工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

久しぶりに岐阜基地へ つづき

2024年11月30日 | 飛行機・飛行機の模型

岐阜基地航空祭の写真、続きです。気になったフライトや展示から。

異機種編隊から。左からT-7、F-2A、F-15J、C-2です。プロペラ機のT-7とジェット戦闘機、輸送機が息を合わせての飛行というのは想像以上に難しそうです。

 

UH-60の救難展示。もともと暗めの色の上に逆光気味なのでこういう写真になってしまいます。

 

飛行開発実験団のフライトは結構えぐいと言いますか、テストパイロットたちが腕を披露している感じもします。

洋上迷彩のF-2支援戦闘機

アフターバーナーのオレンジ色が印象的です。

 

こちらは空中給油機KC-767

 

浜松基地所属のT-400

 

海上自衛隊のU-36。個人的には久々に見かけました。

 

アメリカ軍のゲストも。岩国の海兵隊F/A-18ですね。尾翼の星条旗塗装が目を引きます。

 

こちらは引退して展示されているF-4EJ改。相変わらずの人気でした。こちらもF-4EJの1号機に相当します。

 

東京に早めに戻る用もありまして、午後のC-1のフライトの途中で帰ることにしました。

駅の近く、川重の社屋でしょうか。こんな機体も。

 

名鉄の新鵜沼では駅の柱にこれがありました。

こちらはカーネギーのレールですね。年号が1と7は分かるのですが、間の二文字が読み取れません。名鉄は他の駅で1897年製カーネギーのレールがあったそうです。

 

こちらはテネシー製。独特の字体と標記が長いのがこのメーカーの特徴。右端に1923の数字が入っていますので、約100年前のレールです。古レール探しを始めた1980年代終わりころですと、大正時代のレールはまだ「それほど古くない」と思っていましたが、大正時代も100年前のことになりました。

 

名古屋で長蛇の列のお土産屋さんでお土産を買い、新幹線の待合室にあるスタバでコーヒーを買って、車中の人となりました。いつもなら2か所、下手をしたら1か所しか航空祭に出向かなくなった自分ですが、今年は珍しく3か所に行きました。浜松広報館を含めるともう一か所プラスですね。岐阜についても今回見られなかった機体を見る機会があれば、と思っています。

 

 

 


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久しぶりに岐阜基地へ

2024年11月29日 | 飛行機・飛行機の模型

 少し前の話になりますが、11月17日に航空自衛隊岐阜基地で開催された航空祭に行ってまいりました。岐阜基地は10年ぶりくらいのご無沙汰でして、見たい機体もありまして出かけてきました。名鉄の三柿野という駅が最寄で、駅徒歩数分の距離というのも魅力です。

 東京を朝早く出て9時前には三柿野に着きました。以前は駅を出て、人の渋滞となっている歩道を歩きながらという感じでしたが、今は川崎重工の敷地の一部を歩いて基地のゲートをくぐるという流れでした。工場が好きな方だと気分も上がりそうですね。基地に着くと既に多くの方が来場されています。ブルーインパルスも今回は飛びませんし、それゆえに人も少ないのではと思いましたが、地元の方も含め、飛行機好きが年の一度のお祭りのために集まった、という感じでした。

 岐阜基地は各種装備、機材のテストを行う「飛行開発実験団」のベースでもあります。このため、各種試作機が試作機特有の塗装で塗られているものもあり、他の基地にない特徴でもあります。

F-2支援戦闘機も試作機は塗装が量産機とは違います。新型の空対艦ミサイルも展示されています。今回は展示されていませんでしたが、試作4号機と呼ばれるF-2B、102号機が見たかったです。

 

さて、今回はF-15J戦闘機が記念塗装で現れました。F-15Jの場合、アグレッサーなど一部の機体が特別な色に塗られていますが、本来は一般的なグレー2色で、岐阜基地の機体もそうでしたが、この801号機はF-2の1号機、C-2の1号機に合わせて、赤と白に塗り分けた塗装を採り入れています。

航空自衛隊70年のマークも入っています。もともと801号機はF-15Jの1号機に相当し、マクダネル・ダグラス社で組み立てられて日本に運ばれました。

フライトの写真はこちら

ちょっと複雑な塗り分けになっていますね。

 

こちらはF-2Aの1号機です。

 

国産輸送機C-2の1号機です。

 

C-1の001号機。入間にも来ていた機体ですね。

午前・午後とフライトを見せていました。

C-2とのランデブーもありました。

大きさの違い、お分かりいただけますか?

