一刀入魂 勇往邁進

2012年4月デビュー
2015年5月初勝利&再起不能
2019年、人生本番開始(笑)

努力の意味

2017-03-27 00:40:23 | 気付き

『努力』

僕が生まれてから、ずっとアチコチで耳にしてきた言葉。
僕が生まれるずっと前から、色んな人に使われ続けてきた言葉。


大人は口々にこう言ってきた。
「努力しなさい」と。

教師は常々言ってきた。
「努力こそが大事なのだ」と。

社会は、組織は、上司は、雇用主は言う。
「努力して成果を挙げなさい」と。

メディアでも
マンガでも
1コしか歳の違わない先輩でさえ
「努力こそが美しい」と言う。

そのステレオタイプにすっかりヤられた僕らは、
いつ頃からか呪文のように口にし始めていた。
「努力しなきゃ」と。


でも
努力ってなんだろう?

皆がみんな、同じエネルギーを同じベクトルで同じだけの回数、
一極に向けて注力する事なんてあり得るのだろうか。

もしあったとして
それは果たして「努力」などと言えるのだろうか。

もしそれを努力と言うのなら
なんてつまらない世界なんだろう。
もしそれを努力と言い切るのなら
人間の持つ時間など、ただの数値を羅列するだけの「作業」に堕ちる。


ドラコンに飛び込んで戦い続けた中で気付いた事がある。

努力とは、他に言い表す事が出来ない、代用の効かない尊い言葉なのだと。

使い古される内にその尊い言葉たちは、本来の意味を貶められ陳腐化している。


何者かに与えられた、
或いは命令されたミッションをただ懸命にこなすのは
それは努力などではない。
ただの作業だ。

その単純作業に依存しながらただ黙々と従事しているだけで
ある者は「自分は努力しているのだ」と胸を張る。

言葉を侮ってはいけない。
努力とは、誰かに強いられるものでも、
与えられるものでも、依存するものでも、言い訳に使うものでもない。


基本やノウハウを習得するのはこれもまた、努力ではない。
当たり前の事なのだ、生きていく手段として。

そこで得たその当たり前の手段を、
自分の命を研ぎ水にして、徹頭徹尾磨き上げる。

その途上で如何なる苦痛を覚えようとも
失敗や挫折を繰り返そうとも
目標とする場所めがけて「魂」を向ける。

それこそが努力なんじゃないのか。


やらされ感満載で何かをやるのは努力ではない。

目標を自らが求め、定め、覚悟を決めて全身で突っ込む。

だからこそ、「今自分は努力をしている」などと感ずるヒマなどない筈だ。

目標に対して今、自分はどのくらいの位置にいるのか。
その距離は、一体どうすれば縮まるのか。

それらに命を燃やしている中で、「自分は努力をしている」などと、
頭を過ったとしても第三者にアピールするヒマも余力もない筈だ。

本当の意味で努力を積み重ねた強者は
目標とする場所に立った時に初めて「努力をしてきたのだ」と感ずるのではないか。

或いは
その目標地点に立った瞬間にもう既に新たな目標が生まれていて、
努力とは、終わりなどが来ない性質を持つものなのだと気付くのではないか。


僕にとってドラコン競技は、本当に様々な事を考えさせてくれた。

それに限らず、一つの目標に邁進している人間の多くは
「努力」というものが、実は結果でも過程でもない、
進行形であり続けるものなのだと気付いているのではなかろうか。


憚りながらも自分も一つの道に命を燃やした故に
それ以前の自分とは全く違う、数え切れない思考の息吹を覚えた。

努力は
誰かに与えられるような甘いものではない

努力という言葉を吐いている時点で
己はまだ道の入り口から一歩も進んでいないと心得るべし。

言い訳や慰め言葉、便利なツールに使って良い言葉など
この世に本来存在しないのだから。













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