『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マタイ 9章 13節
主が来られたのは、病人のためであるということ。それは、罪人を招くためということを喩えるためです。
つまり、全ての人、それぞれが、自分の罪を認識しなければ、イエスがその人に近づいて、触れることはできないということです。
イエスを私たちから追い出す最も効果的な方法は、自分が正しいとすることです。自分を正しくしようとすることです。
これは、イエスの心を大きく大きく損なうことです。なぜなら、ここでイエスがホセアの預言を引用されているように、
神の喜びとしておられるのは、いけにえ以上に真実な愛、あるいは憐れみなのです。
パリサイ派は、自分がどのように行うべきかに注目していたのですが、神は私たちの行ないに関わらず、
ご自分が憐れみを示すことに喜びを覚えておられます。
そして、聖書は神の標準から見て「正しい者はいない。一人もいない。悟るものもなく神を探し求める者もいない。
みな迷い、誰もかれも役に立たないものとなった」と語っています。主イエスの言われている「正しい人」とは、
自分には何の欠点もないと高慢になっている人です。主イエスはこのような正しい人を招くことはしません。
招かれる罪びとがいます。神の目を通して自分を見、自分の真の姿を知っている人です。
自分こそ主イエス・キリストの救いを必要としていることを知っている人です。キリストが自分の身代に神の罰を受けて下さり、
私の罪の一切を背負って死んでくださったことを知っている人です。私との弱さも罪も知り尽くした上、
キリストは招いてくださいました。あなたも招かれている罪びとです。
ホセア 6:6 新改訳2017
「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」
ホセア 6:6 新改訳改訂第3版
「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」
ローマ 1:4
「神の慈愛があなたを悔い改めにみちびく」