何か目に見えないものに縛られて生きてきたのではないか。
それは時に誰かが発した強い声となって、自分を責めもしただろうし
或いは、氷のような冷たさと針のような鋭さを持った視線として突き刺さった。
目に見えないその「何か」を遵守する理由は、ただただ恐怖からくるものでしかなく
しかしながら、では何故「恐れるのか」という理由も然して見つからない。
もしかしたらそれは、幼さ故の承認欲求だったのかも知れない。
思うに人は、それに縛られ過ぎる余り、人生を操縦出来ずに終えてゆく。
承認されたからといって、そこには一切のメリットはない。
次なるハードルが課されるだけで、更にそこで承認されるべく望まぬ苦痛に苛まれるだけ。
その螺旋。
延々と続く、承認とノルマの不毛なる繰り返し、繰り返し…。
それで良いのか?と問う事さえも愚かと断定されてしまうので、
いつしか人はその問いをすら捨てて、不毛の螺旋に自ら飲み込まれる。
これでいいのだ、と。
だってみんなそうやって生きてるんだもの、と。
みんないつか同じように死ぬんだから、と。
人は、その人が望むようにしか生きられない。
皆と同じでありたいと思うなら、そういう生き方をするのだろう。
だけどもし、自分というものがどうにも強くあるのだとしたら。
自分に無理して他人の顔色を窺って生きても、己という強い風には抗えない。
いつか無理をして生きた期間が後悔となって残るだけで、
いつか自分本来の道に自ら立ち戻り、立ち向かう日が来る。
いつだって風に逆らって良い事なんてないのだから。
風は追い風にしてこそ、活きるのだから。