工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

バブル期F1の濃い話 

2024年11月09日 | 自動車、モータースポーツ

 F1ブームと呼ばれた1990年前後の日本とF1の関係については、これまでいくつもの雑誌等で取り上げられております。少し前に発売となりましたが「レーシングオン」誌でも「F1最熱狂期 バブリッシュ・ジャパンパワー」ということで日本からのお金がどのようにF1に流れ込んだか、何を産み、何を失ったかについて触れています。なお「最熱狂期」というのは1989年~1993年頃を指しています。

もう30年以上昔の話ではありますが、バブル景気に沸く日本では、企業などのお金がエンジン供給、スポンサーだけでなく、時にはチームそのものをお買い上げ、という形でF1に流れこみます。

レイトンハウスやブラバムのように、当事者のインタビューも含め、これまで他の書物で読んで知っている話もあるわけですが、中団の雄、アロウズを買い取った運送業でおなじみだったフットワークチームの話や、F1参戦を企図しエンジンの試作を行っていたというスズキの話などは興味深く読みました。当時は参戦していたホンダやヤマハ以外にもほとんどの自動車メーカーがF1エンジンの試作を行っていた、という噂もあるほどで、以前他誌で読んだことがありますが、いすゞのように提携先のロータスにエンジンを載せてテストまで行ったケースがあったほか、スバルのように当時誰も使っていなかった水平対向エンジンを用意するも、まともに走らないまま終わってしまった、ということもありました。

(レイトンハウスのマシンのミニカー。スズキはレイトンハウスと組むという話がありました。当時はレイトンハウスはあまり好きではなく、ミニカーを買ったのもだいぶ後になってから、中古品で出ていたものでした)

 スポンサーというところでは、どんな弱小チームでも何らかの形で日本企業の支援を受けており、それをまとめた表も掲載されています。予備予選(当時は予選に進むための予選が金曜朝にあった)組のリアルやユーロプルンにも日本企業(しかもアパレルというところが時代を感じます)がついていました。家電、アパレル、食品、有線放送、メディアに結婚情報サービスと、そのお金、どこにあったの?と聞きたくなります。

テレビCMの話も懐かしいですね。キャノンのカラーコピー機とマンセル、パイオニアのカーナビを搭載したフェラーリで京都を走ったアレジ、シェルのCMにはセナが、ポポンSにはハッキネン、ハーバートのロータスの二人、もちろん日本人もエプソンと中嶋悟、東芝と鈴木亜久里だけではなく、1992年にF1デビューを果たした片山右京もJTの「CABIN」のCMに出演しているなど、賑やかな時代でした。

 こうしたジャパンマネーの中には少々怪しいところもあって、それはジャパンマネーに限ったことではないのも事実ですが、今のヘンにラグジュアリー路線になってしまい、数百億の金が動くF1よりも敷居が低かったのではという分析もうなずけます。もちろん、超優良ブランド、企業も入っていたわけで、その最たるものは「週刊少年ジャンプ」とマクラーレンのコラボでした。1990年、1991年のマクラーレン・ホンダのマシンのノーズには小さく「ジャンプ」と書かれていましたし、マクラーレンの協力に基づく漫画(原作はジャーナリストの赤井邦彦氏)もあったほどです。このあたりの話もでてまいります。あの頃のジャンプといえぱ発売日に子供も大人も本屋さんに群がる様子が有名でしたね。今や活字メディアは本屋さんも含めて厳しくなっております。これもこの30年の大きな変化です。

 名門チームがジャパンマネーで「延命措置」を施した話も出てまいります。ブラバム、ロータスと言ったタイトルを獲得したチームが、バブルの崩壊とともに消えていったというのは、何とも・・・というところです。

ブラバム最後のシーズンとなった1992年には聖飢魔Ⅱがスポンサーになりました。ノーズのピンクのところに「Seikima-Ⅱ」とあります。ドライバーのデーモン・ヒルに対し、デーモン小暮がデーモンつながりでスポンサーになったとか。ヒトだけでなく悪魔もスポンサーになりました。ちなみにデーモン・ヒルはレースの世界に足を踏み入れる前はバンドをやっていたそうです。

