まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

変わったこと、変わらなかったこと (その1) ・ 毎日の朝シャン

2011-03-25 05:26:37 | 幸せの倫理学
今回の震災がもたらした壊滅的被害から比べると、
福島県中通りは比較的、被害が少なくてすんだと言えるのかもしれません。
本とともに暮らしている私は、大学でも自宅でも、
大量の本が部屋中にひっくり返るという被害に遭いましたが、
この大災害の中でそれくらいですんだことはむしろラッキーでした。

しかしながら、それくらいですんだ福島県中通りであるにもかかわらず、
ライフラインの復旧にはものすごく手間取り、
公共交通網にいたっては未だに復旧する目処が立っていないというところに、
今回の震災の爪痕の深さを感じることができます。
福島駅のそばの我が家は、翌日には停電から解放されましたが、
水道は1週間以上回復せず、ずっと断水したままでした。
電気 ・ ガス ・ 水道 (うちはオール電化なのでガスは関係ありませんが) という、
現代生活の根本を支えるライフラインのうち1つでも欠けるとどうなるのかということを、
今回の震災によって実体験として思い知らされることになってしまいました。
一度でもこういう経験をしてしまうと、
それまでのごく当たり前の日常生活のありようがガラッと変わってしまいます。
私個人に関しての話ですが、今回の経験を経て変わったことと、
変わらなかったことを順次記していきたいと思います。


変わったこと (その1) ・ 毎日の朝シャン

もともと私は寝ぐせがつきやすい体質 (髪質?) なので、
朝起きるとたいてい髪がしっちゃかめっちゃかになっています。
これを元通り修正して何事もなかったかのように出勤するためには、
一度完全に頭を濡らしてドライヤーをかけ直さなければなりません。
毎朝必ずそれをしなければならないわけですから、
夜お風呂に入ってシャンプーしドライヤーで乾かすのはムダ以外のなにものでもありません。
というわけで、私はだいぶ以前から朝シャン派でした。
お風呂にシャワーがついているのが当たり前になった頃から、
(昔は家庭のお風呂にシャワーなんてなかったんですよ)
夜の入浴はやめて、朝シャワーを浴びてシャンプー ・ セットをするという生活になりました。

ところが、今回の長期断水により、朝シャンどころか、
シャワーを浴びることもできなければ、
お風呂に入ることもできないという生活を強いられることになりました。
けっきょく丸々1週間、風呂もシャワーもなしで生きたことになります。
つらつらと思い返してみるに、これは私の長い人生の中でも完全に初めての経験です。
これはツラかったですねぇ。
食べるものや飲み水に困っている方々もおられることを考えれば、
これくらいどうということないじゃないかと理性的には理解できるのですが、
感覚的、肉体的にはやはりツライものはツライです。
これだけ長期化すると、髪の毛を中心として身体中から放たれる異臭には、
自分の鼻がそのうち慣れてきてしまいましたし、
(うしろから風に吹かれるとときどきツンと臭いますが)
こんなに頭を洗わずにいると、髪の毛がペッタリしてきて、
寝ぐせなんて問題にならなくなってくるのだなという発見もありましたが、
とにかく自分の身体がイヤでイヤでしょうがないという感覚に苛まれました。

1週間の耐乏生活ののち温泉に行って久しぶりに髪と身体を洗い、
湯船にゆっくりつかったときには、本当に心からの幸せを味わうことができました。
そして、ごく当たり前の日常生活行為だと思っていたものが、
なんと贅沢な営みだったんだろうと深く感謝せずにはいられませんでした。
「有り難い」 とはまさにこのことです。
いつもみんなに言っていることなのに、自分は心底それを理解してはいなかったのだなと、
若干反省モードに入ってしまいました。

さて、その後ですが、今回のこの経験を経て、毎朝シャワーを浴び、
シャンプーをしなければならないという思い込みからは解放されたように思います。
寝ぐせなんてどうでもいいじゃないか、
1日や2日くらい身体を洗わなくてもまだ全然臭くないじゃないかと、
鷹揚に構えていられるようになりました。
それと同時に、風呂やシャワーってどれくらい水を消費しているんだろうと、
恐ろしいと思ってしまう感覚も身についたのかもしれません。
ふと気づくと、あれ今日シャワー浴びなかったなとか、
いやそういえば昨日も髪洗ってないんじゃないかななんていう日が増えています。
おそらくこれはいい傾向なのでしょう。
しだいに生活が復旧して、なんでも好きなだけ使える日常に戻ってしまうのではなく、
日々の有り難みに感謝できる感覚を維持していきたいと思います。