工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

残暑の一日 久しぶりに浜松へ

2024年09月26日 | 飛行機・飛行機の模型

 ようやく涼しくなってきましたが、今年は本当に暑かったですね。先日、残暑の中ではありましたが、約2年ぶりに浜松を訪れました。夏休みが1日残っており、使いたかったのと、今年の夏休みは鉄道模型のイベントに使ったことが多く、しかも業務の関係で職場と往復ということで、きちんと休めた日も少なく、よろしくない状況でした。そんなこともあって家族とどこかに行くということもなく、たまには遠出しよう、となりまして、日帰りですが新幹線に乗ってお出かけとなりました。

この子にとっては初めての新幹線です。背中はE5系「はやぶさ」ですが・・・。日帰りで行けて豚児も喜びそうなところ、ということで乗り物つながりで飛行機とか興味を示すかなあ、というわけでこのブログではおなじみ、航空自衛隊浜松基地に隣接する浜松広報館に行くことにしました。

ひかり号で浜松を目指します。平日の新幹線はビジネス客も多いですから混むことも考えられ、3人分の指定席を買いました。自ずと3人掛けですと海側になります。一人の時だと山側(D,E席)を使うことが多く、久々の海側は新鮮でした。

もともと車窓の風景が好きな豚児は大喜びです。退屈にならない程度の時間で浜松着。腹ごしらえをして浜松広報館(エアパーク)に向かいます。

前回の訪問が2022年11月ということで、2年ぶりくらいの訪問です。今回ここを選んだのは、これまで天井から吊り下げられていた零式艦上戦闘機52型が分解されて修繕を受けているということで、その珍しさもあります。

展示格納庫2階から見た様子です。

胴体は前後で分けられ、主翼も外されています。1階に降りて近づいてみました。

胴体前半分です。2階でもブルーシートで覆われた一画があって、作業をしているようでした。

主翼の付け根側です。

 

胴体の切り口から見たコクピットです。前方に計器や操縦桿が見えます。

 

主翼です。

 

 

エンジン部分。カウルが一部外されていました。

 

主脚をこういう形で観察できる機会はなかなかないですね。もともと保存状態は良かったと思いますが、丁寧に整備等がされている様子を見ることができました。再びきれいな形で展示されることを祈っております。

一部の機体が運び出されて以降、なんとなくスペースが空いているのですが、そこを利用して隊員募集の説明会を行うのか、折り畳み椅子が並べられ、隊員が生活するスペースなどが展示格納庫内に再現されており、ベッドやロッカーが置いてありました。少子化と人手不足は、どの世界でも深刻です。

豚児はブルーインパルス用T-4の座席に家人と乗ったり、2階にある簡易シミュレーターではお父さんの膝の上に乗ったりして体験しましたが、あまり興味を持っていないようでした。1階で飛行機を見ておりましたら、スタッフの方が「これから飛行機が飛びますよ」ということで、T-4やT-400といった練習機が午後の訓練のため離陸するところでした。

これらを眺めて広報館を出て、屋外の展示スペースの方に行きましたら、今度はE-767の離陸があるということで、大きな機体が空に向かう姿を見届けました。

望遠レンズ持ってくれば良かった、と後悔です。平日でしたが近隣のファンらしき方々が多く集まっていました。暑かったこともあり、帰路はタクシーにしましたが、タクシーの運転手さん曰く「今日は広報館に人が多いみたいですね」との由。確かに駐車場も車が多かったです。

浜松駅でお土産を買って新幹線で帰京です。最初は景色を眺めていた豚児も疲れたのか眠ってしまいました。真ん中の列の座席に横にさせて、両側に親二人が座るかっこうになりました。静岡土産の「こっこ」を食べたりして過ごしましたが、次第に私たちの瞼も重くなってきました・・・。

