青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

緑のヴェール

2017-08-21 08:16:24 | 日記
ジェフリー・フォード著『緑のヴェール』は、『白い果実』『記憶の書』に続く三部作の完結編。

『記憶の書』に続き、本作も金原瑞人・谷垣暁美の翻訳を貞奴がリライトしている。
翻訳家が日本語に訳したものを作家がリライトするという画期的な試みだっただけに、リライト担当者が途中で変わってしまったのは残念。三部作全体の統一感を欠いてしまった。
『白い果実』でリライトを担当した山尾悠子の硬質な文体がこのシリーズには合っていた。一作目から貞奴が担当していたら別に気にはならなかったかもしれないけれど、山尾悠子からの貞奴だと、どうしてもリライト担当者の技量のせいで物語がやや色褪せてしまった印象がぬぐえないのだ。

『白い果実』『記憶の書』がクレイの視点で綴られていたのに対し、『緑のヴェール』は、〈彼の地〉を目指して旅するクレイの姿を、マスター・ビロウの息子で魔物のミスリックスが〈美薬〉を使って幻視し、手記にしたためたものという体裁をとっている。クレイとお供の黒犬ウッドの苦闘の合間に、かつてビロウが支配していた理想形態都市の廃墟で暮らすミスリックスの孤独な様子が語られる。

『記憶の書』の最後でウィナウを追われたクレイは、自分が傷つけてしまったアーラの赦しを得るために、彼女に託された緑のヴェールを持って、ミスリックスとウッドと共に〈彼の地〉を目指し旅立った。しかし、本書では、既にミスリックスはクレイと別れている。
クレイと別れたミスリックスは、その後のクレイの消息を知りたくて、〈彼の地〉を訪れ、そこにある土、羊歯、水、空気を摂取することにより、〈彼の地〉の記憶に刻まれたクレイの冒険を幻視する。

前二作でのクレイ自身の視点で綴られたクレイの心情と、ミスリックスの視点で描かれるクレイの姿とでは随分と印象が異なる。
『白い果実』では、傲慢で冷酷、そのくせ流されやすい怠惰な性情だったクレイ。『記憶の書』では、傲慢と冷酷はなりを潜めたものの、快楽に流されやすいジャンキー気質は相変わらずで、いろいろ大変な目に遭っている割には一つも同情できなかった。
それが、本作ではミスリックスの視点というフィルターがかかっているためか、佇まいが格調高く芸術的なのだ。一匹の犬を連れて荒れ野を行くクレイの姿は、恬淡で物悲しい。日のあるうちは命がけで魔物と戦い、異形の獣を狩り、夜には焚火の前でウッドに本を読み聞かせる。読んだ本のページを槇代わりに火にくべ、その火で獣の肉を焼き、喰らう。その自立した姿には、かつての自意識過剰で甘ったれた権力の走狗の面影はない。

これは本当にクレイなのだろうか?
このシリーズを最初から読んでいる読者なら〈美薬〉の効能をよく知っているだろう。あれは、見たいものを見せる幻覚剤なのだ。だから、ミスリックスの語るクレイの物語が本当にクレイの身に起きた出来事とは限らない。『記憶の書』の頃からクレイが大好きなミスリックスだから、多分に身贔屓と理想が加味されているのではないだろうか。それくらいなら可愛いものだが、本当のクレイは既に死んでいるではないか、という不安が終始付きまとった。

本書は、ミスリックスの物語でもある。
ミスリックは人間性を獲得するに至ったとは言え、時として魔物の本性を抑えきれなくなることもある。クレイに危害を及ぼしてしまいそうになったことをきっかけに、ミスリックスはクレイと袂を分かち、ビロウが建設した理想形態市の廃墟でひっそりと暮らす人生を選んだ。
意識しないようにしていたが、それでも幾歳月もの孤独な日々の中で、ミスリックスはずっとクレイが戻ってくるのを願っていた。魔物と人間、どちらの集団からもはじき出されたミスリックスの本質を、一つの個性として受け入れてくれてくれた唯一の存在がクレイだったからだ。クレイにとって、ミスリックスは魔物めいた人間でもなかったし、力を失った魔物でもなかった。クレイだけが、ミスリックスをミスリックスとして扱ってくれたのだ。
クレイは、基本的に幼稚なダメ男であるが、幼稚ゆえの素直さも持ち合わせていて、それが思いがけなく他者の心を救うこともあるのだ。
〈美薬〉の齎す幻視によってクレイの冒険を見守る。それだけが、ミスリックスの生甲斐だった。

そんなミスリックスの元に一人の少女が表れる。
彼女の名はエミリア。6年前に河で溺れかかっているところをミスリックスに救われたのだ。彼女の口から、ミスリックスはウィナウの現在を知る。
数年前、ビロウのまき散らした毒ガスによって眠り病に侵されたウィナウは、クレイが特効薬として持ち帰った〈美薬〉によって救われたかに見えた。しかし、〈美薬〉の齎す幻覚に溺れた人々によってウィナウは混乱に陥り、その元凶としてクレイはウィナウを追われたのだった。

その後、教師のフェスキンがクレイの手記を見つけたことで事態が変わる。
手記を読んだフェスキンは、クレイが本当は英雄であること、そして悪の権化のように言われているミスリックスもまた英雄であることを確信し、ウィナウの人々を説得した。次第に村人の中に、クレイにお産を手伝ってもらったり、薬草を調合してもらったりしたことを思い出し、フェスキンの言葉を信じる者たちが出てきた。彼らはお金を出し合ってクレイをウィナウに連れ戻すための捜索隊を結成する。その一方で、ミスリックスと友好的な関係を結ぼうと考えたのだ。彼らによってウィナウに招待されたミスリックスはいたく感激し、お返しに彼らを廃墟に招き、ビロウの遺物を陳列した〈廃墟博物館〉を解説付きで見学させた。

しかし、ミスリックスに対して好意的な人々ばかりではなかった。
〈美薬〉の中毒によって家族や親しい人を失った者の中には、廃墟やビロウに関わる者に殺意を抱いているものも少なくなかったのだ。そういった者の一人であるセムラ・フッドが〈廃墟博物館〉から持ち出したクレイの物だと思われる石のナイフによって、ミスリックスはクレイ殺害の容疑をかけられ、拘束されてしまう。
裁判にかけられたミスリックスに浴びせられる、村人たちからの暴言。次々に提示されるミスリックスの有罪を示す証拠の品。ミスリックスは村人たちへの憎悪と人間らしくありたいとの願いの間で葛藤することになる。そして、裁判の最終日、ミスリックスを救おうとするエミリアが持っていた緑のヴェールが、皮肉にもミスリックスの有罪を決定づけてしまうのだった。

ミスリックスの綴るクレイの冒険譚が本当のことなのか、あるいは〈美薬〉による妄想なのか。ウィナウの人々が糾弾するように、ミスリックスはクレイを殺してしまったのかもしれない。ミスリックスの手記が正しいのか、それともクレイ捜索隊が持ち帰ったクレイの遺体と日記が本物なのか。真相が解明されないまま、ミスリックスは己の人間性を証明するために死刑判決を受け入れた。それは、クレイやエミリアへの友情の証でもあったのだが、ミスリックスが本当にクレイを殺害していたとするのなら、あまりにも残酷な結末だ。
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