福島大学には 「現代教養コース」 という夜間のコースがあるのですが、
そこで毎年、 「社会と人間」 という講義を何人かの先生方といっしょに開講しています。
なんでこんなに漠然とした科目名かというと、夜間開講の負担を軽減するため、
4~5名くらいの教員で担当するのですが、構成メンバーが入れ替わる可能性もあるので、
誰でも担当できるようにわざとボカしたタイトルにしてあるわけです。
しかし、この授業の発足時に科目代表者をやらされた私は、
このままのタイトルでオムニバス形式の授業なんかやってしまったら、
まったくまとまりがつかなくなって、しっちゃかめっちゃかなことになるだろうと判断し、
もうちょっと絞ったテーマを設定しましょうと担当者の皆さんに提案しました。
発足時のメンバーは、倫理学者である私のほかに、
経済学者、日本史学者、社会科教育学者、イギリス文学者の計5名です。
救いようもなく寄せ集めのメンバーです。
こんな5人でどんなまとまりのある授業ができるというのでしょうか?
しかし、私たちは頑張りました。
いろいろ話し合った末、「そうだ、戦争をテーマにしよう!」 ということになり、
副題を 「戦争への学際的アプローチ」 としました。
第1回目は全員が出張って自己紹介など交えながらオリエンテーションをしていき、
その後は1人が2~4回の講義をしていきます。
最初の頃はお互いの講義に出席しあって、ちょっとした検討会なんかもしたものでした。
そして、最終回にはまた全員が顔を合わせて、ミニ・シンポジウムみたいなことをします。
うちの大学のオムニバス形式の授業はどれも評判が悪い中で、
この授業はそこそこいい評価を得てきているのではないかと思っております。
その後、社会科教育学者が抜け、その代わりに西洋史学者が新加入し、
さらに日本史学者が抜けて現在に至っています。
さて、この授業の中で私はだいたい2~3回講義をしていますが、
今年はいろいろと日程的に都合がつかなかったために、
2回だけで勘弁していただきました。
ほぼ次のような構成で、2回だけのときは3が省略になります。
1.戦争とは何か?
2.正戦論の倫理学的系譜
3.現代においていかに国を護るか?
たいていこの授業では私がトップバッターで、
まずは戦争の定義から考えておこうという作戦です。
それも、こちらから戦争の定義を教えてしまうのではなく、
最初みんなにグループに分かれてもらって、
それぞれ戦争を定義してみてそれを発表してもらうというところから出発します。
毎年、4人組のグループが10チームほどできるでしょうか。
各班の意見はおもしろいほどバラバラで、
それを見てもらうことによって、自分たちが戦争について語り合いながら、
それぞれが考えている戦争のイメージがどれほどかけ離れているか、
というのを身をもって実感してもらうことになります。
授業後のワークシートにはこんなことを書いてくれた人がいました。
「言葉の定義についてはとても考えさせられました。いかに自分たちはあいまいなまま言葉を使っているのか気付かされました。以前、女の子に 『○○君のこと好きだよ』 と言われのぼせあがっていたら、後で 『友達としてにきまってるじゃん!』 と言い放たれたことを思い出しました。言葉の定義については、日常や、議論の場等、様々な場で必要とされることだと思うので、常に意識のスミに置いておきたいです。」
身につまされるお話ですね。
質問ではこういうのがありました。
「Q.日本や韓国では 『受験戦争』 と呼ばれていますが、これは比喩的表現ということでしょうか?」
定義を考えるときに、もともと比喩であった表現で概念として定着してしまっているものを含めてしまうと、
定義がブレてしまうので気をつけるようにという話をし、
「冷戦 cold war」 という語はあくまでも比喩的表現なんだと言いましたが、
「受験戦争」 はもちろん、それ以上に比喩的表現だということはおわかりいただけるだろうと思います。
別に軍隊が出動するわけでも、人が死ぬわけでもありませんから。
しかし、この授業をやっていて、冷戦や受験戦争などに引っ張られてしまって、
戦争という語を正確に定義できなくなってしまっている学生が多いということには驚かされました。
インリン・オブ・ジョイトイはかつて 「エロテロリスト」 と自称していましたが、
「テロリスト」 を定義しようとするときにインリンのことが頭から離れなかったりすると、