 

その頃の私と言えば貧乏な大学生で、バブルに沸く日本を「こんなこといつまでも、長くは続かない♪」とRCサクセションの歌ではありませんが、少々冷めた目で見ておりました。私の直前に就職活動をしていた学年と、私の時にはだいぶ様相も変わっており、バブルの余韻はまだありましたが、企業も「人を選んで」採用するようになっていたと思います。私のさらに数年後には本格的な氷河期になってしまいます。

 さて、そんな「最熱狂期」のマシンが青山のホンダウェルカムプラザにあると聞いて行ってきました。と言っても雨の日に豚児をどこかに連れて行くのに退屈しない場所を、という目的もあったのですが。

マクラーレン・ホンダMP4/5Bです。まさにジャンプがスポンサーをしていた時のマシンですね。先日開催のブラジルGPに合わせての展示です(11/24まで)。館内ではネットフリックスのセナを描いたドラマの予告編も流れていました。もっとも、豚児は11/13まで開催の「ホットウィール体験展」というイベントに夢中になっており、マテル社のミニカー「ホットウィール」を使って遊んでいました。トミカとは違う極彩色の架空の車を大きなコースで走らせておりました。

 

青山のホンダにはこれも

郵便バイクではなくて、ハローキティバージョンのスーパーカブです。スペシャル動画も流れていました。キティちゃん、動画ではホンダの白い作業服まで着ています。キティちゃんの後ろに描かれたリンゴ3個はキティちゃんの体重でしたっけ。そのスーパーカブも50ccは生産終了と出てましたね。

11/10追記。あの時代にはホンダだけでなく、ヤマハ、無限、スバルもエンジンを供給してました。また、本誌ではバブルが弾けてから独力でF1のグリッドにたどり着いたタキ井上氏の語り下ろしも載っています。こちらも面白かったです。

 

 


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あの日、俺たちは佐藤琢磨の表彰台を信じていた 2004年日本グランプリ

2024年10月14日 | 自動車、モータースポーツ

 昨日に引き続き2004年のBAR006ホンダをめぐる話です。2004年シーズンはミハエル・シューマッハが独走でタイトルを獲得、実に5年連続の王座となりました。そんな中で迎えた日本GPでしたが、いきなり不穏な空気に包まれます。台風22号が接近していて、週末には中部地方を直撃するのでは、と言われていました。

(2004年日本GP プログラム)

 初日の金曜日から既に強い雨となっていました。私はグランドスタンドにいましたが、当時は屋根のある席は限られており、私は野ざらしでベネトンのポンチョを被り、背もたれの無いベンチシートで見守りました。雨具がきかないほどの強い雨で心も折れます。おそらく、サーキットにいる時点で耳にしたとは思いますが、土曜日は台風が接近するのでサーキットは閉鎖します、予選と決勝を日曜にまとめて行います、ということでF1史上初めての「ワンデーレース」となりました。金曜日にいつまで私がサーキットにいたかは覚えていませんが、津まで伊勢鉄道で出て、近鉄特急に乗った途端にすごくほっとした気分だったことはよく覚えています。

 名古屋も台風が接近している、ということであわただしくなっていました。特にメディアなどで「伊勢湾台風以来」という言葉が聞かれたのでなおさらです。確かに予想進路が伊勢湾台風のそれと酷似していましたので、中京地区の人にとっては昔の話なれど、やはり「これは大変だぞ」という気持ちになったことでしょう。しかし、近年のように交通機関が計画運休する、とかお店を閉める、といったことは少なかったように思います。ホテルは繁華街の栄にありました。今は無くなってしまったようですが、古めかしい感じで、鉄の扉にアクリルの棒状のキーホルダーという、なんとも風情のあるお宿でした。当然オートロックでもなかったような・・・。雨で濡れたズボンを乾かし、靴に新聞紙を沢山詰めて何度も取り換えて・・・と思わぬ金曜日の夜を過ごしました。気温も下がってまいりまして、サーキットで買ったルノーのパーカーが役に立ちました。

