マリアヨハンナさんのブログ

♪昨日は 今日のために・・・今日は 明日のために・・・♪
♪人々の愛、出逢い、支え合い、未来の平和と幸福を願って♪

ギターとピアノ デュオコンサート 7月7日(土)

2018年05月30日 | 同窓会・地域情報

クラッシックギターとピアノの演奏会お知らせ

スペインセビリアの音楽院の先生とのこと。

今、私が教えていただいている先生が在学当時にお世話になった師で、演奏はとても素晴らしいので是非聞きに来てくださいとチラシを頂きました。


「クエンカ兄弟コンサート 町田公演」

 

2018年7月7日(土)
会場:アートスペース・オー 
15時00分開演(14時30分開場)
入場:3,500円(全席自由)
会場のホームページ:http://www.artspace-oh.com/index.html

■フランシスコ・クエンカ(ギター)
Francisco Cuenca
1964年6月21日コルドバ生まれ。3歳よりギターをギタリストの父に学び、8歳でコルドバ音楽院に入学。同院を首席で卒業後、スペイン、イギリス、ロシアの著名オーケストラとアランフエス協奏曲を共演。アルムニェカルの『A.セゴビア国際ギターコンクール』第2位、マドリッドの『A.セゴビア国際ギターコンクール』3位およびスペイン音楽最優秀演奏賞を受賞。現在、リナーレス音楽院院長を務めるかたわら、ヨーロッパ、アメリカなどで活発な演奏活動を行なっている。
■ホセ・マヌエル・クエンカ(ピアノ)
Jose Manuel Cuenca
1961年3月19日コルドバ生まれ。幼少より音楽を学び、8歳でコルドバ音楽院に入学。同院を首席で卒業後、ヨーロッパ各地でリサイタルを行なう。現在ウベダ音楽院院長、後進の指導とともにヨーロッパ、アメリカなどで幅広い演奏活動を行ない、弟フランシスコとのデュオでの来日は今回が4度目。

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何故ギター?

 以前に見守りをさせて頂いていた故牛山光子さんから譲り受けたクラシックギター。「もう体が動かないから弾けないので、あなたにあげるわね」と。 私はギターを弾けないからとお断りしたのですけれど。教会学校で(伴奏を弾くときにでも)使ってと言われ、2~3年押し入れの中に放っておいたのです。 ご葬儀の際にご家族の代わりに祭壇に置かせていただいても良いかどうかを、いつも素敵なギターを弾かれる稲川保明神父様にお尋ねしたら快諾。

 神父様がギターを眺めたら、「これは珍しいギターですからどなたにも上げないで持っていた方がいいですよ」・・・と。 このブログにも何年か前にオーバーホールした時の写真と一緒にアップしました。 ボディーの中にラベルが貼ってあって、「カラーチェ工房 ナポリ 1931年制作」、カラーチェの写真と印(蝋)とサインもありました。 かなりヒビやはがれがあるので、修理が必要だなと考え、国内のカラーチェ取り扱い楽器店を探しました。 幸い渋谷に見つけて持って行き、簡単でいいからと目立つところだけ修理。金額も2万円ほどでしたので喜んで持って帰ってきたら、道中で積んでいた自転車のカゴから落としてしまい、衝撃で中の支えが外れてしまったのです。

 それでも、翌年の3月に折角のギターを置いてあるだけではもったいないから習いに行こうと思い立ち、ヤマハ(銀座)の無料体験レッスンに当時大学生の息子を引き連れて行きました。 ところが、数日後に「東日本大震災」があり、怖さでいっぱいで銀座までは行くどころか外出する勇気が無くなって、家にこもっていました。

 再チャレンジと今度は歩いても帰れる場所ならと近所をネットで探し、今の、宮地楽器(吉祥寺)を探しました。 とても若い先生ですが、セビリアの音楽院で修行してきたそうで、懇切丁寧に教えていただくことに。 先生にギターを見せたら、相当傷んでいるのでオーバーホールが必要だと思うと言われ、再度、楽器店に持って行ってオーバーホール。 結局10万円かかってしまい、ただで頂いたのだけど合計12万円の出費でへこんでしまいました。 もっとも、新品はこのサイズのは特注するしかなくて、中古を買っても40万円だと言われてしまいました。

