マリアヨハンナさんのブログ

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Assumpta est Maria(Marcello)

2011年08月15日 | インポート

「assumpta_est_maria.WMA」をダウンロード

「Assumpta est Maria in coelum: Angeli gaudent, benedicunt te Dominum.」

マリアは天に昇られた。天使たちは喜び、主はあなたを称え祝福する。

本日は、8月15日の≪聖母の被昇天≫の祝日です。関町教会聖歌隊では、この祝日ミサに備えて数か月に亘って練習をしました。マリア様への祝福を表すこの歌を心をこめて奉仕出来ました。ミサの中では、終戦記念にあたり戦没者を思い祈り、さらに、主任司祭と所属信徒の洗礼名の聖人のために祈願をしました。少し時間がかかりますが、ひとりひとりの名前を聞きながら、それぞれの顔を想い浮かべつつ、お互いのために祈り合いました。とても静かな時間の流れも深い祈りの助けになりました。

この日は、日本の宣教の保護者≪聖フランシスコ・ザビエル≫が、種子島に漂着した記念の日でもあります。聖遺骨を保管する関町教会では、ミサ後、主任司祭がミニ講演会『聖フランシスコ・ザビエル』についてお話をされました。講演会の後、ザビエルが、日本に漂着してから、宣教には多くの音楽<ムジカ(無鹿と当て字に・・・)>を用いたこと、聖母被昇天の日であったことから、同時代の作曲家ジョスカン・デ・プレの聖母を称える歌を演奏したらしいと、そっと教えてくださいました。(追記:8月20日)

【聖母の被昇天】とは・・・

マリアが霊魂も肉体もともに天に上げられたという教義で、1950年11月1日に、教皇ピオ十二世(在位1939~1958)が全世界に向かって、処女聖マリアの被昇天の教義を荘厳に公布しました。・・・・中略・・・ピオ十二世は次のように宣言します、「われわれの主イエズス・キリストの権威と、使徒聖ペトロと聖パウロの権威、および私の権威により、無原罪の神の母、終生処女であるマリアがその地上の生活を終わった後、肉身と霊魂とともに天の栄光にあげられたことは、神によって啓示された真理であると宣言し、布告し、定義する」(『カトリック教会文書資料集』3903)。これは「おめでとう、恵まれたかた」(ルカ1・28)と神の使いからのあいさつを受け、神がともにおられるという恵みに満ちたものであるが故に、その生涯においてキリストと最も深く結ばれ、死後においてもキリストの復活と栄光にあずかっていることを意味します。つまりマリアは復活の恵みを受け、キリストを通しての神における人間の完成に到達したことを確信をもって宣言しているのです。・・・

 聖母の被昇天への信仰は、マリアだけが特別な存在だと言い表すのではありません。キリストによる救いにあずかる人たちの象徴として、信じるすべての人たちの救いへの希望を表現するものです。ミサの集会祈願はこのことを教えます、「全能永遠の神よ、あなたは、御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、からだも魂も、ともに天の栄光に上げられました。信じる民がいつも天の国を求め、聖母とともに永遠の喜びに入ることができますように」。・・・(カトリック中央協議会・広報より)


Pie Jesu(G.フォーレ)

2011年08月12日 | 信仰と祈り

Pie Jesu Domine, Dona eis Requiem、senpiternam requiem.

あわれみ深い、主イエスよ、彼らに安息を与えてください。永遠の安息

全ての戦没者の御魂のために祈ります。

広島・長崎で被爆された方々のために祈ります。そして、今年の東日本大震災で亡くなられた皆さんとご家族のために祈ります。大好きなフォーレのレクイエムのなかの1曲をささげます。オルガン用にアレンジしました。

日本のカトリック教会では、8月6日から15日までを平和旬間として定め、皆で祈りをささげ、戦争と平和について学び、祈り、行動するように呼びかけて、その思いを新たにしています。8月13日~15日は、仏教的には旧暦のお盆(亡くなった方の霊が家族の元に戻ってくるとして、お墓参りなどをしています)です。

私も、実家のお墓参りに明日から行きます。


暑中お見舞い申し上げます

2011年08月04日 | 音楽
暑中お見舞い申し上げます
やっと蝉の声か聞こえるようになりましたね。
超巨大台風がやって来て、同時にちょっと体調くずしました。
≪メサイア≫合唱団鯨のコンサートは、成功裡に終わりましたが、今回、音楽について新たな気付きがありました。
同じメサイアの演奏が、黒岩英臣先生の指揮ですと、とっても現代的でありながら、素朴な喜びと感謝にあふれて生き生きして若々しかったんです。とってつけたような重々しさがなくって・・・。
演奏会の準備にあたって、何枚かのCDと聞き比べ、自分なりに研究して臨みました。どこが違うのかと考えながら・・・
テンポ感があって、それでいながらこの上なく細かい音楽的な表現があって・・・。アマチュア合唱団が付いて行くのは大変でした。ある意味、オーケストラとソリスト(特にソプラノ)の表現に支えられていた感じでした。
他の指揮者にはない、”生きた現代の宗教曲”を演奏したと思いました。キリスト教を過去の既成宗教ととらえて、形式にこだわった演奏をしているのに対して、今、変ろうと努力して(もがいて)いるカトリック教会の理想的な信仰の在り方を表現しているように思いました。それに、少しでも関わることが出来てうれしく感じました。合唱団としては、まだまだ、研究や練習が足りないと感じましたけれども・・・。
ところで、ソプラノのソロを聴いていて、初めて気づいたことがあります。クラッシック音楽でもラフマニノフなどのピアノ曲には、アドリブ部分がありますが、声楽でもあるんだと認識しました。昔、ちょっとだけならったジャズヴォーカルやゴスペルでは、あたりまえなんだけれども、作曲者の指示した音符以外をこんなに自由に歌う部分があるんだなと、ちょっとびっくりしました。ソロがとっても潤った感じで、甘美に聴こえました。アップテンポなコーラス部分との対比からいうと、効果的なように思いました。