 さて、これで土曜日の予定が丸々空いてしまいました。長久手にあるトヨタの博物館が開いているようだったので、地下鉄に乗って行ってみました。同じような理由で訪れている方も見かけました。初めての訪問でしたが、珍しい車もたくさんあって興味深かったです。台風は当初より東寄りにコースを取りましたので、静岡、関東で被害をもたらします。この土曜日に日比谷野外音楽堂でT-SQUAREの公演が予定されていましたが、当然中止になりました。私の友人夫妻が霞が関まで行ってやっぱり中止だと知って帰った、と後で教えてくれました。

 名古屋駅前の百貨店も開いていて、少し遅めの昼を食べてホテルに戻りました。それでも時間が空いています。途中のコンビニで買った食玩の飛行機を組み立てたり(あの頃は食玩をコンビニでよく見かけました)、ホテルの中のテナントにマッサージのお店があって、服を着たままマッサージできます、ということで体の疲れをほぐしてもらったりしました。栄で晩御飯を食べ、初のワンデーレースに向けて英気を養いました。サーキットにいたドライバー達もそれぞれのお休みを過ごしたようで、M.シューマッハは遊園地・ホテル併設のボウリング場で楽しんだ、という記事を見かけました。自由席で観戦される方の中には徹夜で場所取りとか、オートキャンプ場で夜を過ごす方もいましたが、どこで、どうやって一夜を明かしたのか、みなさん大変だったと思います。

 日曜日はJRと伊勢鉄道を使ってサーキットに着いたと思います。GPスクエアと呼ばれる広場でT-SQUAREがリハーサルをしています。野音の中止の後でどうやってここまで来たのか不思議です。T-SQUAREは特設ステージでミニライブを行い、私も観ました。

(リハーサル風景・安藤正容さん(左・ギター)、伊東たけしさん(中央・ewi)の姿が見えます)

 午前9時からの予選は当初ウェット路面でしたが、次第に乾き始めてドライコンディションになりました。ポールはミハエル・シューマッハ、そして2位に弟のラルフ・シューマッハ、3位がジャガーのマーク・ウェバー、4位に佐藤琢磨、5位にジェンソン・バトンと続きます。日曜午前にはサポートレースや、ホンダの初参戦40年を記念したパレードランが予定されていましたが、確か両方とも中止になったのではないかと思います。佐藤琢磨は4位でしたが、ウェバーなら前に出られそうですし、もしかしたらラルフ・シューマッハのウィリアムズにも勝てるんじゃないか、と思っていました。

(予選に向かうM.シューマッハ)

 

(BAR・ホンダのピット)

 

(ウィリアムズ・BMW ラルフ・シューマッハのマシン。白と紺のBMWカラーはすっきりとしていて好きでした)

 

(今も2コーナーあたりはジャパンパワーの応援席ですが、このときも琢磨の応援席がありました)

 

(グリッド上に向かうメカニックたち。BARの外国人メカニックはハチマキしています)

 

(ピットレーンの出口が良く見える席でしたので、ピットスタートのミナルディチームのマシンが見えました。ミナルディのバウムガルトナーは琢磨が3位に入ったアメリカGPで8位に入賞。これがシーズン中チーム唯一のポイントでした)

 

 決勝は午後2時半スタートでした。スタートが良かったのはバトンで、琢磨とウェバーを抜いて一気に3位に上がります。バトンに前を押さえられてしまったことで、バトンより1回多いピットストップ・給油戦略を取っていた琢磨は不利な展開です。

(フェラーリ・シューマッハに対するサインボード 現在1位、4.6秒後方にラルフ(シューマッハ)、14.3秒後方に佐藤(琢磨)、9周目 という表記です)

 一度は琢磨も3位に立ちましたが、バトンに逆転され、結局レースはそのままむの展開で進み、M.シューマッハが一度もラップリーダーを渡すことなく勝利。2位に弟のラルフ・シューマッハが入り、兄弟での1-2という結果が生まれました。3位にバトンが入り、佐藤琢磨が4位でした。地元鈴鹿で期待されていた表彰台に届かず、私も嬉しかったというよりも残念な気分になりました。もし、角田裕毅が4位に入れば、今なら大騒ぎでしょうが、この時の佐藤琢磨に関しては「琢磨ならもっと上に行けたはず」と当時の私は思っていたわけです。

