皆さんに哲学のイメージを書いてもらうと、ほぼ9割の人が必ず 「難しそう」 と書いてくれますので、
哲学やってる人間に対する疑問として、これは率直な問いなんだろうと思います。
哲学のどこが難しいかに関しては以前に書いたことがあるので、そこをご参照ください。
この問いに対する答えは簡単です。
A.最初はまったく意味わからなかったし、本も全然読めませんでした。
哲学やってる人は誰でもそうというわけではなく、
これはあくまでも私のみに関する話ですので、その点はご了承ください。
きっかけシリーズ (その1、その2) に書いたように、
中学校時代に哲学・倫理学のテーマになんとなく関心をもち、
高校時代に 「倫理」 の教科書を通してごくごく基本的な知識は手に入れていた私ですが、
実際に哲学・倫理学の本を手に取ってちゃんと読んでみようとしたのは、
大学3年目のときでした (3年目だけど2年生)。
ひとつは、東京外国語大学にたった1人いらっしゃった哲学教授、宮川透先生の演習授業で、
ヘーゲルの 『小論理学』 という本をテキストにしていました。
もちろんドイツ語なんて読めませんから、日本語訳 (岩波文庫) での講読です。
その演習は、宮川先生の弟子の1人 (上級生) がその本を精読してきて一文一文解説していき、
それに対して宮川先生が質問したり、間違いを指摘したり、板書しながら詳しく解説したりしながら、
日によっては数ページ、難解な箇所だとほんの数行しか進まないというような授業でした。
したがって、私たちは基本的に黙ってそのやりとりを聞いていればいいのですが、
その講読は何年も前から始まっていて、私たちは本の途中から参加したことになり、
前のほうの話を聞いていないので、彼らが何を語り合っているのかほとんどわからないという状態でした。
もちろん、最初の時間にその先輩がこれまでの話をざっとレジュメにまとめて報告してくださり、
それにさらに宮川先生による解説も加えてくださったので、話の大枠は理解していたつもりなのですが、
実際にヘーゲルの文章を読んでみると、
その大枠とこの文章がどう繋がるのか皆目わからない感じです。
ヘーゲルの哲学は特に難解で有名ですので、
素人にわからなかったとしてもしかたなかったのかもしれませんが、
1個1個の単語の意味からしてまったく見当がつかず、途方に暮れたものでした。
同じ年だったか翌年だったか、社会思想史や経済思想史を担当していた山之内靖先生の演習授業で、
自分が読んだ本をレジュメにまとめていくという課題を課されました。
先ほどの演習はただお客さんになっていればよかったので、
自分で積極的・主体的に読んだという感じではありませんでしたが、
今回は自分でまとめて発表しなければなりませんので、本気で読まなくてはなりません。
山之内先生は哲学の先生ではなかったのですが、
なぜか私はこの授業でカントを発表しようと決めてしまいました。
ヘーゲルの演習で相当ストレスがたまっていて、
ヘーゲルに比べたらカントの文章のほうがまだ理解できるという自負があったのかもしれません。
読んだのは 『人倫の形而上学の基礎づけ』 という、カント倫理学の出発点となる本でした。
これは、中央公論社から出されていた 『世界の名著』 シリーズのカントの巻に入っていて、
この本自体は高校の頃に買って持っていて、パラパラとあちこち開いたりはしていましたが、
きちんと読んだことはまだなかったのでした。
この本にはカントの著作がいくつか収められていて、そのうちの一番短いものを選んでまとめました。
が、本来、どんなに短いものであろうと、
哲学書を1冊丸ごとレジュメにまとめていくなんてありえないことで、
先の宮川ゼミのように、1回に数ページずつ、
一文一文を丁寧に読解しながら読み進めていくのが哲学書の正しい読み方です。
残念ながら、当時の私にはとてもそんな芸当はできませんでした。
で、1冊全体のなかから何とか理解できたっぽいところだけ、
つまみ食いのようにざっくりとまとめていったのでした。
