで苗字が書かれていました。このレースではドゥパイエが2位に入っています。また、前述の「タミヤのキット」ですが、1/20で製品化されました。これは当時の潮流でモーターライズを前提に設計されたことからモーターと乾電池を収めるために選択したスケールだったわけですが、これが後々まで続く1/20F1キットの原点となりました。6輪車のキットはその後改修が加えられ、最近も再販されました。モーターライズのために選択したスケール、という意味では1/35ミリタリーミニチュアも同じですね。あの当時は「スーパーカーブーム」でもあり、F1マシンのスーパーカー消しゴム、なんていうものもあり、我が家にも6輪車のスーパーカー消しゴムがありましたが、あの時代のF1マシンは子供心には平べったくてカッコ悪いという印象でした。トミカでも発売されていましたが、我が家になかったので、たぶんF1マシンよりもはたらくくるまの方が良かったのでしょう。
本書に話を戻しますが、実現はしませんでしたがこのマシン、ルノーのターボエンジンを積む、という話もあったというのは初めて知りました。ターボエンジンはルノーが先鞭をつけたものの、まだ実験的であり、なかなか「勝てる」エンジン足りえませんでした。サーキットがターボ一色になるのは80年代以降のことになり、86年から88年はホンダのターボエンジンが席巻することになります。
このマシンについて、オーナーのケン・ティレルは生前のインタビューで「成功作ではなかった」としています。1976年シーズンに関しては一定の成功を収めたものの、1977年はランキングで大きく後退したことからの感想なのでしょう。ティレルチームはこれ以降も1990年に一世を風靡した「逆ガルウイング」の019など、1998年にチームが幕を閉じるまでインパクトのあるマシンをいくつも世に送り出しています。また、中嶋悟、片山右京、高木虎之介といった日本人ドライバーが在籍したほか、ホンダ、ヤマハなど日本のエンジンを積んだ時代もありました。
ちなみに今のF1では、車輪の数は4つと決められています。したがって、このような特異なマシンは二度と世に出ることはないでしょう。オーナー本人の口からは成功作ではなかったという言葉がありましたが、フェラーリの元メカニックE・コーギーの言葉を借りれば「魂を突き動かした画期的な」マシンだった、という言葉が、このマシンへの何よりの賛辞でないかと思います。今の時代と比べることがいろいろな意味で難しいの承知の上ではありますが、あっと言わせるマシン、技術にあふれていた時代だからこそ世に出たマシンといえましょう。

写真はタミヤ所有のマシンです。昔のこのキットの箱のサイドにはケン・ティレルの顔写真とサインがプリントされていましたっけ。