 

そして岐阜基地と言いますと、さまざまな機体が在籍していることからできる鬼畜大宴会、じゃなくて異機種大編隊が見ものです。

C-1を先頭にF-15J、F-2、T-4などの機材が並び、しんがりがC-2です。

さまざまなジェット機が並んで機動というのもこの基地ならではでしょう。

写真多めなので次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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提督の肖像が入ったビール

2024年11月25日 | 船だって好き

 よく買い物する酒屋さんに、先日こんなビールが売られていました。

東郷平八郎の肖像が入った、通称「東郷ビール」です。ドラマ「坂の上の雲」の再放送もされていますので、それに因んでお店に並んだのかなと思いました。

さて、このビールですが、反対側のラベルを見ますと「日本ビール」という日本のメーカーが作っています。てっきり輸入物と思っていましたので、日本製と聞きましてちょっとびっくりしました。

ネットでいろいろ調べてまいりますと、こちらはもともとフィンランドの醸造所が作っていた「提督ビール」という商品だそうで、東郷平八郎以外にも、イギリスのネルソン提督、日露戦争のロシア側の提督ロジェトヴェンスキーら24人の提督が描かれていたそうです。海軍史に興味がある身としてはこの24人の顔ぶれも知りたいですね。1970年から発売されましたがやがてフィンランドでの製造が途絶え、紆余曲折の末、東郷平八郎のラベルを貼った「提督ビール」だけが日本で製造されているようです。なお、一部で伝えられているような「日露戦争で勝利した日本とその立役者の東郷平八郎を記念して作られた」というわけではなく、あくまでも名提督の一人としてラベルに選ばれた、というのが真相のようです。

お味の方はメーカーの説明によるとピルスナースタイルとなっており、すっきりとした日本人にも飲みやすい味となっています。先日、せっかくですので東郷平八郎ゆかりの食べ物と伝えられる(諸説あるようですが)肉じゃがと共にいただきました。

亡母が私に最初に教えてくれた料理が肉じゃがでした。シンプルだけど、奥が深いなと作りながらいつも思います。美味しくできたかな?

ビールの方も癖のないお味でした。

見出し画像に東郷ビールと「三笠」の1/700モデルを並べてみました。こちらはシールズモデルのキットで、艦底の竣工年月日を見ましたら2005年とありました。

もう一隻やってきました。

こちらは装甲巡洋艦「浅間」です。船体が鼠色になる前の黒色塗装にしました(考証などは異なる部分があるかもしれません。ご寛恕ください)。浅間は幾度かトラブルに見舞われながらも太平洋戦争の終戦まで生き延びた船でした。

明治期の艦艇は艦底部に衝角がついていたり、鋼鉄の船として完成される途上のような魅力があり、海外の艦船の博物館でも、19世紀後半の船の模型はついつい見てしまいます。

 

 


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埴輪 はにわ! ハニワ!!

2024年11月16日 | 日記

  今秋は埴輪好きにはたまらない展覧会が開催されています。私も高校生の頃、東京国立博物館で埴輪としてはみんなが知っている「踊る人々」を見て衝撃を受け、以来、仏教以前の日本の美術、さらには考古学といった分野まで興味が広がりました。今日のように多くの人が訪れるより前に古代からあるような神社を訪れたり、考古遺物の展示を喜んで見に行くようになったわけです(仏像、お寺への傾倒は社会人になってからでした)。

 そんな私ですので、上野の国立博物館で開催の特別展「はにわ」は大変楽しみにしておりまして、入間基地の話と前後いたしますが、10月に見に行ってきました。

 今回の展覧会、有名な「挂甲の武人」が国宝指定されてから50年という節目もあっての開催のようです。

看板中央が200円切手でおなじみ「挂甲の武人」です。

 

 まずはお出迎えがこの2体、踊る人々です。

(写真は博物館サイトより拝借)

