マリアヨハンナさんのブログ

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主のご降誕おめでとうございます

2011年12月26日 | 信仰と祈り

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主のご降誕おめでとうございます

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今年の関町教会のクリスマス(25日日中ミサ)「子どもとともに捧げるミサ」のあとにサプライズがありました。

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ミサ後の青年達グループ「愛伝説」、中高生「テイセイジダイ」?の初のバンドのライブコンサート。今後の成長が楽しみです。

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最後の「まるまる・もりもり」の歌とダンスに子どもも大人も大いに盛り上がりました。

                 


OUT OF GRACE と IN GRACE

2011年12月21日 | 人生
 
 
なんだかここ一カ月は、OUT OF GRACE(恩寵の外)にいたような気がしていた。
 ”OUT OF GRACE”っていうのは、何をやってもすべて裏目に出て、空回りしているような状態・・・らしい。
 
学生時代に、英文購読の教材に、「翼よあれがパリの灯だ」で有名は、大西洋横断単独飛行をした、リチャード・リンドバーグの夫人のアン・モロウ・リンドバーグの著書『海からの贈り物』というのをじっくりと読んだ。読まされたといったほうがいいかな(・・?
 その本の中に出てきた言葉で、OUT OF GRACEに対してIN GRACE(恩寵の中)と言っている。全てがうまく運んで、豊かな気持ちになれること・・・。
 子育ても終わった中年の女性が、日常から離れて、ひとりで小島で過ごし、貝殻に自分の在り方をたとえて、あれこれと追想していく話。10代の女子学生が読むにはやや実感の湧かない内容だったが、私の中に残ったのは、「人は海(世界・社会)から多くの贈り物をもらって生き・生かされている。それは、得難い大きなものであり、いまではそれにたいして感謝であふれている・・・・・今度は、その海に向かって、その感謝の気持ちを持って、少しずつ返して行こう・・・・。」という部分。 どういうわけかこの本のことが気になって、卒業後も和訳本を探して読み返し、今の自分はOUT OF GRACEだなぁ~とか、今日はIN GRACEだなと思いながら生きてきた。社会は結構荒波があって、精神的にも落ち込んだり、立ち直ったりを繰り返して、だんだんと波もあまり荒いと感じなくなるくらいに慣れてきた。
 荒海から頂いた《贈り物》もたくさんあって、おかげでなんとか多くの方に助けてもらいながらここまで生きてこれたことは、感謝でいっぱい。 そのお返しということで、私なりに出来るボランティア~といえるかどうかわからないけれど~、地域の活動にも積極的に参加して、助けあっている。いまだに海から受け取りながら、やっぱりお返しもして・・・と延々と続いている。
 リンドバーグ夫人は、女性飛行士でもあったらしい。
 3月11日の津波でご主人を亡くした友人は、今、ご主人の会社(航空機コーディネート)を継ぐべく、シアトルで飛行機操縦資格の勉強に励んでいる。もう半世紀以上生きてきたのに、さらに、波に向かっていく彼女に感心するとともに敬服する。なんとなく、リンドバーグ夫人のことを思い出し、この本を思い出しながら、友人が目的に向かって、ただひたすら走り、生きていることが楽しみであるとともに羨ましい。
 最近は、多少のことではめげないようになっていた。自分に忠実に、利益は全く求めず、ただひたすら”仕えること”・・・「こんなことをしたら皆が助かるだろうなぁ」「あんなことをしてもらえたら嬉しいなぁ。じゃ、私がしてあげよう」って、何時もあれこれと考えては、時間も顧みずに役に立ちそうなことをしていたはずだった。・・・で、いままでとっても上手くいっていた。いや、今でもほとんどうまくいっているし、周りととても溶け込めている。と思っていたのだが・・・・・・。意外な(尊敬していた)人から言われた言葉の中に棘を見つけて、とっても落ち込んでしまった。体調も良くないので、なおさらきつかった。大方の方は、気にしない方がいいとか、みんなはそう思ってないわよと慰めてくれたのだが・・・。子どもの頃の本当に純粋な気持ちに戻った感じで、「ああ、私にもまだこんなことで傷つく部分が残っていたのか(T_T)」と我ながら驚いてしまった。友人とは本当に対照的で呆れてしまっている。
 まあ、上手くしたもので、いつの間にかIN GRACEの中に入っていきつつある。取り敢えず、自分の利を求めずで、ひたすら、より良い目的のために祈って進んでいくしかない。誰も傷つけていないし、困った人もいない。だったら悩むことはなかったかな(^_^;) 

