「 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」
ヨハネ 2章 11節
しばしば、「私は奇蹟を見ないかぎり、神は信じない。」と言う人がいます。
けれども、奇蹟を見る、見ないという前に、その心の態度が神との関係を持てなくさせています。
実際、イエス様の奇蹟がユダヤ人の間で大きく広まった時、その事実が否定できなくなった時、
イエス様はメシヤとして受け入れられたのではなく、ねたみを買って殺されたのです。
奇蹟を見たら、人は必ずしも信じるのではなく、殺しさえするのです。だから必要なのは心なのです。
主は、恵みとまことに満ちた方です。この方を知るには、私たちもこの方に心を開く勇気が必要です。
強制的ではなく、自発的な関係が必要なのです。
最初のしるし」ですが、水をぶどう酒に変えるのは、創造の働きがなければいけません。
水をいくらどのように加工しても、ぶどう酒にはなりません。他の元素成分が必要です。
つまり、無から有の創造が必要であり、無から有の創造は神のみにしかできないのです。
聖書において、婚礼の宴は「神の国の到来のしるし」として描かれる。祝宴の酒が無くなるとは、
「喜びの終焉」を意味する。「婚礼の楽しみを中断させることは神の御心ではない」、
だからイエスは水をぶどう酒に変えられ、その結果、喜びは続いた。
イエスは「神の国が来た」として宣教を始められた。それは「喜びと祝福の時が来た、それを受け入れなさい」ということだ。
「ぶどう酒は人の心を喜ばせるもの」(詩篇104:15)、父なる神はその喜びを配慮される方だ、
だからイエスは「水をぶどう酒に変えられた」とヨハネは物語る。
イエスの教えは禁酒禁煙的な禁欲の強制ではなく、解放を告げる良き知らせなのだ。
ゴスペルの歌い手がこう言いました。「神様の愛は、心を開いた人にしか分からない。」
神様は、無理やり、私たちの口をこじ開けるようにしてご自分のことを示そうとは思われません。
弟子たちは、この方はキリストではないかと思って、いっしょにいました。
その求める心、開いた心があったからこそ、主はまず弟子たちにご自分のことを示されたのです。