埼玉県で発掘されたこの埴輪、以前は髪型などから「踊る男女」として記載されていました(右側・小さい方が男です)。驚いたような、喜んでいるような独特の表情とポーズがたまりません。近年では踊っているのではなく馬を牽いているという説もあるようですが、やっぱり踊っているようにしか見えません。実はこの2体、近年大規模な修復を行い、きれいになって戻ってきました。それにしてもシンプルな造形、個人的には「二体分粘土があるから、これでなんか作ってよ」と言われて当時の工人が作ったように思えます。逆に狙って作れるようなものではないかも。目と口は指で突いて穴を開けたようにも見えます。この二体だけがそうではなく、ここで出土した他の埴輪の顔もこんな感じでした。

 今回展示されているものの多くが、どこかで以前お会いしたものが多く、メスリ山古墳の巨大円筒埴輪をはじめ、全国各地で展示されているものが来ています。個人的にはこちらが衝撃でした。

顔つき円筒埴輪。顔のついた円筒埴輪は珍しいです。なんで顔付けたのかなあ。動物の埴輪についても「見返りの鹿」意外に全国各地にあるなあとか、意外な発見がありました。やはり奥が深い。

今回は「挂甲の武人」の5兄弟勢ぞろいということで、おそらく同じところで作られ、群馬県内のあちこちの墳墓に置かれ、後世に出土後は国内の博物館に、さらにはアメリカに旅立った五体が揃うということで、一つの展示室に集められていました。

こちらは五体のうち1体。今は奈良県・天理大が所蔵しています。解説の中で5体の中には「1体から2体を修復したという説もある」という記載があり、ほほう、と思いました。めったなことは書けませんが、現代の学術的な調査とは違い、発掘と盗掘、修復と改変が表裏一体だった時代もあった、と書くにとどめておきましょう。また、実際に墳墓の上に立っていた頃にどのような色だったかを復元した武人埴輪も展示されていました。墓の造営は現代の公共工事のようなものだったでしょうし、埴輪の製作も、他の地域への供給も含めて計画的に行われていたのではないかと思います。

こちらの武人はともかく、人物の多くは喜びを表現しているものが多いですし、兵馬俑のような整然とした感じは見られず、いい意味でルーズさがあります。農夫も、盾を持った人物も、時にはへらへらしていますし、稚拙ではあるものの頭に壺を乗せ、幼子を背負った埴輪などは、人間生活の営みそのものという感じがいたしまして、被葬者が生前に「いつもの暮らしと同じような埴輪を作って」とリクエストしたのではないかと思います。

水鳥の埴輪。動物は馬、犬、鹿、牛、猿、魚など実にさまざま

 

人物にはこんなものも。力士です。

 

グッズも自分にとっては目新しいものは少なく、図録などを買って会場を後にしました。それこそTシャツからネクタイ、ミニチュアに至るまで(いや、でかいのもいるなあ)持っておりますので、それだけで「モノものがたり」何回分にもなりそうです。

普段、埴輪を含めた日本の考古遺物は特別展「はにわ」が開かれている「平成館」の1階にいます。留守を守っているのはこちらでした。

盛装の女子です。こちらも女子像としては代表的で落としてはいけないものです(って落としたら割れちゃうから)。

その昔、埴輪も含めた考古展示物は国立博物館の「表慶館」で展示されていました。人もまばらな館内で、埴輪や土偶、銅鐸を独り占めして観た頃が懐かしいです。表慶館はクラシカルな内装も含めて好きです(写真は博物館公式サイトより)。

 

さて、日を改めて、今度は国立近代美術館で開催の「ハニワと土偶の近代」も観てきました。国立博物館が埴輪そのものなら、こちらはハニワや土偶を明治以降の日本人はどのように見つめてきたか、というテーマです。ここでは「はにわ」ではなくカタカナの「ハニワ」です。ポップな感じですね。ハニワは抽象・具象問わず絵画をはじめさまざまな形で描かれ、ついにはコミックや教育番組にまで進出していますが、日本神話との関連付けからとらえられていた時代が長く続きました。戦前のハニワの展示の様子も触れられていて「踊る埴輪」が当初は石こうと思われる白い部材で下半身のほとんどが補強、補修されていることが分かります。ハニワは戦後、より学術的な対象として捉えられるようになりますが、そこに現れたのが岡本太郎ほか現代芸術の旗手たちで、彼らは古墳時代の埴輪よりもさらに遡った縄文土器や土偶の美しさに魅かれるようになります。ここでハニワは土偶に「追い上げられた」わけですが、今もハニワは根強い人気を見せていて、この人たちも「復活」しています。