 表彰式もそこそこに名古屋に戻りました。日曜も名古屋に泊っていたかもしれません。長く感じるグランプリの週末でした。

 この後、私は上下別になっている雨具を買い、雨の予報がなくとも荷物に入れるようになりました。ちなみに今使っているのはワークマンのものです。雨への対処は秋開催だろうが春開催だろうが求められますので、雨具だけでなくバッグをカバーで覆ったりとか、いろいろなことをしています。

 ワンデーレースはその後も日本GPをはじめ、いくつかのグランプリで行われています。それだけ気候変動でひどい天気になることが多くなっているわけでもあります。史上初のワンデーレース、さらに史上初めて同じ日にポールポジションと決勝の優勝を果たした、M.シューマッハのレースを目撃したというのは貴重な機会となりました。

 

ホンダ参戦40年を記念した展示から

1966年デビューのRA273 タミヤの1/12キットでおなじみです。あまり見かけない感があります

 

第二期初期のマシン スピリット・ホンダ

 

エンジンなどが入っていない展示用と思われますが、マシンも随分みかけました。

BARホンダ

 

オリンパスのブースにフェラーリのマシンがありました。中継のスポンサーにもなっていましたっけ。

 

マクラーレン・メルセデス

 

マイルドセブンはルノーを支援していました。以前は試供品(当然タバコですが)を配っていたこともありました。

 

トヨタもワークス参戦していました。

 

日本GP仕様としてミニカーも後日発売されました。

(タバコ広告禁止はミニカーの世界にもおよび、本来ならあるはずの「ラッキーストライク」の広告はありません)

 

20年前は今よりも不便なところは多かったし、トイレは仮設が並ぶ野外フェス状態でしたが、それでもまだ企業ごと、自動車メーカーごとのオリジナリティのある展示があったりして、それはそれで楽しかったものです。パチモンすれすれだったり、F1と直接関係ないけど自動車ネタのグッズも見かけました。残してあった当時のチケットを見たら、この20年で値段も倍、場所によってはそれ以上になっています。俺の給料、倍になっていないのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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あの日、俺たちは佐藤琢磨の初優勝を願っていた BAR006と2004年のF1シーズン

2024年10月12日 | 自動車、モータースポーツ

 今日からしばらくジオラマの話は横に置き、別のネタになりますがご了承ください。

 いつもならこの時期はF1日本GPのお話を書いているわけですが、ご存じのとおり日本GPは今年から春開催となりました。今日はちょうど20年前の2004年シーズンに活躍したマシンとドライバーの話です。

 三栄のGPCar Storyが夏にBAR006というマシンを特集しました。こちらはホンダ第3期にホンダエンジンを積んで好走したマシンです。BARというのは「ブリティッシュ・アメリカン・レーシング」のことでラッキーストライクや「555」といったタバコでおなじみの「ブリティッシュ・アメリカン・タバコ」がスポンサーとなり、当初はジャック・ビルヌーブ(1997年年間王者)のためのチームでした。ホンダの第三期参入の際では、こちらとジョーダン・チームと組んでおりましたが、2003年時点ではジョーダンとのジョイントは外れ、ホンダがエンジン供給をBARに一本化しています。

 ドライバーはジェンソン・バトンと佐藤琢磨でした。琢磨は2002年にジョーダンでデビュー、2003年は「浪人中」でしたが、最終戦からビルヌーブの代わりにBARに加入、日本GPで6位に入る活躍をしています。バトンは20歳で鳴り物入りのデビューから5年目でしたが、この時点では表彰台に上がることはありませんでした。

 果たしてBAR006ですが、開幕前からなかなかの好調ぶりが伝えられ、シーズン入りしてその実力が証明されます。シーズン序盤のマレーシアを皮切りにバトンが10回の表彰台、佐藤琢磨も9度の入賞、そのうち1回はアメリカGPでの3位表彰台ということで、優勝こそありませんでしたがバトンはランキング3位、佐藤琢磨は8位で、コンストラクターズでも2位ということで、フェラーリ(シューマッハが18戦13勝と圧倒しました)に次ぐ成績で締めくくりました。

