マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

命に代えられない

2018年11月23日 | キリスト教

そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。

なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

                        ルカ 12章 15節

ここで教えられているのは、富を蓄えこと自体を非難しているのではありません。イエスが諭されたのは財産のたくわえができたから、

もう大丈夫だ。明日からは好きなように損で暮らそうと考えた「愚かさ」にあります。

なぜなら、人の命は財産によって保証されているわけではないからです。

生命というものは、いつでも「いのちの本源」によって生かされているものに他なりません。

貪欲に気をつけよ、と言われています。偽善は、人から歓心を得たいという強い思いですが、

貪欲は、物を得たいという強い思いです。

イエスが話されている「いのち」は、ゾーエ、霊的ないのちのことです。自分はどうして生きているのか、

死んだ後にどうなるのか、そうした生きる意味について人間は考えます。けれども、多くの人は、その空白を物で満たそうとします。

「これさえあれば、私は幸せになれる。生きがいを見出すことができる。」と思います。そして、実際に欲しいものが手に入ると、

「いや、まだもっと何かがあるはずだ。」と思って、さらに多くのものを求めます。けっして満足することがないのです。

 

マタイ 6章 19~21

「 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。

 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」

 

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