真の願望に気付くこと。
前回の日記にそう記しました。
何か願望をお持ちだとして、それがいつまで経っても叶わないのは、
そういう根本的なところに原因があると、経験則上、僕は考えるからです。
つまりは「その願望ってホンモノ?」って意味です。
なりたい職業を、子供は目をキラキラさせながら語ります。
「サッカー選手」だとか「パイロット」だとか「歌手」とか。
今ではそこに「YouTuber」なんてものもあるんでしょうかね、時代は変わりました(笑)
しかしいつしか大人になった時、彼らの内どれだけの割合の人間が
子供の頃と変わらぬ夢や目標とする職業を語れるでしょうか?
現実を知り、第三者の意見を知り、それは多くの場合変容します。
「夢では食っていけない」と、ありきたりな、
誰かから吹き込まれたテンプレートを口走ったりしてね。
しかし、それで良いのでしょうか?
勿論、子供の頃は情報も判断力も経験も知識も、何もかもが不足していますから
年々目標が変わっていくのは自然のことでしょう。
でももし、親からの期待や重圧、世間体やコンプレックスや承認欲求といった、
本来の「願望」とは異質のものがそうさせているのであれば、それは不幸です。
その願望モドキを成就させたところで、きっと当人は満足するどころか
疑問ばかりが心を満たした人生を生きる事になるでしょう。
事実、そういう悲しい人をたくさん見てきました。
そして僕も、そういう幻を真実と思い込み、長く生きてしまっていました。
だけど、「幸いにして」僕は崖っぷちから突き落とされ、極限の状態に陥りました。
しかし、冷たく枯渇した奈落の底でうずくまりながらも僕は、確かに己の声を聞きました。
「俺は、俺の人生を生きたい」と。
今にして思えば、ゾッとします。
あの人生最悪の出来事を経なければ、僕は今も狭小な世界で、
ハリボテの目標と、陳腐な社会が一朝一夕で作り上げた安い価値観に塗れ、
虚像を追いかけて安っぽいステータスを慰めにしながら生きていたでしょう。
計らずも、自身の覚醒には不可欠なイベントだったと言えます。
もちろん、とんでもなく痛かったですけどね、当時は。
ドラコンの世界に飛び込んだのは、正解でした。
あの頃は「乾坤一擲!」とガムシャラでしたが、今だからこそ分かる事があります。
「思い切りやれば、きっと成し遂げられる」
きっと僕は、それを何かで立証したかったんでしょう。
自分なら必ず出来るという事を証明したかったんでしょう。
手段は何でもよかったのかも知れない。
その世界で登った先で見た景色は、今までの人生では決して見た事のない景色だった。
またそれは、次の目標や願望、可能性をハッキリと示してくれるものでさえあった。
手に取れるほどシッカリとした、絵に描けるほどに明確な、それはまさに「確信」と呼べるものだった。
それを目にした時、身体の芯からブルブルと震えました。
だから、僕は胸を張って言えるんです。
あの行動は、大正解だったと。
そこで知った、自分と言う本来の人間の姿。本来の願望。
それは誰かに、何を言われ何をされたとしても、天地がひっくり返ったとしても、
絶対に揺るぎないものだと言い切れます。
それだけ、自分自身が導き出す答えというものは
とてつもなく強いのだ、という事を知りました。
同時にそれ以外の、他者から与えられ、押し付けられたものが
どれほど脆弱で不自由なものなのか、という事も知りました。
願望とは、そういう性質を持つのだと知りました。
人それぞれ、求めるものは違っています。
付き合い方も、モノの使い方も、お金の使用目的も千差万別です。
にも関わらず、通り一辺倒なものの見方をして他人と自分を比べたり、
誰かを否定ばかりしたり嫉妬したりするのは、自分の「願望」を知らないから。
自分の「願望」があまりにも薄弱だからです。
貴方の願望は貴方の中にしかありません。
自分は他者の為に生きているんだ、と言えば美しく聞こえるかも知れませんが、
それは同時に、他者の価値観に責任を転嫁しているとも言えるのです。
自分の願望は、自分が責任を負うからこそ強さをまといます。
何者とも比べ得ることがない故に、盤石なのです。
その逆もまた然り。
まずは、真の願望を見つけ出してみて下さい。
引き寄せは、それさえ出来ればもう8割達成したようなものなのですから。
前回の日記にそう記しました。
何か願望をお持ちだとして、それがいつまで経っても叶わないのは、
そういう根本的なところに原因があると、経験則上、僕は考えるからです。
つまりは「その願望ってホンモノ?」って意味です。
なりたい職業を、子供は目をキラキラさせながら語ります。
「サッカー選手」だとか「パイロット」だとか「歌手」とか。
今ではそこに「YouTuber」なんてものもあるんでしょうかね、時代は変わりました(笑)
しかしいつしか大人になった時、彼らの内どれだけの割合の人間が
子供の頃と変わらぬ夢や目標とする職業を語れるでしょうか?
