まこちゃん日記2

まこちゃんのピンポン日記です。

12月16日 最近、何故が多いのは何故!

2021-12-16 11:14:18 | 日記

 

       「 イシモチが入れ食いの日(茅ヶ崎海岸) 」

         須田 孝雄さん 撮影

この所、何故なのだろうと思うことがやたらに多い様だ。

政府は「何故」あんなにクーポン支給に固執したのか。

ワクチンは新種に効くのか、副作用はどうなのか、「何故」はっきり知らせないのか。

3回目接種を6ヶ月後として調達は間に合うのかどうなのか、「何故」言えないのか。

商店などへの救済金支給が滞っているのは「何故」なのか。

役所へ申請の書類が煩雑で難しいのは「何故」か。この非常事態なのに役所への手続きは

「何故」簡素化出来ないのか。何事によらず役所の書類は「何故」何時も分かり難いのか。

政治家や権力者は「何故」決まって悪いことをするのだろうか。

 

赤木メモの裁判が決着、国は負けを認めて賠償を払うなら、財務省の麻生元大臣、佐川元局長

にお咎め無しとは「何故」を通り越して黒い疑惑である。桜問題も追求無しも然りだ。

それはそうと、余っている安倍のマスクを保管料だけで何十億が掛かるなら、アフリカ諸国に

贈って上げたらどうか。彼等は小顔の人が多いからあの安倍のマスクが似合うと思うが。

その上喜ばれたらこんな良いことはない。ともかく国は「何故」何も手を打たないのか。

 

『人間は何故死ぬのでしょう』という大命題のようで、なかなか難しいことのようだ。

私の性善説も最近では全く陰が薄いし、世の中の多くの事が白黒はっきりせず、まさしく

その中間グレーの事が多すぎる。

そうしたことが、国民の不安を増幅し国民総不安という暗い社会で、ヒステリックな世相に

ならなければ良いのだが…。

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12月15日 師走月の2回目のピンポン。

2021-12-15 15:04:19 | 日記

 

     「 怪しげなあかね空 」 

       河津 米子さん 撮影

 

昨日から本格的な冬になって今朝もかなり寒かった。でも真っ白な富士山が格別に

きれいだった。

今日は9人だった。この人数だとかなり忙しくて大変。2回やっては1回休むという

ペースになって、私にとっては厳しかった。2回も人に替わって貰った。

帰る頃には温度も上がり光線が眩しい位の小春日よりになっていた。

 

さて、今年もあと2週間ばかりとなった。と言うことはこのピンポンも今年は後1回だけ

となったわけだ。日常生活もピンポンもコロナに左右され不便を余儀なくされた1年だった。

オミクロンなんて言うのが出てきて「来年こそは!」なんていう月並みな暮れの言葉も虚しい。

 

その新しい変異型に対する水際作戦や防衛策は大丈夫なのか。やるなら期日を限定でも良いから

徹底しなければ効果がないような気がする。

いつも手を打つのが遅いから今回こそはしっかりして貰いたいものだ。

大臣や高官は「良く見極め適切に対処するよう検討します」と2週間も前からコメントしているが、

具体的なことが分からず、どんな対策でどうするのかが分かり難い。

どんな抽象的な名言でも、言葉ではコロナから国民を守ることは出来ない。

 

万が一、第6波にみまわれ感染者が急増拡大した時の医療、病床の手は打ってあるのか。

もし高熱が出たら必ず診て貰えるのか、入院は出来るのか、前のようなたらい回しは改善

できているのか。

 

そして何より一番我々の年代の人達が不安を覚えるのが、コロナ以外の病での重篤や急患者

は大丈夫かと言うことである。

こうした十分にあり得る先の事態をしっかり想定した準備や具体策を立てておくのが政府の

当然の役割ではなかろうか。明日にも倒れそうな老人達はそれを期待している。

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12月13日 分からぬ事の多い世の中だ!

2021-12-13 09:36:32 | 日記

 

    『 松籟庵(茅ヶ崎)の池の紅葉 』

        lucia 井波さん  撮影

 

オミクロンとやらの正体が今ひとつはっきりせず、3回目のワクチンが効く

とか効かぬとか、副作用の出る確率も2回目より何倍も高いとか。

 

町は、観光地は大混雑、夜の街では大騒ぎ、人々の集まりも始まった。

先日もとあるレストランに行ったら、消毒、アクリル、換気、席は離してと

まずは完璧な対策だった。確かにこれなら皆での会食なども大丈夫かな、

なんて思ってしまう。

 

しかし一方で、学者達は第6波はこのままだと必ず来ると報告している。

その場合の対策は出来ているのかと警告している。これに対して国はどうする

のかが今ひとつはっきり分からず心許ない。分からないことは不安を煽る。

 