もうグチャグチャになってしまうでしょうね。
テロリズムの話になったので、それに関する質問も紹介しておきましょう。
みんなの定義を聞いてきて、さらにいくつか辞書的定義もご紹介した上で、
私としてはこの授業では戦争を 「大規模集団間の武力闘争」 と定義しますと宣言したわけです。
そして、もともとテロリズムは戦争のなかに含まれてはいなかったという話もしました。
それに対する質問というか反論です。
「テロリズムの主体は犯人 (個人) であるというお話がありましたが、その背後には実行犯を養成する集団が存在し、またその集団を支援する国家 (場合によっては複数の) が存在するわけで、必ずしも小さな集団によるものではないと思います。ただし、一般的に考え得る大規模集団と言えるかというと、これも難しいと思います。」
この方はちょっと私の話を聞き違えてしまったのかもしれません。
「テロリズムの主体は個人だ」 と言ったつもりはありません。
その背後に養成したり支援する集団がいることも確かでしょうし、
そもそもテロリズムを計画・実行するのは小規模か大規模かは別としてある種の集団でしょう。
私が言ったのは、かつてはテロは戦争ではなく犯罪として扱われていて、
だからそれに対処するのは軍隊ではなく警察 (アメリカならFBI) であった、ということです。
これが変わってきてしまったのは9.11以降のことであって、
だからテロが起きたからといって、
どこかの国に軍隊を送り込んで戦争を仕掛けるなんていうのは、
ちょっと前なら考えられないくらいデタラメなことだったんだというのは、
常識として知っておいたほうがいいでしょう。
戦争の定義との関連で言うならば、「大規模集団間の武力闘争」 のうち、
「大規模」 かどうかというよりも 「武力」 すなわち軍隊を用いているかというところで、
テロリズムは戦争とは言いがたいのではないかと思います。
ただし、冷戦終結以後は 「新しい戦争」 ということが言われるようになり、
「低強度紛争」 も戦争と呼ぶというようになってきていますので、
テロリズムを戦争に含めるかどうかというのは現在、最先端の問題であることは確かです。
いくつか理由があって、この授業の中で出された質問にお答えしておきたいのですが、
とりあえず今日はここまでにしておきましょう。
そこで毎年、 「社会と人間」 という講義を何人かの先生方といっしょに開講しています。
なんでこんなに漠然とした科目名かというと、夜間開講の負担を軽減するため、
4~5名くらいの教員で担当するのですが、構成メンバーが入れ替わる可能性もあるので、
誰でも担当できるようにわざとボカしたタイトルにしてあるわけです。
しかし、この授業の発足時に科目代表者をやらされた私は、
このままのタイトルでオムニバス形式の授業なんかやってしまったら、
まったくまとまりがつかなくなって、しっちゃかめっちゃかなことになるだろうと判断し、
もうちょっと絞ったテーマを設定しましょうと担当者の皆さんに提案しました。
発足時のメンバーは、倫理学者である私のほかに、
経済学者、日本史学者、社会科教育学者、イギリス文学者の計5名です。
救いようもなく寄せ集めのメンバーです。
こんな5人でどんなまとまりのある授業ができるというのでしょうか?
しかし、私たちは頑張りました。
いろいろ話し合った末、「そうだ、戦争をテーマにしよう!」 ということになり、
副題を 「戦争への学際的アプローチ」 としました。
第1回目は全員が出張って自己紹介など交えながらオリエンテーションをしていき、
その後は1人が2~4回の講義をしていきます。
最初の頃はお互いの講義に出席しあって、ちょっとした検討会なんかもしたものでした。
そして、最終回にはまた全員が顔を合わせて、ミニ・シンポジウムみたいなことをします。
うちの大学のオムニバス形式の授業はどれも評判が悪い中で、
この授業はそこそこいい評価を得てきているのではないかと思っております。
その後、社会科教育学者が抜け、その代わりに西洋史学者が新加入し、
さらに日本史学者が抜けて現在に至っています。
さて、この授業の中で私はだいたい2~3回講義をしていますが、
今年はいろいろと日程的に都合がつかなかったために、
2回だけで勘弁していただきました。
ほぼ次のような構成で、2回だけのときは3が省略になります。
1.戦争とは何か?
2.正戦論の倫理学的系譜
3.現代においていかに国を護るか?