山之内先生にとってもまったく専門外の本ですし、
まとめた私もほとんど内容を理解できていないのですから、
ゼミでの発表が悲惨なものだったのは言うまでもありません。
何はともあれ、あれが自分で本気で哲学書を読んだ最初と言っていいでしょう。
あのときのレジュメはもうまったく残っていませんが、
あとから振り返っても、あのとき私はまったく何にも理解できていなかったのは間違いありません。
『人倫の形而上学の基礎づけ』 は、カントが 「定言命法」 という、
カント独自の概念を初めて提示し展開した書なのですが、
具体的に定言命法がどこに書いてあるのかすら私はきちんと理解できていませんでした。
3章構成の本ですが、それぞれの章が何を主題としているのか、
もちろんそれぞれにタイトルはつけられているのですが、
その意味もまったくわかっていませんでした。
カント自身がどんな意図でその本を書いたのかということよりも、
いろいろ書いてあるなかでかろうじて自分なりに理解できたところだけ、
読んだつもりになっていたというのが正直なところだったでしょう。
という具合で、最初のうちは本当に手も足も出ませんでした。
数年かけて宮川先生のゼミで哲学書の読み方を手ほどきされるなかで、
やっと少しずつ読み方のイロハがわかってきて、
大学院に進学してからドイツ語の原書を読み解いていく手法を正式に学んで、
それで何とか今に至るという感じです。
したがって、こと私に関して言うならば、
最初から意味をわかって読んでいたなんてことはまったくありません。
岩波文庫とかをパラッと開いてみてもなんにも意味わからなくても悲観する必要はないでしょう。
すべては訓練と教育の賜です。
そして、そんな訓練や教育を受けてまでも哲学書を読んでみたいと思うかという、
主体的な意欲の問題です。
よく、哲学書を簡単に読めるようになる方法はありませんかと聞かれることがありますが、
それに対してはこの言い古された答えを繰り返しておくことにいたします。
「学問に王道なし」。
哲学やってる人間に対する疑問として、これは率直な問いなんだろうと思います。
哲学のどこが難しいかに関しては以前に書いたことがあるので、そこをご参照ください。
この問いに対する答えは簡単です。
A.最初はまったく意味わからなかったし、本も全然読めませんでした。
哲学やってる人は誰でもそうというわけではなく、
これはあくまでも私のみに関する話ですので、その点はご了承ください。
きっかけシリーズ (その1、その2) に書いたように、
中学校時代に哲学・倫理学のテーマになんとなく関心をもち、
高校時代に 「倫理」 の教科書を通してごくごく基本的な知識は手に入れていた私ですが、
実際に哲学・倫理学の本を手に取ってちゃんと読んでみようとしたのは、
大学3年目のときでした (3年目だけど2年生)。
ひとつは、東京外国語大学にたった1人いらっしゃった哲学教授、宮川透先生の演習授業で、
ヘーゲルの 『小論理学』 という本をテキストにしていました。
もちろんドイツ語なんて読めませんから、日本語訳 (岩波文庫) での講読です。
その演習は、宮川先生の弟子の1人 (上級生) がその本を精読してきて一文一文解説していき、
それに対して宮川先生が質問したり、間違いを指摘したり、板書しながら詳しく解説したりしながら、
日によっては数ページ、難解な箇所だとほんの数行しか進まないというような授業でした。
したがって、私たちは基本的に黙ってそのやりとりを聞いていればいいのですが、
その講読は何年も前から始まっていて、私たちは本の途中から参加したことになり、
前のほうの話を聞いていないので、彼らが何を語り合っているのかほとんどわからないという状態でした。
もちろん、最初の時間にその先輩がこれまでの話をざっとレジュメにまとめて報告してくださり、
それにさらに宮川先生による解説も加えてくださったので、話の大枠は理解していたつもりなのですが、