 さらに、その楽器店社長さんがテレビの「お宝鑑定団」に出ている方で、よく見ていただいたところ、「銘品というわけではないが、このタイプのギターはもう制作されていないもの。家に骨とう品として飾っておいて、たまに出して弾くくらいにした方がいいですね。」と言われてしまいました。 新しいのを買った方が良いとも言われ色々なギターを見ましたが、現状で演奏がそれほど上手いわけでもないので、お金を掛ける気もなく今まできました。 いつまで続くことやらわかりませんが、取り敢えずはボケ防止になっているのでしばらく続けようと思います。


人と支え合っていくこと

2018年05月17日 | 信仰と祈り

大好きな聖歌のひとつに《愛の賛歌》があります。

コリントへの第1の手紙13章の1節からの歌です。

♪ たとえ 私が 人間と天使のことばを話しても、 愛がなければ鳴る青銅と響き渡る銅鑼(どら)に等しい。

  たとえ 私が 預言の賜物を持ち、全奥儀と全知識に通じ、山を動かすほどの満ちた信仰を持っていても、 愛がなければ無に等しい。

  たとえ 私が 全ての財を施し、この体を焼かれるために与えても、 愛がなければ益することが無い。

 愛は寛容で 愛は慈悲に富む。 愛は妬(ねた)まず、誇らず、高ぶらない。

 非礼をせず、自分の利を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず。

 真理を喜び、全てを許し、全てを信じ、全てを希望し、全てを耐え忍ぶ。 愛はいつまでも 絶えることがない♪  (楽譜下記参照)

 誇れるような知識や話す技術もない私には、何より有難い”聖なる言葉”です。

 ところで、知識や技術を余すところなく他の方のために使って決っして誇らない、素晴らしい先輩信徒の下田氏がいらっしゃいます。 身近な信徒仲間を助け、教会のお知らせや広報資料を、高齢や病気の為にミサに与れない方のためにお届けしていました。

 彼は、あるご夫婦の奥様が大病で入院され、ご主人様も重大な病気を自覚なさっていなかったので、病院に連れて行き、検査を受けさせて介助されていました。 介護認定を取る手続きをし、高齢者施設を探して契約の補助をし、さらに、大病の為自力で判断がおぼつかなくなった奥様の為に、病弱なご主人の負担軽減を考えて、司法書士を探して「成年後見人」として紹介。 その後1か月でご主人は帰天。 お子様がいらっしゃらなかったのでご葬儀もなさいました。 彼の機転と早い決断と活動がなかったら、奥様はその後どうなさっていたか…。 奥様は13年後に帰天。 その途中で私が見守りを交代しました。 その後に、彼に頼まれて神父様のところに亡くなられる前にご主人から、今後の事を頼むということでお預かりした50万円を教会の建設募金に預けたいから同席して欲しいと言われて神父様のところに伺いました。 見守りの間には、かなりの金銭的な負担もあったことは伺えます。高齢者施設へ訪問する度にお土産を届け、施設へも慰労の品を届け。けれども、彼はそれを一銭もとらずに教会に…。

 また、私も少しだけ補助をしていた牛山光子さんの病気が通常でないことをいち早く見つけ、専門医に連れて行きました。案の定、難病でした。その後に介護保険の取得~諸々の手続きの補助。介護支援センター他との仲介と補助。 5階の住居を1階に引っ越しする手続きと補助。ご親族との連絡等々。 本当に頭が下がります。 最後は葬儀までご一緒にお手伝いしました。

 彼からは、他に数名の方々の見守りを受け継ぎました。 とても、下田さんのようには出来ないなとつくづく思います。 私にも高齢の母、義母がいますので、時間的にも余裕があるわけではないので…。 働いてもいませんから大した収入もありません。 でも、生活に支障のない範囲で出来る限りと思って見守りをさせて頂いています。 高齢になると年を追うにつれて以前には思わなかったことが起こります。 彼自身、今、病気を抱えながら、やはり病気の奥様を見ています。 先の帰天されたご夫妻の見守りで強く感じるところがあって、早めに自宅を処分して高齢者施設に入りました。