たいていこの授業では私がトップバッターで、
まずは戦争の定義から考えておこうという作戦です。
それも、こちらから戦争の定義を教えてしまうのではなく、
最初みんなにグループに分かれてもらって、
それぞれ戦争を定義してみてそれを発表してもらうというところから出発します。
毎年、4人組のグループが10チームほどできるでしょうか。
各班の意見はおもしろいほどバラバラで、
それを見てもらうことによって、自分たちが戦争について語り合いながら、
それぞれが考えている戦争のイメージがどれほどかけ離れているか、
というのを身をもって実感してもらうことになります。
授業後のワークシートにはこんなことを書いてくれた人がいました。
「言葉の定義についてはとても考えさせられました。いかに自分たちはあいまいなまま言葉を使っているのか気付かされました。以前、女の子に 『○○君のこと好きだよ』 と言われのぼせあがっていたら、後で 『友達としてにきまってるじゃん!』 と言い放たれたことを思い出しました。言葉の定義については、日常や、議論の場等、様々な場で必要とされることだと思うので、常に意識のスミに置いておきたいです。」
身につまされるお話ですね。
質問ではこういうのがありました。
「Q.日本や韓国では 『受験戦争』 と呼ばれていますが、これは比喩的表現ということでしょうか?」
定義を考えるときに、もともと比喩であった表現で概念として定着してしまっているものを含めてしまうと、
定義がブレてしまうので気をつけるようにという話をし、
「冷戦 cold war」 という語はあくまでも比喩的表現なんだと言いましたが、
「受験戦争」 はもちろん、それ以上に比喩的表現だということはおわかりいただけるだろうと思います。
別に軍隊が出動するわけでも、人が死ぬわけでもありませんから。
しかし、この授業をやっていて、冷戦や受験戦争などに引っ張られてしまって、
戦争という語を正確に定義できなくなってしまっている学生が多いということには驚かされました。
インリン・オブ・ジョイトイはかつて 「エロテロリスト」 と自称していましたが、
「テロリスト」 を定義しようとするときにインリンのことが頭から離れなかったりすると、
もうグチャグチャになってしまうでしょうね。
テロリズムの話になったので、それに関する質問も紹介しておきましょう。
みんなの定義を聞いてきて、さらにいくつか辞書的定義もご紹介した上で、
私としてはこの授業では戦争を 「大規模集団間の武力闘争」 と定義しますと宣言したわけです。
そして、もともとテロリズムは戦争のなかに含まれてはいなかったという話もしました。
それに対する質問というか反論です。
「テロリズムの主体は犯人 (個人) であるというお話がありましたが、その背後には実行犯を養成する集団が存在し、またその集団を支援する国家 (場合によっては複数の) が存在するわけで、必ずしも小さな集団によるものではないと思います。ただし、一般的に考え得る大規模集団と言えるかというと、これも難しいと思います。」
この方はちょっと私の話を聞き違えてしまったのかもしれません。
「テロリズムの主体は個人だ」 と言ったつもりはありません。
その背後に養成したり支援する集団がいることも確かでしょうし、
そもそもテロリズムを計画・実行するのは小規模か大規模かは別としてある種の集団でしょう。
私が言ったのは、かつてはテロは戦争ではなく犯罪として扱われていて、
だからそれに対処するのは軍隊ではなく警察 (アメリカならFBI) であった、ということです。
これが変わってきてしまったのは9.11以降のことであって、
だからテロが起きたからといって、
どこかの国に軍隊を送り込んで戦争を仕掛けるなんていうのは、
ちょっと前なら考えられないくらいデタラメなことだったんだというのは、
常識として知っておいたほうがいいでしょう。
戦争の定義との関連で言うならば、「大規模集団間の武力闘争」 のうち、
「大規模」 かどうかというよりも 「武力」 すなわち軍隊を用いているかというところで、
テロリズムは戦争とは言いがたいのではないかと思います。
ただし、冷戦終結以後は 「新しい戦争」 ということが言われるようになり、
「低強度紛争」 も戦争と呼ぶというようになってきていますので、
テロリズムを戦争に含めるかどうかというのは現在、最先端の問題であることは確かです。
いくつか理由があって、この授業の中で出された質問にお答えしておきたいのですが、
とりあえず今日はここまでにしておきましょう。