帰宅してお土産で買った(今やぜいたく品となった)ウナギを食べました。家人は大きなかば焼きを豚児と分け合い、私は白焼きにしました。この時点で私の体調が今一つで、お酒もあまり飲めない状態でしたので、飲む楽しみより食べる楽しみを味わいました。少なくとも滋養にはなったようです。

今回は一日足らずの旅でしたので、自ずと訪れるところも限られましたが、もう少し活動時間を広げて、鉄道好きの豚児には次は遠州鉄道に乗せたら喜ぶかな、などと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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T-TRAK ジオラマ ローマ・マエストラーレ通りを作る(7)

2024年09月23日 | T-TRAKジオラマ ローマ・マエストラーレ通り

 ローマ・マエストラーレ通りのジオラマ、建物の残りをご紹介します。

こちらはファーラーのキットで「管理棟」といった名称のようです。重厚な感じが役所の建物として使えそう、ということで政府機関、行政機関ということにしました。こちらは比較的組み立てが楽でした。屋根も一体成型ですので変な隙間も出ませんでした。白い部分は例によってグランプリホワイトに、レンガの部分はファレホの茶色系の色をいくつか用意し、混色しながらちまちまと塗っていくことで違いを出したかったのですが、あまれ目立たなかったです。屋根は他の古い建物同様、GMカラー17オレンジAを吹きました。旗竿はキットにはなく、1mmプラ棒を切り出し、ネットから落としたイタリア国旗とEUは旗をラベルシールに印刷しました。イタリアでは政府機関の建物ですと片側にイタリア国旗、片側にEUの旗を掲げていることが多く、重武装した憲兵(カラビニエリ)が警護しているのをよく見かけます。自治体では市の紋章などを掲げていることもあるようです。

正面には「SPQR」(ローマ市民及び元老院諸君)というローマ市の枕詞みたいなフレーズが掲げられています。古代の碑文にはじまり、現代の市民向けのお知らせまでいろいろなところに使われます。

キットではドイツ語で他のフレーズがモールドされていたのですが、イタリアと言うことで一目でそれと分かるようなものを、と思いました。プラ材を切り出し、グリーンスタッフワールドの古代ローマを題材にしたデカールから選んだものを貼りました。

この建物、今後地面編を書く時にも触れますが、建物の一部がガードの方にかかっていて、下を走る線路の真上に当たります。このサイズ建物がガードの上に建つというのは強度上ありえないのですが、トンネルの上の教会といい、どうしても手前側に建物を置くための苦肉の策でした。

ジオラマで一番小さな「建物」はこちら。新聞スタンドです。

映画館やバールの向かいにあります。このスペースもいろいろ考えましたが、これに落ち着いています。カトーのジオタウンシリーズの「タウンアクセサリーセット」から宝くじ売り場というのがあり、それを改造しています。透明パーツを外し、両側にプラ材で扉兼新聞を挿すスペースをつけました。上にエアコンの室外機があるのは宝くじ売り場のままでご愛敬ですが、このサイズの新聞スタンドでは実際には小さな扇風機が回っていたりする程度です。新聞スタンドとしてはこちらはかなり小さな部類で、ちょっとした本屋さんレベルのものもあったり、絵葉書とか玩具が一緒に売られていることもあります。人形に比べますと新聞の方がサイズが大きいですね(汗)。元となった「タウンアクセサリーセット」ですが、ホビーセンターカトーでアウトレット品として売られているものでしたので、安く入手できたのはラッキーでした。

建物以外のモニュメントについてもご紹介します。

古代の円柱です。当初は古代ローマの小さな遺跡を作ろう、などと意気込んでおりましたがスペースがなく、それでも古代っぽいものが欲しいよなあ、ということで、ローマ時代の円柱が残っている、ということにしました。そうは言ってもどうやって作るか迷いました。以前もご紹介したドイツの玩具「プレイモービル」にローマの皇帝というフィギュアのセットがあり、そこにもちょうどいい大きさの円柱があったのですが、それを使わず、自作となりました。スチレンの丸棒にプラ材を貼り付け、台座もスチレンボードから切り出しました。本当は柱の様式は違うでしょうし、上下の台座に文様などが入ると思いますが、そこまでは作りこみできませんでした。ファレホのアイボリーを塗って大理石らしさを出しました。すくなくとも千歳飴ではないことは確かです。

