「我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。」
詩編 99扁 9節
ここで悲しいことを書きますが、「主が聖」であっても、
私たち人間は「聖なる者」になることはできない。・・・!!
使徒たちさえ民族主義から自由になれず無割礼の異邦人と交わることができなかった現実を
私たちは冷静に見つめる必要があるのではないでしょうか。(ガラテヤ2:11-13見てください)。
この限界を乗り越えるのは、私たちの思いを超えることを為される「聖なる主」への信仰なのです。
神のこの清さは私たちを排除するものではなく、私たちを招くものだというのです。
神はこう言われます「私が聖であるから、あなた方も聖なる者となりなさい。」なぜ清い神は、
「私のように聖なる者となれ」と私たちを召してくださるのでしょう。
それは罪赦されて本当に遜って神に近づい心だけが、神とつながり、神の命、神の祝福に生きられるからです。
そして、清い人生は、神との交わりの道であるばかりではなく、平和で幸福な、人との交わりの唯一の道で道でもあります。
また天国に行くために、私たちは聖なる者、神と共に歩む者とならなければなりません。
罪は私たちを天国から排除します。私たちがイエス・キリストの十字架の血による赦しと清めの中をくぐりぬけて、
キリスト共に歩むところに、清められた生涯があるのです。
レビ記20:26
「あなたたちは私のものとなり、聖なる者となりなさい。主なる私は聖なる者だからである。
私はあなたたちを私のものとするため諸国の民から区別したのである」。