 本書ではいつものように、ドライバー、チーム関係者らの証言から、このマシンを紐解いています。バトンは「優勝できてもおかしくないくらいのマシン」と評していますし、佐藤琢磨にとってもリタイアが多いとは言え(しかもエンジンが理由と言うことがバトンよりも多く、ファンはそのたびに落胆したものです)、勝利を狙える位置でのレースはやはり充実したものだったことがうかがえます。マシンが良くなった理由に、空力面などの車体開発、エンジンの改良、ミシュランタイヤへの変更など、さまざまな要因が上手く重なったことが挙げられます。確かに車体は奇をてらわず、オーソドックスなつくりではありますが、見えないところでの工夫も随分となされていたようです。また、ミシュランへの変更については、ブリヂストンが事実上フェラーリの「ワークス」だったこともあり、このままでは勝てない、という思いがあったようです。個人的には「オールジャパン・パッケージ」に憧れたのですが・・・。テストドライバーりアンソニー・デビッドソンもミシュランとのマッチングの良さを挙げています。

 ジェンソン・バトンに対しては「俺が俺が」というタイプのドライバーではないところがあったとは言いますし、この時点ではタイヤの「使い方」は後にタイトルを獲ったアロンソなどに比べると上手ではなかった、という声もあります。しかし、バトンにとってはキャリア初の表彰台から表彰台の常連へあっという間、ということで大きな飛躍の1年となりました。ただ、このチームで優勝するのは2006年まで待つことになりますし、さらにタイトルを獲るのは2009年のことになります。

 佐藤琢磨のエンジンばかりが壊れる、というのは、ホンダのスタッフのインタビューなどではシフトアップ、シフトダウンでエンジンに悪影響を与える「魔の共振域」があり、その回転数でエンジンをホールドすると壊れてしまうということで、琢磨がその回転数を使うことが原因だったのでは、という分析もあるようですが、明確な答えにはなっていないようです。それでも、ニュルブルクリンクでは予選2位、インディアナポリスでは予選3位、決勝3位ということで、それ以外にも予選でトップ10以内が当たり前になっていましたので「今日はもしかしたら勝つかも」とか「今日はだめだったけど次はきっと」という期待を抱かせてくれるのでした。1994年の片山右京もそんな場面がありましたが、それ以上に表彰台、優勝が「夢ではない」と思わせてくれたのでした。日本人が表彰台に立ったのが1990年日本GPの鈴木亜久里以来ということで、日本GP以外での日本人の表彰台というのも2024年10月時点では唯一となっています。佐藤琢磨が表彰台に立ったインディアナポリスですが、琢磨が後にインディカーに参戦して二度の優勝を遂げたインディ500のコースの一部を拝借し、インフィールドにコーナーを配したつくりとなっていましたので、あまり高低差はありませんでした。それにしてもインディアナポリスと縁があるようですね。

 このシーズンを振り返ると、改めて「ジャパン・パワー」が何らかの形でサーキットにあふれていた時代だな、と思いました。ホンダだけでなく、トヨタはコンストラクターとして参戦していますし、ルノーはマイルドセブンの水色をまとっていました。タイヤにはブリヂストンがミシュランと「もう一つのバトル」を繰り広げていました。また、本書で興味深かったのは、ホンダのエンジニア、メカニックの中にその後も何らかの形でF1に関わっている人が多いことで、第4期で苦労の末、レッドブルと共に頂点に立った田辺豊治氏をはじめ、ハースの現代表・小松礼雄氏も当時はこのチームに関わっていました。

 その後のBARとホンダの関係ですが、最終的にホンダがBARのチームの株式を取得して、オール・ホンダが1968年以来誕生しました。2006年には一勝を挙げることができましたが、リーマンショックに端を発した恐慌もあり、ホンダは2008年で一度撤退します。BARではエンジン側と車体側の融合というか、開発の方向性でもなかなか足並みがそろわなかったのですが、車体もエンジンも、となった後も同じでした。2008年にロス・ブラウンがチームに加入、ここでみんなの方向性を一つに擦り合わせることが行われ、それがホンダ撤退後の「ブラウンGP」の成功に繋がっていくのが何ともやるせない感があります(ブラウンGPについては拙ブログでも書きましたが)。

