三栄のGPCar Storyは、過去に幾度も本欄で紹介しておりますが、最新号はフェラーリF92Aという1992年シーズンを戦ったマシンです。
このマシン、インパクトだけは大きく、ジェット戦闘機を思わせるサイドポンツーンの空気取り入れ口に始まり、二層構造でダブルデッカーと言われたフロア部分など、デザイン的にはかなり注目を集めました。しかしながら、成績的にはみるべきものがなく、当時のエース、ジャン・アレジを以てしても表彰台の隅に立つのがやっとという体たらくで、結局1991年シーズンからずっと勝つことができないままとなり、翌年も未勝利が続きます。そういう意味では「どん底期」の一台と言えるでしょう。1970年代半ばの黄金期にチームを支えた監督モンテゼモロと、言わずと知れた「不死鳥」ラウダを迎え、チームの再建途上だったにしても、まだ遠い道だったことがわかります。
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写真はモデラーズ1/20キットの箱絵より。後にフジミから再販されました。
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模型ではありますが、フロアの二層構造が見えますでしょうか。相当な旧作(1994年頃作)なので、出来の方はご寛恕ください。今だったらもつと丁寧に作るか、カウルは固定してしまうかな・・・。
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ジェット戦闘機のよう、と言われたインテーク部分
このマシンが不振を極めた理由ですが、過去に例を見ないダブルデッカー構造は、その狙いであった空力性能の向上にそれほどつながらなかったこと、床面を上げたことで機器類の重心が上がってしまい、運動性能が低下したこと、そして要のエンジンがオイル漏れを筆頭にトラブル続きで、性能を発揮するに至らなかったことなどがあげられます。
本書の特色ではありますが、今号も関係者へのインタビュー等を中心に、この美しく、しかしはかない夢だったマシンの紹介がされています。首脳陣の一人、C.ロンバルディはどこか他人事と言いますか、言い訳めいたことを語っていますし、マシンのデザイナーも、エンジン担当者も決して自分の非は認めず、他の部門にせいにしているのが何とも・・・というところです。西洋人は日本人と比べて自分の非は簡単には認めない、などという話も聞きますが、マシンをデザインしたJ.C.ミジョーに至っては「自分がデザインした中でベスト」と言っています。各部門の意思疎通ができていないから勝てないのか、勝てないから責任のなすりつけあいになるのか、そこは私にも分かりませんが「こんな組織では勝てないよなあ」と思ってしまいます。このシリーズの創刊号がマクラーレンMP4/4で、後に表面化するセナ・プロストの確執の萌芽があったとはいえ、16戦15勝するチームというのは車体、エンジンの開発が上手にできて、もちろんドライバーも含めた組織がきちんと機能してこそだな、と成功する組織論のビジネス書のように読みましたが、こちらは180度逆で、こうしたら負ける組織になります、という教科書のようでありました。
一番気の毒なのはドライバー2名(ジャン・アレジ、イヴァン・カペリ)でしょう。思えば、フェラーリほどのチームにおいてグランプリ未勝利のドライバーで組ませるというのも異例で、それを不安材料としてとらえていたファンもいました。
アレジは前年からフェラーリに在籍し、この年は実績も悪いながらに残しました。歴史ある(それゆえに独特な)チームでの処世術を既に身につけていたのか、チーム体制に不満も相当あったようですがその後もチームに在籍しました。面白いのはこのマシンの現物をフェラーリからプレゼントされ(いろいろな経緯でアレジの手元に現物が来たようですが、そこは本書を読んでのお楽しみということで)、本人も自分が走らせたマシンを手元に置くことができるのは幸せ、と言っていますので、苦労はしたけれど思い出深い一台なのでしょう。
アレジのようにいかなかったのはイヴァン・カペリでした。もともとは中堅チームだったレイトンハウス(マーチ)で上位につけるなどの好走を見せ、91年はチーム状態の問題もあって振るわなかったものの、彼にトップチームのマシンを与えたら・・・というのは誰もが考えつくところだったのでしょう。イタリア人なら誰もが憧れるフェラーリに抜擢されたものの、チーム内は混乱の極みにあり、自身も満足な成績を残せないままシーズン終盤でシートをN.ラリーニに譲りました。したがって、何かとつながりのあった日本グランプリにも出走できませんでした。この1年の不振が原因でドライバーとしての評価も落としてしまい、翌年移籍先を見つけるもののシーズン途中で彼のF1ドライバーとしてのキャリアは終わりました。まだ20代だったのですが・・・。今回はこのカペリのインタビューが白眉でして、チームの体制、マシンなど、あらゆる対象についてまさに恨み節をぶちまけたというべきロングインタビューが掲載されています。この稿の題名も「カペリの恨み節」とか「跳ね馬でトラウマ」といったタイトルにしようかと思ったほどです。
1992年シーズンは開幕前の私の見立てでは本命ウィリアムズ・ルノー、対抗マクラーレン・ホンダ、ベネトン・フォードとフェラーリがその次につき、この両チームがシーズンにそれぞれ1~2勝くらい上げるのでは、と予想していました。この年の開幕前に出版されたフジテレビのガイドブックでも、アレジ、カペリともに初優勝は時間の問題くらいに書かれていたほどです。このシーズン、結局はウィリアムズ・ルノーの「一人勝ち」で、マクラーレンホンダが幾つか勝利を挙げ、バナナノーズと呼ばれたベネトンはシューマッハが初優勝を遂げるなど、さらに躍進をとげたシーズンでした。しかしフェラーリは同じく名門で、こちらもハーバートとハッキネンという若手が駆るロータスにも置いて行かれる始末でした。日本GPでもラリーニ車はローラ・ランボルギーニを駆る片山右京に2コーナーか、S字だったかのアウトから抜かれしてまい、抜いたのが故郷・日本に「凱旋」した右京だったのではありますが、ティフォシとしてはなんとも複雑な思いがしました。
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(やはりこの年目立ったていたもう一台のマシンはこちら。ベネトンB192 タミヤ1/20)
GPCar Storyの前号はキミ・ライコネンのデビューマシンだったザウバーC20でした。あの頃のザウバーのマシンというは奇をてらったところがなく、優勝争いは難しくても確実に入賞(当時は6位以内)を狙えるマシンを作った、という感じでした。逆にF92Aというマシン、かなり奇をてらったところはありますが、それだけファンの脳裏に焼き付き、語り継がれていくのでしょうか。
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写真はイヴァン・カペリ。2009(平成21)年にイタリア公共放送Raiのコメンテーターとして鈴鹿を訪れていたときのもの。胸にRaiのロゴが入っています。
鈴鹿のパドックに通じるトンネルの近くでファンに囲まれて写真撮影に応じていたのですが、そろそろ切り上げたがっている様子でした。私がイタリア語で「Le Posso fare una foto?」(日本語で写真を撮らせていただいてもよろしいでしょうか)と話しかけたところ、一瞬びっくりして「Prego」(どうぞ)と応じていただいたのがこの写真です。このときは「やった! フェラーリの元ワークスグランプリドライバーとイタリア語で会話ができたぞ」と思ったのですが、フェラーリの時代の話は聞かなくて正解でした。