まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.子どもの頃から話すのが得意だったんですか?

2012-06-09 17:55:54 | 幸せの倫理学
第1回目の授業を聞いて、私が話すのが得意そうだと思われたのでしょうか?
とっても意外です。
まあ、そんなふうに見えているのだとしたらたいへん有り難いことですが…。

A.子どもの頃は話すのがとても苦手でした。
  いまだに話すのは得意ではありませんが、そこそこには話せるようになってきました。

子どもの頃は、人前で話すというよりも、人と話すこと自体が苦手でした。
小学校に入学したばかりの頃は、休み時間も教室でひとりで絵を描いたりしていました。
だから授業中にみんなの前で発表するなんてもってのほかで、
心臓がバクバクしながらしどろもどろに話すような子どもでした。
今思うと、そうなったきっかけがあったように思います。
私は九州生まれで、育ちはほとんど横浜だったのですが、両親ともに九州出身であり、
それで家庭で話される言葉のイントネーションが間違っていることがありました。
小学校1年生のあるとき国語の授業で金太郎のお話を順番に朗読させられたのですが、
私が読んだとたんにクラス中にどっと笑われてしまいました。
「きんたろう」 というのを我が家では 「き」 にアクセントを置いて発音していて、
私はその通りに 「【き】 んたろう」 と読んだのです。
標準語ではおそらくどこにもアクセントはつけず、最近の子たちが言う 「彼氏」 みたいに、
平板に 「きんたろう」 と言わなければならないと思うのですが、
私はそういうふうに発音することができませんでした。
みんなに笑われて先生が 「【き】 んたろう、じゃなくて、きんたろう、だよ」 と教えてくれるのですが、
私はその違いを聞き分けることができず、「うん、【き】 んたろう」 と、
何度言い直しても同じように発音し、そのたびにみんなに笑われてしまいました。
この事件をきっかけとして私は人前で話すのが怖くなってしまったのです。

その後、長年横浜で暮らすうちに次第にイントネーションは直ったようです。
それとともに人と話すことはできるようになっていきましたが、
人前で話すのはあいかわらず苦手でした。
というか、未だに苦手なままです。
皆さんもうすでにお気づきのことと思いますが、
私はものすごく言葉を噛みがちです。
おそらく話すのが苦手だったので、頭の中のセリフを早く話し終わりたいと思っていて、
そのため早口になってしまうから、自分の口がそのスピードについていけずに噛んでしまう、
という悪循環に陥っているようです。
自分のその癖は家でよく妻に指摘されるのでわかってはいて、
ある程度は気をつけているつもりなのですが、ふと気づくとスピードアップしていて、
そして噛んでしまっているのです。

ただまあ最近は、あ、今噛んじゃった、と気づいて若干恥ずかしい思いをしながらも、
まいっか、たぶん意味はわかっただろう、それに自分はアナウンサーでも芸人でもないし、
と臆せず話し続けることができるようになってきました。
というわけで、未だにまったく得意ではありませんが、
下手っぴなりにそこそこ話すことができるようになってきました。
これは、ちょっとお話しした 「幸福になる方法 (=欲求・欲望を小さくする)」 の応用版です。
上手くカッコよく話そうなんていう高度な欲望は捨て去り、
下手でもいいから意味が伝わりさえすればいいやという、
身の丈に合った欲望だけをもつように自分を抑えることによって、
あまり自分に過剰な期待や要求をすることもなくなり、
気楽に話すことができるようになってきたのです。
そうやって気楽に話したほうが、聞く側にとっても安心して聞けるのではないでしょうか。
さらには、噛んでしまったり声が裏返ってしまったりしたときに、
「あ、噛んじゃった」 とか 「あ、今声裏返っちゃった」 とわざとみんなに言ったりもします。
ダメなところも含めてさらけ出してしまうと、
聴衆はこの人はこういう人なんだなと受け容れてくれるように思います。
カッコつけようとかいいところを見せようなんていう邪心を捨て去ることによって、
聞いてる方に 「話すのが得意」 と勘違いしてもらえるほどになったのではないでしょうか。