まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

命とは命令

2011-03-08 10:43:37 | 生老病死の倫理学
間もなく卒業する倫理学ゼミの大学院生の修士論文のテーマは 「いのちの教育」 でした。
彼女は数多くの先行実践例を調べてくれましたが、
それと同時に、「いのち」 や 「命」 などの語義についても調べてくれました。
特に、国語辞典を引くのが大好きな私も、意外と漢字というのは調べたことがなくて、
いろいろと教えられるところがありました。
TIMのお2人が身体を張って綴ってみせてくれる 「命」 という漢字ですが (古い?)、
この漢字はどういう意味だか皆さんご存知でしたか?

「命」 には一方で 「生命」、「いのち」 という意味がありますが、
他方で、「命令」 とか 「使命」 という意味もあります。
「命 (めい) を受けて隣国に派遣された」 などという場合は、
「命」 単独で 「命令」 という意味になっています。
実はこの 「命令」 の 「令」 の字と 「命」 の字ってよく見ると似ています。
「令」 の字に 「口」 をくっつけると 「命」 という字になります。
つまり、「口で令を発する」 というところから作られたのが 「命」 の文字なのだそうです。
したがって、「命」 と 「令」 は同義で、
どちらも元はと言えば 「命令」 を意味する語だったのだそうです。

「命令」 がどうして 「いのち」 も表すようになったのか?
それは、天から人間に与えられた命令、それが 「生きること」 だったからだそうです。
そう、「命 (いのち)」 というのは人間に下された天からの 「命 (めい)」 なのです。
深いですね、中国思想。
命はけっして自分のものなんかではないんです。
キリスト教における 「人間 = 神の被造物 (神によって創造されたもの)」
という考え方にも近いところがありますが、
「いのち」 を直接 「命令」 とみなすという見方はやはり独特ですね。

天や神を信じていない大多数の日本人にとって、
「命」 の文字が示す生命観はもはや理解しがたいものなのかもしれませんが、
自殺者数が過去最高に達し、命がこれほど軽んじられている現在において、
もう一度見直してみる必要があるのかもしれません。
本当に天や神を信じるかどうかは別として、
あたかも天から与えられた命 (めい) であるかのように、
自分の命 (いのち) を生きてみるというのはいかがでしょうか。

講義科目はなぜ半期2単位なのか?

2011-03-07 10:00:35 | 教育のエチカ
先日、講義型授業のほうが演習形式の授業よりも単位数が倍に設定されていて不思議だ、
という話をさせていただきました。
これは大昔のヨーロッパ型の講義の伝統を踏まえたものだと聞いたことがあります。
「講義」 というのはドイツ語で Vorlesung 、
直訳すると 「前で読み上げる」 という意味になります。
かつての大学での講義型授業と言えば、
教授たちがいずれ研究書として出版しようと思っている高度な内容の原稿を持ってきて、
学生たちの前で読み上げていくというスタイルだったのだそうです。
コピー機も印刷機もない時代の話ですから、当然プリントを配ってもらえるわけではありませんし、
板書すら何もせず、難しい話をわかりやすく言い換えてもらえるわけでもなく、
ただひたすら専門的な研究内容をダーッと読み上げられるだけですから、
学生たちはその場で理解なんてできません。
ただもう必死になって、自分なりの速記記号みたいなものを駆使して先生の話を口述筆記していきます。
そして、家に帰ってそのノート (というよりも書きなぐったメモみたいなもの) とにらめっこしながら、
教授の原稿をそのまま再現しなければならないのです。
その再現したものが正式な学生のノートとなります。
そして、そのノートを何度も読み返して教授の話を理解できたら単位がもらえるのです。
現代的な感覚で言うならば、教授が書いた教科書がどこにも売られておらず、
教授だけが持っていて、講義時間中にそれを読み上げ、学生は必死でそのメモを取り、
家に帰ってから自筆で教科書を完成させ、それを何度も読んで理解する、という感じです。
これは当然、講義時間よりも自習時間のほうが長くなるに決まっていますね。
講義時間の2倍の自習時間が必要となるというのは当然というか、むしろ短いくらいです。
それに比べて演習形式の授業というのは、授業時間中に質問されてそれに答えればいいわけですから、
多少予習とかをしておかなければならないとしても、
講義型授業に比べて自習時間なんてそれほど必要ないわけです。
こういう伝統を引き継いでいるから、
講義型授業は演習形式の授業よりも単位数が多く設定されていたわけです。