実際にヘーゲルの文章を読んでみると、
その大枠とこの文章がどう繋がるのか皆目わからない感じです。
ヘーゲルの哲学は特に難解で有名ですので、
素人にわからなかったとしてもしかたなかったのかもしれませんが、
1個1個の単語の意味からしてまったく見当がつかず、途方に暮れたものでした。
同じ年だったか翌年だったか、社会思想史や経済思想史を担当していた山之内靖先生の演習授業で、
自分が読んだ本をレジュメにまとめていくという課題を課されました。
先ほどの演習はただお客さんになっていればよかったので、
自分で積極的・主体的に読んだという感じではありませんでしたが、
今回は自分でまとめて発表しなければなりませんので、本気で読まなくてはなりません。
山之内先生は哲学の先生ではなかったのですが、
なぜか私はこの授業でカントを発表しようと決めてしまいました。
ヘーゲルの演習で相当ストレスがたまっていて、
ヘーゲルに比べたらカントの文章のほうがまだ理解できるという自負があったのかもしれません。
読んだのは 『人倫の形而上学の基礎づけ』 という、カント倫理学の出発点となる本でした。
これは、中央公論社から出されていた 『世界の名著』 シリーズのカントの巻に入っていて、
この本自体は高校の頃に買って持っていて、パラパラとあちこち開いたりはしていましたが、
きちんと読んだことはまだなかったのでした。
この本にはカントの著作がいくつか収められていて、そのうちの一番短いものを選んでまとめました。
が、本来、どんなに短いものであろうと、
哲学書を1冊丸ごとレジュメにまとめていくなんてありえないことで、
先の宮川ゼミのように、1回に数ページずつ、
一文一文を丁寧に読解しながら読み進めていくのが哲学書の正しい読み方です。
残念ながら、当時の私にはとてもそんな芸当はできませんでした。
で、1冊全体のなかから何とか理解できたっぽいところだけ、
つまみ食いのようにざっくりとまとめていったのでした。
山之内先生にとってもまったく専門外の本ですし、
まとめた私もほとんど内容を理解できていないのですから、
ゼミでの発表が悲惨なものだったのは言うまでもありません。
何はともあれ、あれが自分で本気で哲学書を読んだ最初と言っていいでしょう。
あのときのレジュメはもうまったく残っていませんが、
あとから振り返っても、あのとき私はまったく何にも理解できていなかったのは間違いありません。
『人倫の形而上学の基礎づけ』 は、カントが 「定言命法」 という、
カント独自の概念を初めて提示し展開した書なのですが、
具体的に定言命法がどこに書いてあるのかすら私はきちんと理解できていませんでした。
3章構成の本ですが、それぞれの章が何を主題としているのか、
もちろんそれぞれにタイトルはつけられているのですが、
その意味もまったくわかっていませんでした。
カント自身がどんな意図でその本を書いたのかということよりも、
いろいろ書いてあるなかでかろうじて自分なりに理解できたところだけ、
読んだつもりになっていたというのが正直なところだったでしょう。
という具合で、最初のうちは本当に手も足も出ませんでした。
数年かけて宮川先生のゼミで哲学書の読み方を手ほどきされるなかで、
やっと少しずつ読み方のイロハがわかってきて、
大学院に進学してからドイツ語の原書を読み解いていく手法を正式に学んで、
それで何とか今に至るという感じです。
したがって、こと私に関して言うならば、
最初から意味をわかって読んでいたなんてことはまったくありません。
岩波文庫とかをパラッと開いてみてもなんにも意味わからなくても悲観する必要はないでしょう。
すべては訓練と教育の賜です。
そして、そんな訓練や教育を受けてまでも哲学書を読んでみたいと思うかという、
主体的な意欲の問題です。
よく、哲学書を簡単に読めるようになる方法はありませんかと聞かれることがありますが、
それに対してはこの言い古された答えを繰り返しておくことにいたします。
「学問に王道なし」。