人は言う。「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。」
詩編 58篇 12節
私たち人間の心には、無念を晴らしたいという思いがあります。だから、昔であれば水戸黄門、少し古いですが半澤直樹のようなドラマを見て、
心がすっきりするのです。けれども、私たちキリスト者は、神を信じる者たちは、これを神の中で行います。
反対があっても、迫害があっても、神がその反対を速やかに裁いてくださることを信じるのです。
すると、私たちはその人たちが救われることを願うことができます。その人たちが神の裁きを受けなければいけない器であることをを悟り、
その人たちを憐れみ、福音を伝えようという余裕が生まれるのです。
物事を公平に正しく見極める目は必要です。しかし、あの人が悪い、この人が悪いと裁く態度は、
裁く当人にとって精神衛生上非常に悪いばかりか、時々、問題を大きくしたり、物事を混乱させたりします。
イエス・キリストは、有名な山上の説教の中で「裁いてはなりません、裁かれないためです。あなた方が裁く通りに、あなた方も裁かれる」
と言われました。パウロも言います。人間が正しいとされるのは、決してやましいことが一つもないという自分の正しさによるのではない。
人間の正しさなど、横の人との上辺だけの比較の問題にすぎません、
人を正しくするのは神の愛、神の赦し、神の恵みだけです。自分の弱さ、小ささ、醜さをとことん認めて神の愛の中に飛び込むときだけ、
人は「義とされる」のです。裁くのは神だけです。神は必要な時、また最後に、裁き、報いてくださるのです。
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。
「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、
彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ 12:19-21)」