印刷技術が発達して、みんなが教科書をあらかじめ買っておいたり、
プリントをその場で配布してもらえるようになったり、
また教授方法も発達して、板書を用いたり、わかりやすく説明したり、
視覚教材やパワーポイントまで使われるようになって、
「講義」 はもはや Vorlesung ではなくなりました。
そうなると学生にとって講義型授業は、
それほど時間をかける必要のない楽勝科目になってしまったのですが、
単位数はずっと長い間、昔と同じに設定されたままでした。
日本ではほんの16年前、大学設置基準の大綱化というのが行われ、
単位数は各大学で自由に設定していいようになりました。
しかし、このとき講義科目の単位数を減らすという方向で改革した大学は皆無で、
せいぜい、演習形式の授業の単位数を倍に増やして講義科目と同じにするように改めた、
というところがほとんどでした。
したがって今でも、講義科目は Vorlesung だった頃と同じだけ、
自習に時間をかけなければならないという規定になっているのです。

Vorlesung、罪な伝統ですね。
いや、大学生にとっては Vorlesung さまさまと言ったほうがいいのかな。
少なくとも私が大学生だった頃までは、ただ授業に出て話を聞いて (場合によっては出席しなくとも)、
学期末にチャチャッと勉強してテストを受ければ半期2単位、通年で4単位ももらえたわけですから、
「講義科目万歳!」 という感じでした。
そうやって、4年間何も勉強せず、
バイトと部活だけ頑張って卒業していく大卒生が量産されていたのです。
まあ、大学は何をやっているんだと非難されてもしょうがない状況ですね。
文句の鉾先は文部科学省に向けられますので、
文科省としては各大学に対して 「単位を実質化せよ」 という圧力をかけざるをえなかったわけです。

私が考えるに、単位を実質化するためには講義科目の単位数を半減するべきだったろうと思います。
現在の半分の半期1単位 (通年なら2単位) にしたとしても、45時間の学修が必要ですので、
30時間分の授業のほかに15時間の自習をしなくてはなりません。
毎週1時間ずつの予習復習が必要となるわけです。
講義科目でこれだけの自習をさせるだけでもけっこうたいへんなことですから、
半期1単位というのはいい線だったんじゃないかなあと思うのですが、
ただし、これをしてしまうと大学のカリキュラムは崩壊してしまいます。
単位が半減してしまうのですから、学生はこれまでの倍くらいの授業を取らなくてはならないのです。
そのためには授業科目数を倍近く用意してあげなければならない、ということになります。
それに対応できるくらい教員スタッフを増やせばいいんだと私は思いますが、
今のご時世、そんなことは夢のまた夢ですね。
というわけでけっきょく、単位数は Vorlesung の頃と同じまま、
それに見合っただけの自習をさせる工夫を各教員がしなければならない、ということになるわけです。
教員にとっても学生にとっても Vorlesung の桎梏が重くのしかかってくるのですね。
どうやってこの難問をクリアしていったらいいか、引き続き考えていきたいと思います。

年賀状への返信

2011-03-06 07:09:42 | 生老病死の倫理学
2月の終わり頃、年賀状への返信が届きました。
全文を引用させていただきます。

「かちかちに固まった庭の地面からスノードロップの球根の芽が出ているのに気づきました。
 厳寒というのに、春に向かっている植物のいのちを感じました。
 お賀状をありがとうございました。
 突然のお知らせとなってしまいましたが、古茂田宏は、昨年の12月16日に永眠いたしました。
 8月に肺がんとわかり5ヶ月間の闘病生活でした。
 これまでのご厚情に心から感謝いたします。
 四国松山に宏の実家があり、そこからすぐの所にあるお墓に眠ることとなります。
 もう少し暖かくなりましたら連れて行くつもりでございます。
 寒さが続きます。どうかくれぐれもご自愛くださいませ。
                                               2011年2月」

古茂田宏先生の奥様からのハガキでした。
古茂田先生とは1999年の日本倫理学会第50回大会で、
「20世紀―倫理学への問い」 という共通課題のもと、
「戦争と革命」 というミニシンポジウムの提題者としてご一緒させていただき、
それ以来、年賀状やお互いの業績をやりとりさせていただいていました。
年に1回、日本倫理学会の会場ですれちがうと挨拶を交わすというくらいのお付き合いでしたので、
がんを患っていらっしゃったことはもちろん、
12月にお亡くなりになったことも存じ上げないまま、
いつものように賀状をお送りしてしまっていたのです。

