マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

永遠の父

2021年07月16日 | キリスト教

「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。

わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

                                   イザヤ 46章 4節

 

日本人の宗教心は、名を知らぬ神への帰依だ。西行法師は伊勢で歌った

「なにごとのおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」。

これはギリシャ人の信仰「知られざる神」に近い(使徒17章)。人間の限界を知り、超越者を求めるが、

その名を知らない。イザヤはそれに対して、「私こそ神」と主は言われたと繰り返す。

 

人間の親は自分の子どもの乳児期、幼児期、少年期、青年期と面倒を見て育ててくれますが、

最後まで面倒を見るということはできません。むしろ反対にいつかは逆転して、

親が子どもに面倒を見てもらわなければならなくなります。

しかし、神はイスラエルの民に対して、「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。

あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。

なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」と約束しています。

 

信仰とは、自分を支えていてくださる神を証しすることです。奉仕は、自分を担っていてくださる方に

感謝をもって応答することです。神のすばらしさを、そのすばらしさの中にいる人々

によって自然と明らかにされているところが、教会なのです。

 

マザー・テレサが次のように語りました。「今日の最大の病気は、ライでもなく結核でもなく、

自分はいてもいなくってもいい、誰もわかってくれない、みんなから見捨てられていると感じることである。

最大の原因は、愛の足りないこと、神からくるような愛の足りないこと……」

昔のコマーシャルで「ビタミン愛」という本を知っています。ビタミンが人間の体に必要であると同様に、

愛も不可欠なものです。ビタミンが欠乏すると、ビタミン欠乏症になります。

同じように、「愛」が欠乏すると「自分はいてもいなくってもいい存在だ」「孤独だ」と

感じるようになります。主イエスは、お年寄りを担い、背負うといわれます。

 

 

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