F1で三度の年間王者、そして最近ではメルセデスの非常勤CEOとしてF1チームに帯同していたニキ・ラウダ氏が先週亡くなりました。日本でも一般紙の訃報欄で取り上げられていましたので、それだけ著名な人物、ということになるのでしょう。週末に開催された伝統のモナコGPでも追悼行事が行われ、メルセデスのハミルトン選手、フェラーリのベッテル選手のように氏の現役時代のヘルメットのデザインを取り入れたヘルメットを被ってレースに出走したドライバーもいました。
私は直接本人と話をしたとか、サインをいただいたということは残念ながらなかったのですが、トレードマークの赤い帽子をかぶってレース前のグリッドをせわしなく歩いている姿や、メルセデスのガレージの前でメディアのインタビューを受けている姿を望遠レンズ越しによく見かけておりましたので、サーキットで必ず見かけるという意味では勝手に身近に感じておりました。昨年夏から体調を崩し、昨年の日本GPにも来日できなかったので、心配していた中での訃報ということで、大変残念に思っています。
私自身、氏の現役時代についてはリアルタイムではほとんど見たことがなく、書物や映像で知る限りですが、もしリアルタイムで見ていたら、頭脳的な走りに魅かれ、きっとファンになっていたと思います。1976年、フェラーリ在籍中の大事故からの復活と最終戦、富士スピードウェイまでもつれこんだタイトル争いについては映画「ラッシュ プライドと友情」にも描かれているので今更説明の必要はないでしょう。このシーズンの出来事は、イタリアのようにF1が人気の国ではそれほどF1に詳しくない人でも知っていましたので、多くの人にずっと語り継がれているのでしょう。ちなみに76年富士の様子は、F1解説でおなじみの今宮純氏が「モータースポーツジャーナリスト青春篇」(三樹書房)の中で、ラウダ本人にインビューした時のことも含めて触れており、こちらもご一読をお勧めします。
「不死鳥」ラウダの凄いところはこれだけではなく、一度引退して復帰、1984年にタイトルを獲得したということも挙げられます。このときはマクラーレンでチームメイトだった若きエース、アラン・プロストとの一騎打ちとなり、最終戦で0.5点差でのタイトル獲得となりました。特にシーズン後半には7戦で3勝、2位3回を獲得しています。予選で速いだけでなく決勝でポイントを取ってシーズンを通して生き残るレース戦略は、まだ速いだけの若者だったプロストに影響を与えたと言われています。一度引退して復帰、というのは最近でもミハエル・シューマッハの例がありましたが、こちらはタイトル獲得どころか、勝利を挙げることも叶いませんでした。
ちなみに今回、追悼のセレモニーが行われたモナコですが、ラウダ本人にとっては格別に相性が良かったかと言うとそうでもないようです。フェラーリで好調だった75,76年に連勝していますが、入賞できない年もあり、1983年には不運が重なったとは言え、予選落ちの憂き目にも遭っています。
ラウダ氏はただ他人より速く走るだけでなく、現役時代にドライバーとして著作も発表しており「ニキ・ラウダF1の世界」や「ターボ時代のF1」は翻訳も出版されています。ここでは前者について触れるにとどめますが、「レーシングカー及びレースを正しく知ってほしい」という理由から本を書いた、と述べています。特にマシンの構造、ドライビング、サーキットの特性、マシンのテストといった章にページを割き、自身がコクピットの中で見たまま、感じたままを詳細に記しているという感があります。中には頭の中で判断したことを行動に移してステアリングを切り、アクセルやブレーキを踏み、といったところも細かく分析しており、まさに「走るコンピュータ」の面目躍如というところです。
レースそのものについてはようやく終わりの方で一章を割いています(ただし、その中に76年の富士での本人の「勇気ある決断」についても触れられています)。機械工学の内容については大学の先生の手を煩わせた、と実名で紹介するなど、完全にラウダ一人で書いた本ではないようです。ただし、それもレーシングカー及びレースを正しく理解してほしい、という本人の意思の表れであり、本書を読むと自分に対して非常に正直な人だったのでは、と思わせます。
後年、他の書物を読んだときに、この「ニキ・ラウダF1の世界」を思い起こすことがありました。作家の塩野七生氏が「皇帝フリードリッヒ二世の生涯」という中世の神聖ローマ帝国皇帝の伝記を書いており、その中の記述になりますが、この皇帝は鷹狩りの趣味が高じて「鷹狩の書」という書物を遺しています。そこでは「あるがままに、見たままに書く」ことをモットーとし、鳥の種類から生態に至るまで細かく分類、分析した上で、ようやく残りの1/3で鷹狩りそのものを記載していたということで、「不死鳥」ラウダは中世の皇帝の書をどこかで意識していたのではないか、と勝手に思ってしまったものです。
このブログは乗り物全般について触れていますので、ラウダ氏と民間航空業界との関係についても書きましょう。新聞記事でも「引退後は航空事業に参入し・・・」といった記載があるように、ラウダ航空、ニキ航空といった会社を立ち上げています。ニキ航空については銀色のエアバスの胴体の機首にハエの絵を描くというなかなかユニークな塗装をしていた時期がありました。横浜銀蠅ならぬウィーン銀蠅だったわけです。以前ヨーロッパを旅行した際に、ニキ航空の看板などを空港で見かけましたので、健在ぶりを知ることができたものです。
