一刀入魂 勇往邁進

2012年4月デビュー
2015年5月初勝利&再起不能
2019年、人生本番開始(笑)

「信じる」ことの意味は

2018-06-23 03:50:06 | 日記
他人を信じられないなどと嘆きながら、都合よく僕にすり寄ってくるヤツがいる。
僕だって彼からすれば「他人」なんだけど、どうも彼はそれに気付かない。
おめでたい奴だとは思わないが、甘ったれた奴だとは思う。

「誰かを信じるのに疲れた、お前と同じだよ」

なんて彼はまるで僕を知っているかの如く言うが、思い違いも甚だしい。

一緒にしてくれるなという気持ちもあるし、同じ人間なんていないだろうとも思うし、
そういう陳腐なセリフを投げつけられると、なんだかひどく冷めた気分になる。

別に僕は孤高の戦士を気取ってるのではないし、気の合う仲間も親友も程よい距離感で傍にいてくれる。

ただ、競技の世界でなぁなぁの慣れ合いを選んでおきながら、ちょっとモメた程度で凹む弱卒には、
孤高を語ってなんか欲しくない。

人が寄り集まれば、必ず大小の諍いは生じる。
それすらも受け流せる度量がないのなら、最初から猿山に飛び込むべきではない。
そんなことは考えれば分かりそうなものだが。

僕は元々育った環境がクソみたいな人間ばかりの掃き溜めだったから、
そもそもの人間に対する期待値が低い。

嘘、欺瞞、裏切り、離間工作、数の暴力。
そんなものは日常だった。

それを公正に評定するべき教師も、大人も、クズばかりの地域で育ったから、
「人間とはそういうものなのだ」と幼心に刻み付けた。

そしてそれは、大人になっていく途上でもまざまざと見せつけられてきた。
「正義」の金看板を掲げる巨大な集団でさえも、同じ構図を見せてくれた。

しかしだからといって、「ああ、人間なんて信じられない」なんて絶望しなかった。

「そんなモンだ」と知っていた幼い頃の自分が、改めて間違いじゃなかったと再認識できたことを喜びさえした。

その上で、自分の中に鉄のルールが出来た。

己が己の意思で誰かを信じて、もしもその人に裏切られたとしたら。

それは己の人を見る目がなかったか、あるいは信じた人間に愛想を尽かされる程に己に非があるのだ、と。

極端ではあるとは思うけど、「覚悟」なんて極端で乱暴なぐらいが丁度いい。

己に課すものなのだから、それでいい。


それ以降の人生で出会ってきた人間に、不覚悟なヤツが多すぎる。

裏切られたと声高に悲鳴を上げ、裏切った人間を糾弾する前に、己の脆弱さを恥じるべきだ。

容易く誰かを信じてしまった己の浅薄さを、とことん恥じるべきだ。


SNSやらなんやらに気を取られ、神経質でデリケートでヒステリックな時代に突入した。

知らなくても良い他者の動向を知れてしまうが故に、薄気味の悪い監視社会めいたものになってしまった。

それもこれも、全ては人間の脆弱性ゆえに。

そして、便利さに感けるあまり思考する事を放棄した、人間の惰弱さゆえに。


他人を信じるな、などとは言わない。

それほど誰も強くない。

だけど

信じるってなんだ? そんなに都合の良いものか?

他人は、投書箱でもなければゴミ箱でもないのだ。

利用と信頼は違う。

依存と信用も違う。


頭のスロットルをしっかり回せ。

スマホばかり眺めてボヤけた脳と目玉を研ぎ澄ませ。

考えて、考えて、悩んで、悩んで

裏切られても悔いなしと覚悟できる人間だけを、どうぞ心行くまで信ずればいい。

そうそういるもんじゃないけれどね。

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