現実を知り、第三者の意見を知り、それは多くの場合変容します。
「夢では食っていけない」と、ありきたりな、
誰かから吹き込まれたテンプレートを口走ったりしてね。
しかし、それで良いのでしょうか?
勿論、子供の頃は情報も判断力も経験も知識も、何もかもが不足していますから
年々目標が変わっていくのは自然のことでしょう。
でももし、親からの期待や重圧、世間体やコンプレックスや承認欲求といった、
本来の「願望」とは異質のものがそうさせているのであれば、それは不幸です。
その願望モドキを成就させたところで、きっと当人は満足するどころか
疑問ばかりが心を満たした人生を生きる事になるでしょう。
事実、そういう悲しい人をたくさん見てきました。
そして僕も、そういう幻を真実と思い込み、長く生きてしまっていました。
だけど、「幸いにして」僕は崖っぷちから突き落とされ、極限の状態に陥りました。
しかし、冷たく枯渇した奈落の底でうずくまりながらも僕は、確かに己の声を聞きました。
「俺は、俺の人生を生きたい」と。
今にして思えば、ゾッとします。
あの人生最悪の出来事を経なければ、僕は今も狭小な世界で、
ハリボテの目標と、陳腐な社会が一朝一夕で作り上げた安い価値観に塗れ、
虚像を追いかけて安っぽいステータスを慰めにしながら生きていたでしょう。
計らずも、自身の覚醒には不可欠なイベントだったと言えます。
もちろん、とんでもなく痛かったですけどね、当時は。
ドラコンの世界に飛び込んだのは、正解でした。
あの頃は「乾坤一擲!」とガムシャラでしたが、今だからこそ分かる事があります。
「思い切りやれば、きっと成し遂げられる」
きっと僕は、それを何かで立証したかったんでしょう。
自分なら必ず出来るという事を証明したかったんでしょう。
手段は何でもよかったのかも知れない。
その世界で登った先で見た景色は、今までの人生では決して見た事のない景色だった。
またそれは、次の目標や願望、可能性をハッキリと示してくれるものでさえあった。
手に取れるほどシッカリとした、絵に描けるほどに明確な、それはまさに「確信」と呼べるものだった。
それを目にした時、身体の芯からブルブルと震えました。
だから、僕は胸を張って言えるんです。
あの行動は、大正解だったと。
そこで知った、自分と言う本来の人間の姿。本来の願望。
それは誰かに、何を言われ何をされたとしても、天地がひっくり返ったとしても、
絶対に揺るぎないものだと言い切れます。
それだけ、自分自身が導き出す答えというものは
とてつもなく強いのだ、という事を知りました。
同時にそれ以外の、他者から与えられ、押し付けられたものが
どれほど脆弱で不自由なものなのか、という事も知りました。
願望とは、そういう性質を持つのだと知りました。
人それぞれ、求めるものは違っています。
付き合い方も、モノの使い方も、お金の使用目的も千差万別です。
にも関わらず、通り一辺倒なものの見方をして他人と自分を比べたり、
誰かを否定ばかりしたり嫉妬したりするのは、自分の「願望」を知らないから。
自分の「願望」があまりにも薄弱だからです。
貴方の願望は貴方の中にしかありません。
自分は他者の為に生きているんだ、と言えば美しく聞こえるかも知れませんが、
それは同時に、他者の価値観に責任を転嫁しているとも言えるのです。
自分の願望は、自分が責任を負うからこそ強さをまといます。
何者とも比べ得ることがない故に、盤石なのです。
その逆もまた然り。
まずは、真の願望を見つけ出してみて下さい。
引き寄せは、それさえ出来ればもう8割達成したようなものなのですから。