 チームを指揮しながら、ホンダにすべて渡すことになったデビッド・リチャーズチーム代表のインタビューも一読の価値ありです。ビルヌーブのチームだったはずが、そのビルヌーブをクビにして、というくだりが「そういうことして追い出したのね」と思いましたし、それはビルヌーブとしばらく口を聞かなかったのもむべなるかな、という感じがしました。

 このシーズンはシューマッハ13勝、バリチェロ2勝、モントーヤ、トゥルーリ、ライコネンが各1勝ではありましたが、未勝利のBARがコンストラクターズ2位に入ったということは、チームのドライバー2人がいかによく頑張ったかを示しています。

 さて、このシーズンと言いますと、どうしても日本GPのことを書きたくなります。続きは次回に書きましょう。

1/43のミニカーです(ミニチャンプス製)。鈴鹿サーキット別注のものを購入しています。ラッキーストライクの「赤丸」部分がバーコードになっています。サーキットでタバコ広告を見かけることができたのはこの頃までです。

 

 

 

 

 

 

 

 


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天才マシンデザイナー批判序説!? フェラーリ412T1

2024年08月22日 | 自動車、モータースポーツ

 F1グランプリも夏の間のお休みが明けて次の週末からレース再開です。今年はなかなかの混戦模様になっておりますが、今日のテーマは30年前のシーズンを駆け抜けたマシンのお話です。

 三栄のGPCar Storyの今春の号がフェラーリ412T1でした。既に次の号も出ていますし(こちらもいずれ紹介しますね)、今さらなのは承知の上ですが、やはりご紹介したかったので書いております。こちらのマシン、1994年シーズンに向けて開発されました。天才デザイナー、ジョン・バーナードがフェラーリに復帰して手がけた1台であり、絞り込まれたボディとNACAダクトを思わせる空気取り入れ口が特徴でした。ジョン・バーナードは1980年代にいち早くカーボンを本格的に導入することで、マクラーレンを常勝軍団にすることに成功した立役者でしたし、80年代末にはフェラーリで641/2という非常に美しく、また速いマシンを生み出し、90年にはプロストがセナとタイトル争いをするところまで来ていました。ところが、彼が去った後のフェラーリは低迷、以前ご紹介したF92Aのような失敗作を含め、91年~93年は未勝利に終わってしまいました。そこで再びフェラーリにやってきたバーナードには大きな期待が寄せられたのでした。果たして彼がデザインしたマシンですが、素人目にも「随分と絞り込んだけどフェラーリは伝統のV12エンジンだし、冷却とか大丈夫かなあ」と思わせるものがあったのですが、案の定冷却不足などに泣かされます。そして、シーズン中盤から特徴あるサイドポンツーンをばっさり切った412T1Bに引き継がれます。この「魔改造」が功を奏した形となり、ドイツGPでは荒れた展開の中でベルガーが優勝し、久々の勝利をフェラーリにもたらしました。

(イギリスGPのプログラムより。既に開口部を広げるなどの小さな改良が始まっていました)

 本書ではいつものように関係者のインタビューなどを含めて、このマシンに迫っています。今回随分と関係者の口に上ったのは、これをデザインしたジョン・バーナードへの批判でした。一つはバーナードが本拠地のイギリスを動かず、イタリアのフェラーリ本社に椅子と机を持つわけでもなく、レースウィークは金曜日にサーキットにやってきて(的外れな)指示を出してイギリスに戻って、の繰り返しであり、セッティングの指示についてはあまり役に立たなかった、と述べるエンジニアもいますし、元ホンダでこのシーズンからフェラーリにいた後藤治さんに至っては「バーナードは空力もエンジンも分かっていなかった」とかなり厳しい評価です。空力への理解の無さ、というのはドライバーの一人、ジャン・アレジも指摘しているのですが・・・。