円柱の上には人物の銅像があります。こちらはストレレッツというメーカーの「ローマ元老院2」というキットです。1/72スケールの軟質プラでできています。戦争や歴史上の事件を描いた人形と言うのは1/72で昔からいろいろなメーカーから発売されています。ミニチュアを使ったゲームの駒としても使われたりしています。

キットの中身はこんな感じです。

さまざまなポーズのトーガ姿の元老院議員たちが入っています。2があるから1もあるわけですが、1の方はカエサル暗殺のシーンのようです。2はアントニウスあたりが馬を牽いて反乱者を討伐するため議場を後にする場面かなにかでしょうか。

この中から銅像になりそうなものを選び、プライマーを塗った後にファレホのライトグレー系の色で塗り、さらに緑青色で上塗りしました。本来ですとローマ皇帝の銅像というのは軍人姿のものが多く(大概が遠征などを記念して作ったものなので)、トーガ姿は珍しいのですが、おそらく武より文に長けた皇帝だったのでしょう。

この円柱、後ろから見るとこんな感じです。この円柱については、どうやって作ったのですか?と聞かれることが多かったのですが、銅像を除けば本当に身近な材料を使い、安上がりです。

 

そしてもう一つ。ブロンズの騎馬像です。

こちらはイタレリ1/72のローマ時代の騎兵セットで、やはり軟質プラの製品です。イタリアでは古くからエッシーというメーカーからこういった歴史もののフィギュアがよく出ていました。同社がなくなった後も歴史のひとこまを切り取った製品が出ております。箱の裏を見ましたら2001年とクレジットがありますので、買ったのもその頃かもしれません。細かな塗装もできないくせに買ってしまったのは事実です。はい。ちなみに紀元前1-2世紀の騎兵ということなので共和制から帝政に移る時代のものですね。

こちらも同じようにプライマーを塗った後でファレホのブロンズグリーンを塗りました。兵士も馬もメリハリの効いたモールドで格好いいです。足元には盾を一つおいています。台座はスチレンボードを切り出し、ファレホのアイボリーで塗りました。

 

ここまで建物編をお送りしました。ちょっと他の記事を挟んだのち、地面編をご紹介します。

 

 

 

 

 


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T-TRAK ジオラマ ローマ・マエストラーレ通りを作る(6)

2024年09月17日 | T-TRAKジオラマ ローマ・マエストラーレ通り

  前回の「ラツィオ貯蓄銀行」に続き、棟続きの店舗の話です。ちなみにこの通りに出てくる店舗の名前ですが、デパートの「COIN」を除けば基本的に架空のものです。

6-1 トラットリア「IL SETTEBELLO」

セッテベロとはイタリアを代表する特急型ETR-300につけられた愛称ですが、もともとはカードゲームの切り札から採られています。この建物、1階がそとに面してアーチ状に作られ、テラス席を置いたら合いそうだな、ということで飲食店にしました。「トラットリア」という名称も日本ではイタリア料理関連で聞くようになりましたが、「大衆食堂」くらいの意味があります。ただし、トラットリアと名乗っていても高級店だったりすることもあるのですが・・・。

グレーに緑の文字の「セッテベロ」も、本家の電車の方を意識していますし、右側の奥のガラスのところには、セッテベロのロゴともいえるカードが数枚広がった絵が見えます。

組み込んでしまえばほとんど見えなくなるのですが、それでも奥まで見通せますのでもともと入っていた床のパーツの上にテーブル、椅子を並べ、プラ材などで作った皿などを置いて・・・となりました。テラス側にもテーブル、椅子を置いています。手持ちのファーラーのものが多いのですが、プラ製なのでどうしてもゴツくなってしまいました。一部はさんけいの「みにちゅあーとプチ」の椅子やテーブルも使っています。こちらは紙製で、よりスケールに近い感じがします。紙とは言っても組み立てて接着してしまえば強度はあります。

