「 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」
ルカ 24章 36節
教会が死んでいるか、生きているかの大きな違いは。ひとり一人が生きたキリストに出会って、
キリストが今生きていると言うことを認め合っている時に、教会のかしらである主イエス・キリストがそこで働かれるのです。
さて、この聖書の箇所は、苦しみを受け、十字架の上で亡くなられ墓に葬られ、三日目によみがえった主イエスが、
でしたの余っている部屋に現れた場面です。( 私たちの主は私たちの失望の真ん中に来られるお方です。)
主イエスの弟子たちは、先生が十字架の上で処刑される段になると、我先に逃げ出してしまいました。
師と仰ぎ、三年もの間寝食を共にして親しく教えを受けたその主イエスを、土壇場で見限ってしまったのです。
「 自分たちも捕縛されるかも 」 「 主イエスのように十字架刑に処されるのでは 」 こうした恐怖感が。
師を裏切ると言う行為に走らせたのでしょう。( でも、この場面を自分にあてはめたとき、
この弟子たちを裏切り弱き者とは片付けられないのではないでしょうか。)
そんな弟子たちの前に、甦られた主イエスは現れました。この弟子たちをなぜ私を見限ったのかと責められることなく、
「 あなた方に平安あれ 」 と親しくあいさつされたのです。弟子たちにはこれ以上に喜ばしい言葉はなかったのです。
今日もこのブログに来られた一人ひとりに主イエス・キリストは、「 あなた方に平安あれ 」 と言われています。
このお方を受け入れ、まことの変わらない平安をいただいていきましょう。
ヨハネ 20:19 ・ 21
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」