はに丸様は「はに丸王子」ですから(byひんべえ)「大王(おおきみ)に、オレはなる」と言っているのでしょうか(おいおい)。

こちらの展覧会の方が、初めて見聞きするものが多く、得るものが多くありました。ハニワ好きならぜひ見ておくべきです。私自身が高校生から大学に入ったあたりまでしばらくは、日本とは、日本人とは、ということをよく考えていて、仏教以前の日本・つまり古墳時代の美術からひもとくべきなのか、さらにそれ以前の縄文時代まで遡ってこそ、日本なのかといったことを自分なりに模索していました。やはり自分もハニワと神話をどこかで結び付けて見ていたことは否めません。ついでに岡本太郎の著作に感化された一人でもあります。これは答えが出ないもののようにも思えますが、10代の頃、表慶館で観たハニワや土偶たちのことを思い出しながら、美術館を後にしました。

土偶に関しては「原始芸術」の感がありまして、海外でも15年前にイギリスの大英博物館で特別展が開催され、たまたまロンドンを訪れていた時でしたので、見た記憶があります。ハニワに関してはどうでしょうか、古墳時代は西洋では古代ローマが終焉の時を迎え、中世の入り口と言う感がありますが、それ以前のギリシャ・ローマ時代にはかなりリアルな彫刻が遺されています。素朴でユーモラスな造形はそれはそれで日本のオリジナルにも見えます。西洋人はどうとらえているのか気になるところです。

 

なお、お気づきかとは思いますが、後半部分では国立近代美術館の展覧会のタイトルに合わせ、あえてカタカナの「ハニワ」という表記にいたしました。

 

こちらはだいぶ前に東京国立博物館で買ったはにわ柄の手ぬぐいとはにわ、土偶柄のネクタイ(右)。気に入って使っています。

 

 

 

 

 

 

 

 


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バブル期F1の濃い話 

2024年11月09日 | 自動車、モータースポーツ

 F1ブームと呼ばれた1990年前後の日本とF1の関係については、これまでいくつもの雑誌等で取り上げられております。少し前に発売となりましたが「レーシングオン」誌でも「F1最熱狂期 バブリッシュ・ジャパンパワー」ということで日本からのお金がどのようにF1に流れ込んだか、何を産み、何を失ったかについて触れています。なお「最熱狂期」というのは1989年~1993年頃を指しています。

もう30年以上昔の話ではありますが、バブル景気に沸く日本では、企業などのお金がエンジン供給、スポンサーだけでなく、時にはチームそのものをお買い上げ、という形でF1に流れこみます。

レイトンハウスやブラバムのように、当事者のインタビューも含め、これまで他の書物で読んで知っている話もあるわけですが、中団の雄、アロウズを買い取った運送業でおなじみだったフットワークチームの話や、F1参戦を企図しエンジンの試作を行っていたというスズキの話などは興味深く読みました。当時は参戦していたホンダやヤマハ以外にもほとんどの自動車メーカーがF1エンジンの試作を行っていた、という噂もあるほどで、以前他誌で読んだことがありますが、いすゞのように提携先のロータスにエンジンを載せてテストまで行ったケースがあったほか、スバルのように当時誰も使っていなかった水平対向エンジンを用意するも、まともに走らないまま終わってしまった、ということもありました。

(レイトンハウスのマシンのミニカー。スズキはレイトンハウスと組むという話がありました。当時はレイトンハウスはあまり好きではなく、ミニカーを買ったのもだいぶ後になってから、中古品で出ていたものでした)