 このシーズンはアイルトン・セナの事故死など、大きな事故が続いたこともあって、急場しのぎの車輌規定の変更が相次ぎました。それと並行するかのようにフェラーリ412T1もインテークを広げてみたり、いろいろトライするも決定的な改善に至らず、とうとうシーズン後半からはグスタフ・ブルナーに「改良」をお願いするに至ります。そこで特徴的なサイドポンツーンを切り、よく言えば凡庸、悪く言えば美しさとは対極のマシンになりました。それが功を奏したわけですが、特に高速系のコースで力を発揮して、当時名うての高速コースだったドイツ・ホッケンハイムでのベルガーの勝利につながっていきます。この改造に対してジョン・バーナードはかなりご不満の様子で、インタビューでも「デザインを台無しにされた。サイドポンツーンが勝てなかった原因じゃない」と述べています。

(412T1B。この年のオーストラリアGPのプログラムより)

 ベルガーへのインタビューでは搭載されたエンジンについて、当時F1から撤退していたホンダの支援もあった、という話も出てきます。これは当時から伝えられていたところでしたし、ニキ・ラウダがホンダの川本社長(当時)に談判した、とベルガーも答えています。ホンダを辞めて時間が経っていたとはいえ、ホンダエンジンをよく知る後藤治さんが加入したというのも大きかったでしょう。

 低迷したフェラーリですが、翌年もアレジが初優勝(であり唯一のF1勝利)を遂げるなど、徐々にフェラーリも上向いてきました。96年にシューマッハが加入し、さらに強いチームになっていきますので、94年シーズンと412T1/T1Bは復活の第一歩となったマシン、と評価してもよいと思います。

 このシーズンは大事故が続くなど、F1にとっては試練の1年でした。セナが亡くなったイモラのレースで2位に入ったのは、テストでケガをしたアレジの代役でドライブしたニコラ・ラリーニでした。本書でも大事故の週末で素直に喜ぶことも難しい複雑な心境について本人のインタビューが掲載されています。

 ベルガー優勝のドイツGPですが、上位陣の脱落で予選5位につけていた片山右京(ティレル・ヤマハ)にも表彰台のチャンスがありましたが、やはりマシントラブルでリタイアしています。2位、3位に予選後方スタートのリジェ勢が入ったことを思えば、返す返すも残念なレースでした。94年の右京の躍進はこの辛いシーズンの数少ない明るい話題でした。このレース、当時許されていたレース中のピットでの給油作業で火災が発生しました。ベネトンのマシンが猛火に包まれたのですが、そのマシンの主はヨス・フェルスタッペンで、今やレッドブルのエースにしてチャンピオン、フェルスタッペンのお父さんでした。

 さて、マシンの話に戻りますが、フェラーリ好きの私の場合、タイトル獲得といったエポックメイキングなマシン(それに限らずF92Aのような美しき失敗作も)については、プラモデルかミニカーで持っているものですが、このマシンについては手元にありませんでした。久々の勝利なのだから、持っていても不思議ではないのですが、原型も改造後もあまり好きな形ではなかったのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 