 私に出来ることは、本当に誠心誠意でお顔を見に伺って、お話を出来るだけ聞き、何か足りないと思えることを感じたら、出来る範囲で調達し、届けること。 病院などの送迎などを負担と感じるようなことのない範囲で… でも、以前に同じような経験をされている下田氏は本当に喜ぶと同時に恐縮されて…。 差し出がましいとは思いつつ私の判断で必要と思われた物を購入した分に諸々送迎のガソリン代とかプラスアルファの金額を渡されて困惑しています。 最初から、お金は一切受け取りませんとお伝えしているからです。 自分が勝手に購入したものはとても喜んでいただけたのですが、あくまでもこれは私の思い。 お金を頂くことを最初から考えていないものです。 是非にと乞われて受け取って、「これはどこかの募金(献金)にしますね」とお伝えしました。

 ふと頭をよぎりました。 教会の建設臨時献金というのは、ただ、持っているお金を預かっただけになるだけ。 その間の大きな思いや行い{愛}は伝えられないのです。 それぞれの思いで食べ物や手芸品を売ってその売上金を「建設会計への献金」として、教会広報にそのグループの名前が列挙されています。 勿論、その作業と献金されたことは尊いことだと思います。 ただ当事者の方から、「私たちは作って献金しているからね~」と言われてちょっとガッカリ。 それほどない中から、心を思いを祈りを込めてされた献金額は4半期のまとめの細かい数字の中に入っているだけなので、食べ物や手芸品の作成と販売利益のように意識されて気付くことはありません。 心込めて時間と労力を使ったことに対する感謝としてお預かりした大切なお金は教会以外にしようかしら・・・いろいろと悩みます。 今まで何回か皆様からの御心(ミサへの送迎他に対する)をお預かりして献金していたのですけれど…。 別に名前を入れる必要はないのです。 お菓子などと同じく建設会計に…集計金額を日々の広報に掲載しても良いのではないのかしらなんて思います。 また、折角、いらした他教会の方まで献金をと入れて下さっているのですから…。 あくまでも臨時の献金なのでいつも入れてもらえるわけではないのですから…。食べ物などを作って得た献金と同じ心、同じ思いではないのかしら?

 ところで、教会での支援にどうして、信徒同士の声掛けや支え合いがないのでしょう? 教会に来ている方と積極的に教会にアプローチしてくる方やその家族だけが支援(祈る)すべき人々なのでしょうか? 教会に来ない人はその人のせいだけなのでしょうか? 日頃から、近くに住んでいる信徒同士がもっと身近に声かけあって、いざという時には、本人からの声だけでなく、地域の信徒からのアプローチがあってもいいのではないでしょうか? 一方的なお知らせとして、降誕節、四旬節、慶老会のお知らせだけではなく。 ご案内だけでは「愛」の証ではないように思えます。 信徒同士が本当に愛し合っているっていう状況をもっと考えたいと思います。

 ひとりひとりが大切なキリストの兄弟姉妹なんだよって思って…。 どこかのクラブやサークル活動とは違うんです。 来る人だけはいいけれど、来なかった人は姉妹じゃないって言えますか? 声掛けをすることって大事なように思います。 信徒同士の宣教という意味でも・・・。


故使徒ヨハネ市川嘉男神父様の葬儀*2018年5月5日

2018年05月06日 | 信仰と祈り

故使徒ヨハネ市川嘉男神父様の葬儀に参列しました。

葬儀は、菊地功大司教様、他20人程の司祭共同司式でカテドラルで行なわれました。 大司教様のお説教がブログにアップされていますので、葬儀に参列出来なかった方はそちらをご覧ください。

http://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/2018/05/post-78ef.html