また、ポスター類も電車の方のセッテベロにまつわるものをネットから落として壁面に貼ったりしましたが、ほとんど見えなくなってしまいました。(涙)。

給仕をする人、これから店に入ろうとする人などもいます。建物の壁はファレホのカーキグレーに、雨戸はマルーンに塗りました。お客さんも一人で来ている人、二人連れ、家族連れ、グループなど手持ちの人形からいろいろ用意しました。地元に愛されている食堂というのは概してさまざまなお客さんが来ているもので、テラスに子供連れのにぎやかな声が聞こえるかと思えば、上品なスーツを着た老年の紳士が窓際の席で静かに食べていて、なんていう光景も見かけます。食べるのが好きな私としては、このお店については頑張って作ったのではありますが、出来上がると内部などはほとんど見えないというのも・・・でして、ここはぜひ、お店の方に実物を見に来てください、というところです。

6-2 書店・CDショップ 「ディオジェネ」

 ディオジェネというのは古代の哲学者・ディオゲネスのイタリア語読みです。書店とCDショップを兼ねている、という設定です。壁はピンク系の色にしました。ローマでは一般的ではないかもしれません。ちなみに本屋さん、イタリアでは大学の近くなどでよく見かけます。雑誌などは新聞スタンドで売っていることが多いので、書店で見かけるのは雑誌以外の出版物の方が多いように思います。

このお店は特に内装なども作りこまず、中はがらんどうです。ただし、ショーウィンドーが大きいものですから、それに合ったディスプレイを考えました。

ショーウィンドーの内側のパーツに、広告コピーなどを印刷した紙を貼り、その上から透明パーツを貼っていく構造です。

通りに面している方から「カワバタ(川端康成)からキタノ(北野武)まで 日本の小説」とあります。日本文学の特集のようですね。右は「良書をこどもたちに」とあります。

 

通りを曲がって建物右側の方はCDショップのディスプレイです。ジオラマをつなげてしまうと見えなくなってしまう側です。

左から「日本からサックスの新しい波・T-SQUARE」ということで、これは私の好きなバンド、ということで。隣は「ピュア・ソウル ミンガリング・マイク」とあります。この名前を知っている方は相当な「通」です。この方、アメリカのシンガー、ということではありますが、自作のレコードがジャケットから音盤まですべて段ボールで作られており、ジャケットは手描きです。ですので商業的に流通しているのではなく、楽曲もこの人の頭の中の音楽、ということで、この「レコード」が散逸してしまい、あるとき第三者に発見されて・・・という物語を持っています(気になる方は検索してくださいね)。右はエンニオ・モリコーネのコレクションのようです。

建物編はあと一回続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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T-TRAKジオラマ ローマ・マエストラーレ通りを作る(5)

2024年09月12日 | T-TRAKジオラマ ローマ・マエストラーレ通り

 今日は建物のハイライト、3軒の店舗付き住宅です。 完成見本の写真から。

このキットもいわゆる「板状」のものを組んでいくタイプです。角地の2軒は同じ内容です。

こちらは一軒のみで郵便局として売られているものですが、建物下部のパーツを使いたくて、三軒のうち一軒の一部はこちらのパーツを使っています。

壁と窓枠は分かれていますので、ランナーについた状態で塗装しました。イタリアというと黄色やオレンジ、ピンクがかった色の外壁などもみかけますので、ファレホの黄色系、ピンク系などの色でそれぞれの壁を塗りました。また。窓枠はファレホのオフホワイトです。