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祝!  モナコ生まれのドライバーのモナコGP優勝

2024年06月05日 | 自動車、モータースポーツ

 先日開催されたF1モナコGPで、フェラーリに乗るシャルル・ルクレールが優勝しました。ルクレールはモナコ生まれ(当然モナコ国籍です)ということで、地元GPの優勝となりました。レースそのものは1周目に複数個所で大きなクラッシュがあって中断、再スタートといった波乱もありましたが、ルクレールは混乱をよそにレースをリードし、見事に優勝を飾りました。2位にマクラーレンのピアストリ、3位にフェラーリのチームメイト、サインツが上がるということで、久々にレッドブルがいない表彰台となりました。フェラーリとマクラーレンで占めたモナコなんて、昔の「セナ・プロ」時代のようですが、そのマクラーレンはセナ没後30年に合わせ「モナコ・マイスター」セナをトリビュートしたブラジルカラーのマシンでレースに臨みました。表彰台に立てて、大先輩を称えることができたかな。ルクレールに関しては何度も挑戦するもいいところが無かったり、思わぬ形でレースを諦めたりと、地元優勝に向けた挑戦は試練の連続でしたので、モナコ初優勝にはライバルたちも素直に称えていましたし、感極まっているオフィシャルもいました。さらには表彰式でロイヤルファミリーも大喜び。大公も一緒にシャンパンを開けてラッパ飲み(現大公は以前にも表彰式でラッパ飲みをしており、なかなか茶目っ気のある方です)している姿が映し出されておりました。モナコに住んでいるF1ドライバーはいても、モナコ生まれとなりますと数えるほどで、そこで優勝ですから大公のみならず多くのファンが喜ぶのも当然でしょう。
 以前もご紹介しましたがモナコGPは戦前から開催されている歴史あるレースで、第一回は1929(昭和4)年に開催されました。F1・世界選手権が始まったのが1950(昭和25)年ですから歴史を感じます。モナコ生まれ・モナコ国籍のドライバーがモナコGPを制したのは1931(昭和6)年にもありました。ルイ・シロンというドライバーが優勝しています。このころはまだドイツ勢が席巻する前夜でしたので、ブガッティやアルファロメオといったあたりが活躍していました。ルイ・シロンは1899年(19世紀ですよ!)生まれで、第一次世界大戦ではフランス軍のフォッシュ元帥(フランス海軍の空母の名前にもなっていましたが)の運転手を務めたこともあります。シロンは第二次大戦を挟んで戦後もレースに出走しています。1950年のF1初年度のモナコでなんと3位に入る活躍を見せます。実に50歳での快挙です。現在活躍中のF1ドライバー、フェルナンド・アロンソはこの記事を書いている時点で42歳ということで、40代の選手が近年では稀ですからいろいろと注目を集める存在ですが、あの時代の50歳というのは、今よりももっと「お年寄り」に感じられるのではと思います。余談ですがちょうどこの時のモナコと同じ昭和25年5月、日本ではプロ野球の阪急で浜崎真二投手が48歳で勝利投手となっていて、こちらも今なら果たしていくつくらいかな、と思います。この年のモナコも今年と同じで1周目に多重事故がありました。
 その後もシロンは1958年までモナコGPにエントリーしており(当時はマシンも含めた「スポット参戦」が自由な時代でした)、1955年には6位に入っています(この時代は5位までが入賞でした)。
 さて、1950年のモナコについては、5位にアジア人初のF1ドライバーだったタイの「B.ビラ」王子も入賞しています。戦前に英国に留学した際にレースと出会い、戦後にかけて活躍したドライバーでした。戦中はタイ王室の一員としてイギリスとの関係を深める役目も担っていたそうですが、エキゾチックな顔立ちのレーサーは西欧でも珍しく、人気だったそうです。
 モナコ人のドライバーというと小さな国ゆえ本当に少なく、90年代にオリビエ・ベレッタという選手がいましたが、1994年に当時決して上位に進むのが容易ではなかったラルースのマシンを駆り、8位に入っています。ラッツェンバーガー、セナの事故死、さらにはヴェンドリンガーの大事故という重い空気の中のモナコでしたが、地の利を生かしての走りでした。
 今回のモナコでもルクレールの優勝、タイ国籍のアルボンが9位ということで、モナコ、タイの国籍のドライバーがモナコで揃って入賞というのが74年ぶりということで、それも珍しい記録かもしれません。また、日本の角田が8位ということで、アジア系が二人入賞というのも、そもそもアジア系は少数勢力なので珍しい記録です。スクーデリア・フェラーリのSNSなどでもこの1-3フィニッシュの週末が様々な形で紹介されました。このところサインツに押され気味だったルクレールの優勝で、ちょっとはずみがついて「レッドブル無双」だったこのところのF1を面白くする存在になったら、と期待しています。
 地元GPに強いドライバーやなかなか勝てないドライバーもいて、そこがレースの難しいところだったり、だいご味だったりするのですが、「モナコ・マイスター」のセナも母国ブラジルではなかなか勝てず、1991年の初優勝もきわどい勝利でした。逆にナイジェル・マンセルのようにイギリスGPを得意としたドライバーもいました。日本GPでもいつの日か日本人が表彰台の頂点に立つ日が来たら・・・と願っています。

(モナコで優勝したルクレール。日本にもファンが多いです。あと10年くらいしたらプロストみたいに渋いドライバーに・・・なんてね)


(右から2人目がタイ国籍のアルボンです)



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