 2000年の大聖年の年まで、自宅から歩いて5~6分ほどのところにカトリック田無教会というのがありました。 元々は、関町教会の分教会としてクリスト・ロア宣教修道女会の敷地内の聖堂をお借りしての小さな共同体でした。 当時、クリスト・ロアのチャプレンをされていたビアール神父様(パリ外国宣教会)が、関町まで離れているので近所の信徒さんが集まりやすいだろうということで始まったと伺っています。 私がこちらに引っ越して来た時は、次の代のJ・ロミティ神父様(ミラノ外国宣教会)が主任司祭となったばかりで、しばらくして小教区として認定されて活動が活発になり始めました。 伝え聞いた話では、修道院では隣接して教会が立てられるようにと敷地の一部を空けて下さっていたそうですが、帰天された信徒の方が土地を田無駅近くに寄付されたので、そこに教会を建てるべく積立金をはじめました。 ロミティ神父様は富士吉田教会(横浜教区)を何もないところから建てられた経験を持っていらした方で、田無に来る前はイタリアのフィレンツェの神学院の教授職をされて暫く日本を離れていての再来日で田無教会に着任されたのでした。 とっても体格の大きい方で、以下にもイタリア人らしい大らかさと大きな愛情を持って、私達信徒とその家族を大事にして下さいました。 神父様が神学と哲学の専門家でいらしたので、若い婦人たちで聖書研究会を立ち上げて週1回のお話を伺うようになりました。 とても難しいお話も分かりやすく説明して下さり、更にどんな質問でも明快な回答をくださいました。 会が終わると神父様特製のエスプレッソ・コーヒーをふるまって下さり、皆で持ち寄った様々なお料理に舌鼓を打ちながら楽しいランチをするのが決まりでした。

 その後に、故平原陽一神父様が着任。 ご病気でいらしたので、私達にはかなりな試練の時となりました。詳細を書くことはできませんが…。

 苦しい数年の後に着任されたのが、市川嘉男神父様でした。 市川神父様には、不思議な癒しの力がありました。 素朴なお人柄で、ちゃんちゃんこをスータンの上から羽織り、お茶目に冗談をいいながら私達を笑わせてくださいました。お歳は70代半ばでした。白柳枢機卿様と同年と言ってらしたように思います。 神父様としての司牧とミサを捧げる役目に純粋に取り組まれていました。 ロミティ神父様以来続いていた若い婦人たちの講座も最後まで続けていただきました。 いつも、楽しく笑いの絶えない講座でした。 美味しい持ち寄りランチも・・・。

一番心に残っているのは、「子どもの信仰教育は、親の責任です」と言っていらしたこと。 「とにかく、教会に子ども達を連れて来るように…」とも。 神父様自身が自然体な生き方をされていたので、何も強要されることもなく、堅信式などの勉強会なども『ミサの後の5分間講座』の形で、その時に一緒にお聖堂でお話を聞いていればいいよ」と言って、数か月間の5分講座を信徒全員で伺いました。 落ち着かない男の子たちは、ミサ中はお聖堂を出たり入ったりしていたのですが、ミサ後のお話だけは聞くようにしました。 めでたく堅信を受けていなかった当時の小中高校生達中心に、20名ほど皆一緒に堅信を受けるお恵みをいただけました。 本当にお恵みだったとつくづく思います。 お陰で息子は2つの大学を卒業するまで、教会の侍者、朗読奉仕、中高生会、教会学校リーダー、聖歌隊をやり続けました。ついでに教会委員も。 強制しないで自然な形で信徒生活に馴染めるように出来たのも、あの市川神父様の『5分間講座』のお陰です。 

 田無教会は本当に家族的な温かさを持った教会でした。 その中で子供たちも年長者も年少者も共に仲良く声かけあいながら育っていけたことも良い経験でした。 残念ながら閉鎖を余儀なくされて、元の本教会であった関町教会に合併吸収されてしまいました。 400名ほどいらした信徒とその家族は、それぞれに自分に合っていると感じた近隣のいくつもの教会と、小さな教会の閉鎖を体験したことで不信感を持った方は大きい関口教会やイグナチオ教会を選んで分散してしまいました。 司祭の激減と高齢化が背景にあるのでやむを得ないことでしたが…。

 市川神父様が帰天されたことで、田無教会を支えて下さった神父様方全員が天国にいらっしゃったことになります。 御霊の為にお祈りいたします。 そして…♪また 会う日まで~♪