「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」
イザヤ 46章 4節
日本人の宗教心は、名を知らぬ神への帰依だ。西行法師は伊勢で歌った
「なにごとのおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」。
これはギリシャ人の信仰「知られざる神」に近い(使徒17章)。人間の限界を知り、超越者を求めるが、
その名を知らない。イザヤはそれに対して、「私こそ神」と主は言われたと繰り返す。
人間の親は自分の子どもの乳児期、幼児期、少年期、青年期と面倒を見て育ててくれますが、
最後まで面倒を見るということはできません。むしろ反対にいつかは逆転して、
親が子どもに面倒を見てもらわなければならなくなります。
しかし、神はイスラエルの民に対して、「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」と約束しています。
信仰とは、自分を支えていてくださる神を証しすることです。奉仕は、自分を担っていてくださる方に
感謝をもって応答することです。神のすばらしさを、そのすばらしさの中にいる人々
によって自然と明らかにされているところが、教会なのです。
マザー・テレサが次のように語りました。「今日の最大の病気は、ライでもなく結核でもなく、
自分はいてもいなくってもいい、誰もわかってくれない、みんなから見捨てられていると感じることである。
最大の原因は、愛の足りないこと、神からくるような愛の足りないこと……」
昔のコマーシャルで「ビタミン愛」という本を知っています。ビタミンが人間の体に必要であると同様に、
愛も不可欠なものです。ビタミンが欠乏すると、ビタミン欠乏症になります。
同じように、「愛」が欠乏すると「自分はいてもいなくってもいい存在だ」「孤独だ」と
感じるようになります。主イエスは、お年寄りを担い、背負うといわれます。