 スポンサーというところでは、どんな弱小チームでも何らかの形で日本企業の支援を受けており、それをまとめた表も掲載されています。予備予選(当時は予選に進むための予選が金曜朝にあった)組のリアルやユーロプルンにも日本企業(しかもアパレルというところが時代を感じます)がついていました。家電、アパレル、食品、有線放送、メディアに結婚情報サービスと、そのお金、どこにあったの?と聞きたくなります。

テレビCMの話も懐かしいですね。キャノンのカラーコピー機とマンセル、パイオニアのカーナビを搭載したフェラーリで京都を走ったアレジ、シェルのCMにはセナが、ポポンSにはハッキネン、ハーバートのロータスの二人、もちろん日本人もエプソンと中嶋悟、東芝と鈴木亜久里だけではなく、1992年にF1デビューを果たした片山右京もJTの「CABIN」のCMに出演しているなど、賑やかな時代でした。

 こうしたジャパンマネーの中には少々怪しいところもあって、それはジャパンマネーに限ったことではないのも事実ですが、今のヘンにラグジュアリー路線になってしまい、数百億の金が動くF1よりも敷居が低かったのではという分析もうなずけます。もちろん、超優良ブランド、企業も入っていたわけで、その最たるものは「週刊少年ジャンプ」とマクラーレンのコラボでした。1990年、1991年のマクラーレン・ホンダのマシンのノーズには小さく「ジャンプ」と書かれていましたし、マクラーレンの協力に基づく漫画(原作はジャーナリストの赤井邦彦氏)もあったほどです。このあたりの話もでてまいります。あの頃のジャンプといえぱ発売日に子供も大人も本屋さんに群がる様子が有名でしたね。今や活字メディアは本屋さんも含めて厳しくなっております。これもこの30年の大きな変化です。

 名門チームがジャパンマネーで「延命措置」を施した話も出てまいります。ブラバム、ロータスと言ったタイトルを獲得したチームが、バブルの崩壊とともに消えていったというのは、何とも・・・というところです。

ブラバム最後のシーズンとなった1992年には聖飢魔Ⅱがスポンサーになりました。ノーズのピンクのところに「Seikima-Ⅱ」とあります。ドライバーのデーモン・ヒルに対し、デーモン小暮がデーモンつながりでスポンサーになったとか。ヒトだけでなく悪魔もスポンサーになりました。ちなみにデーモン・ヒルはレースの世界に足を踏み入れる前はバンドをやっていたそうです。

 

その頃の私と言えば貧乏な大学生で、バブルに沸く日本を「こんなこといつまでも、長くは続かない♪」とRCサクセションの歌ではありませんが、少々冷めた目で見ておりました。私の直前に就職活動をしていた学年と、私の時にはだいぶ様相も変わっており、バブルの余韻はまだありましたが、企業も「人を選んで」採用するようになっていたと思います。私のさらに数年後には本格的な氷河期になってしまいます。

 さて、そんな「最熱狂期」のマシンが青山のホンダウェルカムプラザにあると聞いて行ってきました。と言っても雨の日に豚児をどこかに連れて行くのに退屈しない場所を、という目的もあったのですが。

マクラーレン・ホンダMP4/5Bです。まさにジャンプがスポンサーをしていた時のマシンですね。先日開催のブラジルGPに合わせての展示です(11/24まで)。館内ではネットフリックスのセナを描いたドラマの予告編も流れていました。もっとも、豚児は11/13まで開催の「ホットウィール体験展」というイベントに夢中になっており、マテル社のミニカー「ホットウィール」を使って遊んでいました。トミカとは違う極彩色の架空の車を大きなコースで走らせておりました。

 

青山のホンダにはこれも

郵便バイクではなくて、ハローキティバージョンのスーパーカブです。スペシャル動画も流れていました。キティちゃん、動画ではホンダの白い作業服まで着ています。キティちゃんの後ろに描かれたリンゴ3個はキティちゃんの体重でしたっけ。そのスーパーカブも50ccは生産終了と出てましたね。

11/10追記。あの時代にはホンダだけでなく、ヤマハ、無限、スバルもエンジンを供給してました。また、本誌ではバブルが弾けてから独力でF1のグリッドにたどり着いたタキ井上氏の語り下ろしも載っています。こちらも面白かったです。

 

 


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