 というわけで・・・《待降節》も終わり、回心(心をあれこれまわし)が出来たところで、いよいよ待ちに待ったクリスマスがやってくる。
カトリック関町教会のクリスマスは、11月24日(土)1.午後7時~と2.午後9時半~です。 

≪待降節≫

2011年12月03日 | 信仰と祈り

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11月27日(日)から待降節に入りました。キリスト教会では、新しい年の始まりです。

待降節とは、

「二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第1の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、週末におけるキリストの第2の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この2つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる」(典礼暦年と典礼歴に関する一般原則 39)。

「待降節は、11月30日、もしくは、それに近い主日の「前晩の祈り」に始まり、主の降誕の「前晩の祈り」の前に終了する。」(同40)。

「待降節の主日は、待降節第1、第2、第3、第4主日と呼ぶ」(同11)。

「12月17日から2日にに至る週日は、一層直接に主の降誕の準備に向けられている」(同42)。

 世間では、11月半ばくらいから、クリスマス飾りがちらほら見える。11月下旬になると、駅前やら、商店の店先には、それは丹念に飾り付けが行われている。キリスト教徒でもないのにすごいな~と思う。 商業主義のなせる業か・・・

 ところで、クリスマスがいつかはみんな知っている。でも、いつまでなのかは知らなかったりする。かくいう私も、典礼の奉仕をするまで詳しく理解してはいなかった。幼児のころから教会に通っていたのにもかかわらず・・・。多分、話は聞いていたのだけれども、言葉が難しすぎたのか、それほど重要なこととも思っていなかった。ただただ、クリスマスの行事が待ち遠しかった。 カトリックの学校では、「クリスマス・キャロル(歌)の練習」、「クリスマス・ウィッシング」の準備と練習、「クリスマス・セール」の準備、etc.

 中学生以上になると、クリスマス前に「黙想会」があって、どこぞの神父さまがやって来て、聖書やキリストのこと、聖人や聖家族、各自の生活の在り方などについてのお話しがあって、そのあと、互いに言葉を交わさずに、各自で聖書を読んだり、学校の敷地内を物思いにふけりながら散策【黙想】したり・・・。 高校生になると、希望者がクリスマスの前日に黙想会に参加して、一晩「寄宿舎」にお泊まりして(通学生の私にはとっても魅力的な経験)、静かなお聖堂で本当の「クリスマス=キリストのミサ」に与った。 どういうわけか、私はこの静かなクリスマスがとっても好きで、卒業後に入った修道女会の学生寮でも毎年行われた黙想会とクリスマスに参加した。 社会人になっても、同じ職場の同期入社の友人や後輩も誘って”真夜中のミサ”に与った。 何もはっきりと理由があったわけでなく、なんとなく行かないといけないような気がしていた。 静かな時間を過ごす(祈る)ことがとても心地よかった。

 この間、クラシック・ギターの先生から、スペインにいた時にクリスマスの頃に居たけれど、日本と違ってとっても静かだったと話していた。 キリスト教や教会についての知識がなかったので、何が何だか分からなかったので、とってももったいないことをしたとも・・・。

 キリストがこの世につかわされたのは、私たちの≪罪≫を代わりに負って、「救い」へと導くためであること。旧約時代に、神がアブラハムと約束されたように・・・。決して、華々しくお祝いをするのではなく、ただ、それを神に感謝して祈り、自ら人間としての罪を思い廻らし、清い心に戻ってクリスマスを迎えたい・・・

 そうそう、子どものころからプレゼント好きだった私は、みんなに喜んでもらえることを思いながら、今年はこんなクリスマスの準備の飾りをしました。 今も、お世話になった皆様に、プレゼントを何にしようかとあれこれ考え中★★★

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バラの花の模様がいっぱいの大きなロウソクなんです。クリスマスに火を燈そうと話しています。どんな感じになるのか楽しみ