年末から来春には一体どうなるだろう。ワクチンは何時回ってくるのか。

効果はあるのか。年寄りでも副作用はどうなのか。コロナ以外の病で倒れても

大丈夫なのだろうか。

 

失業、苦学生、その他の弱者など、中小企業、商店などへの救済は出来ているのか、

これからも出来るのだろうか。

 

不明瞭、不確定、不安要素が沢山あって落ち着かぬ日常である。国民を不安にさせる

のは政治の所為であることが多い。

こうした不安な生活の連続で大分慣れてしまったが(慣れてしまって、国民が声を何も

挙げないのも怖い事で残念だが)これではいけないだろう。

聞く耳を持つ新政府だそうだから、国民は意見や不満を窮状をもっともっと声に出すべきだ。

新政府の英断と即実行を心から期待だ。安倍、菅内閣とは今度こそ違うことを国民に示して

安心させて欲しいものだ。

 

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12月12日 自分だけは大丈夫の心理

2021-12-12 11:27:51 | 日記

 

   「 お花畑で昼寝をするノラちゃん 」

      森川 雅昭さん 撮影

 

本当に世間の人は様々だと思う。

私も学生時代から社会人そしてその後の人生でも、公私にわたって実にいろいろな人に

遭遇してきたものだ。上には上があるとも思ったし、下には下もあるものだとも思った。

 

面白い人、おかしな人、嫌な人、理解できぬ人、好ましい人、尊敬できる人、何とも言えず

可愛いい人、そしてこんな表現では表せないような人にも会ってきた。

なんて言っていると他人から見て私など、どんな表現の範疇には入っていたかはいささか心配だけど…。

 

こうしたいろいろな人間の糸が交錯、絡み合っているのが人間社会だ。だから大変だけども、

面白いとも言えるのだろうか。

我々はこれまでに生存競争から始まって、いろいろな危険に出合ってきた筈だが、その都度自分だけは

大丈夫という本能的な生存心理が働いて、生き延びてきている。

この自分に対する自信は本能的なもので、それがなければ不安や恐怖、ストレスだらけになって、

その生活状況や感情は著しく偏屈で不自由なものになってしまうし、時には生きては行けない事

などがあるのだろう。

 

この自分だけはという持って生まれた本能的な心理が、何かの拍子や心身の病や厳し過ぎる環境とか

不幸の連続などによって希薄になったり、或いは多くの情報を自分で整理できなかったり、人より強い

不安症や心配性や潔癖症の気性が強い人などは日常生活にも支障が出るという。

また最初の情報に拘泥してしまい、次の情報による修正が出来なくなると言う。こうした思い込みが

強いと日常生活もままならなくなってしまうわけだ。

 

こんな例え話がある。

本当かどうか知らないが、あの東日本地震の際、放射能を逃れて福島県から何人もの人が厚木市に

移ってきたそうだ。厚木は茅ヶ崎市の水道の源だそうで、それによって茅ヶ崎の水道が飲めなく

なったという人の話を、聞いたか何かで読んだ記憶がある。これなどは最初の風評被害の情報のままで

修正出来ないでいれば、満更あり得ない事ではないかも知れない。

 

今のようにコロナも終息傾向、しかしまだくすぶり続けて第6波が懸念され、加えて南アの強力な新変種

が発生という情報があり、国内ではアクセルとブレーキを同時に踏むような施策だし、この難しい情況に

対して我々はどう認識しどう判断したらいいのか。

普通の生活を取り戻すために、どう我々は本能を働かせるべきなのだろうか。

 

正しい肝心な情報は少なく、そのくせ様々な情報は雨霰のごとしであっても、それに惑わされたり、

混乱することなく、舞い上がることなどもなく、自分の本能と正しい知識や良識との折り合いを付ける

ようにしよう。

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12月10日 久し振りの東京は寒かった!

2021-12-10 14:35:41 | 日記

 

             「 東京医大ロビーのツリー 」

 

昨日は、今年最後の眼への注射で新宿の医大まで出掛けた。

人出は相変わらずだった。 駅では人の流れに付いていけない。

大崎、渋谷、新宿辺りの変わり様には驚いてしまう。

子供の頃の渋谷も、学生時代の新宿も、駅から見える町の姿は

変わり過ぎて、感慨も何もない。全くの新しい町を見ている感じである。

そこに暖かさも郷愁も感じられないのは、町の変化の所為なのか、私自身

の変り様の所為だろうか。ふと故郷を失ったような寂しさを覚えた。

いつか元気があったら、昔の生まれ育った家(目黒区平町)の辺りへ行って

みたい。あそこなら、あの辺の住宅地では変貌もそれ程でないだろうから、

きっと昔の暖かい思い出に浸れる事だろう。

 

今日も又幼なじみや学生時代の友の欠礼葉書が2通、寂しく郵便受けに

入っていた。年賀状をこれから書くことの出来る自分はそれでも幸せと

思わねばならないのかもしれない。

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