今回は一人の人物についてたっぷり書きました。一ファンの心情も含めて書かせていただいたところもありましたので、読みづらいところもあったかもしれませんが、ご容赦ください。
本稿は6月4日に一部加筆いたしました。
私は直接本人と話をしたとか、サインをいただいたということは残念ながらなかったのですが、トレードマークの赤い帽子をかぶってレース前のグリッドをせわしなく歩いている姿や、メルセデスのガレージの前でメディアのインタビューを受けている姿を望遠レンズ越しによく見かけておりましたので、サーキットで必ず見かけるという意味では勝手に身近に感じておりました。昨年夏から体調を崩し、昨年の日本GPにも来日できなかったので、心配していた中での訃報ということで、大変残念に思っています。
私自身、氏の現役時代についてはリアルタイムではほとんど見たことがなく、書物や映像で知る限りですが、もしリアルタイムで見ていたら、頭脳的な走りに魅かれ、きっとファンになっていたと思います。1976年、フェラーリ在籍中の大事故からの復活と最終戦、富士スピードウェイまでもつれこんだタイトル争いについては映画「ラッシュ プライドと友情」にも描かれているので今更説明の必要はないでしょう。このシーズンの出来事は、イタリアのようにF1が人気の国ではそれほどF1に詳しくない人でも知っていましたので、多くの人にずっと語り継がれているのでしょう。ちなみに76年富士の様子は、F1解説でおなじみの今宮純氏が「モータースポーツジャーナリスト青春篇」(三樹書房)の中で、ラウダ本人にインビューした時のことも含めて触れており、こちらもご一読をお勧めします。
「不死鳥」ラウダの凄いところはこれだけではなく、一度引退して復帰、1984年にタイトルを獲得したということも挙げられます。このときはマクラーレンでチームメイトだった若きエース、アラン・プロストとの一騎打ちとなり、最終戦で0.5点差でのタイトル獲得となりました。特にシーズン後半には7戦で3勝、2位3回を獲得しています。予選で速いだけでなく決勝でポイントを取ってシーズンを通して生き残るレース戦略は、まだ速いだけの若者だったプロストに影響を与えたと言われています。一度引退して復帰、というのは最近でもミハエル・シューマッハの例がありましたが、こちらはタイトル獲得どころか、勝利を挙げることも叶いませんでした。
ちなみに今回、追悼のセレモニーが行われたモナコですが、ラウダ本人にとっては格別に相性が良かったかと言うとそうでもないようです。フェラーリで好調だった75,76年に連勝していますが、入賞できない年もあり、1983年には不運が重なったとは言え、予選落ちの憂き目にも遭っています。
ラウダ氏はただ他人より速く走るだけでなく、現役時代にドライバーとして著作も発表しており「ニキ・ラウダF1の世界」や「ターボ時代のF1」は翻訳も出版されています。ここでは前者について触れるにとどめますが、「レーシングカー及びレースを正しく知ってほしい」という理由から本を書いた、と述べています。特にマシンの構造、ドライビング、サーキットの特性、マシンのテストといった章にページを割き、自身がコクピットの中で見たまま、感じたままを詳細に記しているという感があります。中には頭の中で判断したことを行動に移してステアリングを切り、アクセルやブレーキを踏み、といったところも細かく分析しており、まさに「走るコンピュータ」の面目躍如というところです。
レースそのものについてはようやく終わりの方で一章を割いています(ただし、その中に76年の富士での本人の「勇気ある決断」についても触れられています)。機械工学の内容については大学の先生の手を煩わせた、と実名で紹介するなど、完全にラウダ一人で書いた本ではないようです。ただし、それもレーシングカー及びレースを正しく理解してほしい、という本人の意思の表れであり、本書を読むと自分に対して非常に正直な人だったのでは、と思わせます。
後年、他の書物を読んだときに、この「ニキ・ラウダF1の世界」を思い起こすことがありました。作家の塩野七生氏が「皇帝フリードリッヒ二世の生涯」という中世の神聖ローマ帝国皇帝の伝記を書いており、その中の記述になりますが、この皇帝は鷹狩りの趣味が高じて「鷹狩の書」という書物を遺しています。そこでは「あるがままに、見たままに書く」ことをモットーとし、鳥の種類から生態に至るまで細かく分類、分析した上で、ようやく残りの1/3で鷹狩りそのものを記載していたということで、「不死鳥」ラウダは中世の皇帝の書をどこかで意識していたのではないか、と勝手に思ってしまったものです。
このブログは乗り物全般について触れていますので、ラウダ氏と民間航空業界との関係についても書きましょう。新聞記事でも「引退後は航空事業に参入し・・・」といった記載があるように、ラウダ航空、ニキ航空といった会社を立ち上げています。ニキ航空については銀色のエアバスの胴体の機首にハエの絵を描くというなかなかユニークな塗装をしていた時期がありました。横浜銀蠅ならぬウィーン銀蠅だったわけです。以前ヨーロッパを旅行した際に、ニキ航空の看板などを空港で見かけましたので、健在ぶりを知ることができたものです。
今回は一人の人物についてたっぷり書きました。一ファンの心情も含めて書かせていただいたところもありましたので、読みづらいところもあったかもしれませんが、ご容赦ください。
本稿は6月4日に一部加筆いたしました。