中央の一軒は本来レンガ色なのですが、イタリアにはレンガ作りの建物(特にこういった住宅など)はあまり見かけませんので、ファレホのカーキグレーで塗りました。

(1)黄色い建物 「ラツィオ貯蓄銀行 マエストラーレ通り支店」

それぞれの建物を組み上げていきます。十字路に建つ黄色い建物は金融機関にしようと思い、内装なども簡単なものを作っています。

角地の建物は床が入っていませんので、プラ板を切り出して床板にして、照明を入れられるように床板の一部に穴をあけてあります。建物の一階部分は石積みのようになっており、オリジナルではショーウィンドーなのですが、郵便局のキットにあった鉄格子の入った窓の方が彼の地の銀行っぽいので、そちらをコンバートしました。

照明を入れた状態です。窓パーツの透明度もそれほど高くないため、シルエットが見える程度ですが、いい感じです。彼の地の金融機関、特に銀行は日本と違って(防犯上の理由でしょうが)入り口も狭く、入ると武装したガードマンが出迎えてくれます。旅行者が銀行にお世話になる機会と言うとATMを使うとき程度ですが、たいがいは店舗の外の壁についていることが多く、銀行の建物内に入ってATMを使うという経験はあまりないかと思います。昔私はヴェローナという街の農協みたいな金融機関で両替をしていただいたことがありましたが、店舗の中まで入った、という経験はそれくらいです。

というわけでこの銀行でも入り口近くにATMがあります。「BANCOMAT」という看板が目印です。

手前に信号機の黄色い柱が映りこんでしまっていますが、こちらがATMです。実際には壁をくりぬいて作りつけてあったりしますが、建物を組んでからちょうどいいパーツが見つかったので、完全に後付けです。こちら、プラントの精巧なパーツや模型でおなじみ、PETABAHNさん製のホーム上のグリーン券券売機を使っています。

さて、建物の窓ですが、彼の地ではたいがい鎧戸のような木製の雨戸がついていることが多く、外観上のアクセントでもあります。こちらはプラ材を切り出し、濃緑色に塗って再現しました。鎧戸になっていませんが、雰囲気重視ということで・・・。

先にご紹介した百貨店の製作の際に書きましたが、このキットも紙製の内装を箱状にして組み込むようになっています。

私は一部の窓を開けたりして、人形を入れたりもしていますので、切り取り線に従って壁面パーツごとに切り出し、両面テープや透明ゴム系接着剤で固定しています。また、窓ガラスは透明な、かなり薄いシート状のものでしたが、こちらを使うのは心もとないので、GMキットの窓セルを使っています。

こうして側板を組み上げました。屋根も一枚一枚イモ付けで組みますのでかなり組みづらいです。屋根の色は教会などと同じく、近鉄特急のオレンジ色にしました。組んだところ、あちこちに隙間ができてしまい、これでは雨漏り確定です。仕方ないので半円のプラパイプ(WAVE製)を貼って瓦のように見せて隙間をふさいでいます(矢印の部分です)。

まずは一軒目から、長くなりましたので続きます。

 

 

 

 

 

 

 


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あの夏のメロディを忘れない

2024年09月09日 | ときどき音楽

 ボサノバ音楽の第一人者の一人だったセルジオ・メンデスが亡くなりました。1960年代から第一線で活躍し続け、近年は日本でのフェス出演でも話題になりましたが、新型コロナの後遺症もあったとのことで、私もコロナ以降、後遺症というべき症状もありましたし、詳細は申しませんが呼吸器の検査を毎年欠かさず行うようになっており、未だにコロナ関連で人が亡くなるという話を聞きますと、胸が痛みます。

 セルジオ・メンデスの名前を聞いたのは1984年の夏のこと、この年に開催されたロス五輪に合わせて発表された「オリンピア」が富士フィルムのCM曲で使われたことによります。この曲のことは数年前にも書きましたが、思えば1984年というのは、カシオペアやスクエアといったフュージョンの楽曲に本格的に触れていますし、自分の音楽の好みを決定づけた季節、ということになりましょう。

(オリンピアが収録されたアルバム「Confetti」)

 そこからしばらく経って大学生になった頃でしょうか、愛読誌の「とれいん」編集部に当時いた森川幸一さん(現在はモデルワーゲンという模型メーカーを主宰)がセルジオ・メンデスのファンで、といったことを書かれていました。同じころFMの人気番組「ジェット・ストリーム」でセルジオ・メンデス ブラジル'66の曲を流していました。城達也さんのナレーションとともに、代表曲「マシュケナダ」などをエアチェックしました。このときも蒸し暑い夏のことだったと記憶しています。

 やがてベスト盤をCDで買い、さらに1994年12月の来日公演(いまはなき中野サンプラザでした)を観に行き、となりまして、ブラジル'66時代のCDを主に買いました。もちろん「オリンピア」の入った「Confetti」と言うアルバムも、早いうちに私の棚に収まっています。

 セルジオ・メンデスの楽曲はボサノバでもアントニオ・カルロス・ジョビンとは異なり、ジャズ寄りだったり、オリジナリティあふれる音作りが特徴で、そこもジョビンとは違った魅力を持っていました。早くに渡米したこともあって英語詞の曲もありました。1960年代は割と普通にあったのですが、他のミュージシャンの曲のカバーも多いのが特徴です。ビートルズ、サイモン&ガーファンクルといった当時の人気歌手・グループの曲もそうですし、ミュージカルや映画のナンバーから採られたものもありました。いずれもオリジナルとは全く違うアプローチ、アレンジで、何ともお洒落に仕上がっていて、こういうところがセルジオ・メンデスの才能を際立たせています。ちょうど「ブラジル'66」とビートルズ、サイモン&ガーファンクルは同じ時期に活動していますので、あの1960年代後半というのは何ともさまざまな才能が開花した時代ですね。英語詞の曲もあって、と書きましたが、やはりブラジルの楽曲で、さらにポルトガル語詞の方がよりエキゾチックになりますし、似合っていたように思います。

 セルジオ・メンデスは親日家だったと聞いていますが、1970年4月5日、大阪万博の会場で開催されたライブの音源もCD化されています。ちなみに私はまだ生後間もない赤ちゃんでした。ライナーノーツによれば、本人が気に入ったテイクを選んだと言われていますが、デイ・トリッパーやノルウェイの森といったビートルズナンバーあり、スカボローフェア、ドック・オブ・ベイと多種多様な曲を披露しています。このアルバム、MCでセルジオ・メンデス本人があの声で「おおきに」「もうかりまっか」とあいさつしているのが微笑ましいです。

(2000年代に入ってこのアルバムもCD化されていました)

 

 70年代に入ってブラジル'77というグループになり、その後はヒットに恵まれない期間もありました。1980年代に入り「愛よもう一度」というバラードで復活を遂げ、オリンピアにつながっていきます。そうは言いつつも「セルメン」はブラジル'66時代がいい、というファンも多いようで、前述の森川幸一さんもそうですし、スクエアの伊東たけしさんもブラジル'66のアルバムは今でも聴く、とインタビューで話していましたので、リアルタイムで経験された方にとっては特別なのでしょう。逆に私のように「オリンピア」が原体験ですと、1980年代のいかにもな洋楽ポップだったり、AORっぽい味付けの曲もとても好きだったりします。あの時代の喫茶店では、よくこういったソフトロックっぽい曲や、AORがかかっていたものです。ちなみに「愛よもう一度」以降はボーカルは他のボーカリストに任せ、自身はプロデューサー的立ち位置となっています。ときどき入るバックコーラスが「セルメンらしさ」を強調していました。

 ちょっとばかり今夜は自分に夜更かしを許し、ブラジルコーヒーを飲みながら、セルジオ・メンデスの曲をもう少し、聴くことにしましょう。

 

 


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