古茂田先生の年賀状にはいつも細かい字でびっしりと、
ご自分も含めご家族お一人お一人の1年間の様子が綴られていました。
それによって奥様がどんな方でいらっしゃるかというのもなんとなく伝わってきていましたので、
今回いただいた文面を読んだときも、素敵なご夫婦だったんだろうなあということと同時に、
突然の発病とご逝去にどれほど深く嘆き悲しまれたかということを、
静かに落ち着いた文章の向こう側に感じ取ることができました。

古茂田先生の数ある業績のなかでも、
『醒める夢冷めない夢 ―哲学への誘惑―』 という著書は、
とてもわかりやすく書かれた哲学入門書です。
哲学という懐疑の営みに誘って (いざなって) くれるとともに、
たんなる相対主義に陥ってしまうのではない希望の光も垣間見させてくれます。
古茂田先生のヒューマニスティックな熱いハートを感じることのできる好著だと思います。
哲学とは何かを手っ取り早く知りたいという方にはぜひお薦めしたいと思います。

まだ50代でこれからますますという時でいらっしゃったのに本当に残念でなりません。
古茂田宏先生の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

単位の実質化 ―自習時間を増加させる方法― (その2)

2011-03-05 21:55:33 | 教育のエチカ
学生の授業外での学習時間を増やすための最も正攻法なやり方は、
宿題を大量に出すことだろうと思います。
学期末ばかりでなく、学期の途中にも何度か小テストやレポートを課すとか、
教科書を読んでこさせて、次回の授業でその内容に関する質問に答えさせるというのは、
すでに多くの方が実践していることだろうと思います。
特に語学の授業や演習形式の授業では、テキストを読んでこさせたり、
レジュメの形にまとめてこさせるということはよく行われており、
自分の大学・大学院時代を振り返っても、そうした学びが一番充実していましたし、
授業外での時間をたくさん割かなければなりませんでした。

ただ、昔から不思議だったのは、そういう手間のかかる授業ほど単位数が少なかったということです。
語学の授業や演習形式の授業は、たいてい半期1単位、通年で2単位にしかなりませんでした。
それに対して、ただ出席して先生の話を聞いていればいいだけの講義型授業は、
半期2単位、通年で4単位と倍の単位をもらうことができたのです。
必要な学習時間でいうと、圧倒的に演習形式の授業のほうがたくさん勉強しているにもかかわらず、
単位数は逆転していたのです。
なぜそうなっていたのかについてはまた別の機会にお話ししますが、
とりあえず現行の制度においても講義型授業で毎週4時間の自習を課さなくてはなりません。
講義型授業でどうやってそれだけの自習をさせたらいいのでしょうか?

ひとつには講義型授業であっても、演習形式の授業と同じく課題を課すようにするというのが、
最も正しいやり方でしょう。
ただし問題は、どのような課題を与えるかです。
毎週4時間分だからということで、苦行のようなツライ課題をたくさん与えても、
学生たちは手抜きをする方法を考え出すか、FDアンケートでボロクソに書かれるか、
受講者がいなくなるかのいずれか (あるいはそのすべて) だろうと思います。
学生がつい時間をかけてやってしまいたくなる課題、
学生にとってやりがいがあり、やっていて楽しい課題を出してあげることが必要です。
これはどんな講義でもできることではありませんが、
テーマによってはそういうことも可能かもしれません。

例えば私は 「文化創造論」 という講義を持っています。
これは人間発達文化学類のスポーツ・芸術創造専攻の必修の共通科目で、
スポーツ、音楽、美術を専攻している学生約70名が受講しています。
この授業は中規模講義型授業ですが、6年前に起ち上げた当初から、
私からの一方的講義をできるだけ減らして、いろいろな課題を与えて、
学生たちが授業外でがんばる授業にしようと目論んで構成しました。
実際に私からの講義らしい講義は半期中たった3回しかありません。
「文化とは何か」、「スポーツとは何か」、「芸術とは何か」 の3回です。
まず最初に学生に出される課題は、「異文化交流プレゼン」です。
これは、専門分野ごとのチームに分かれて、
自分たちが専攻している文化 (種目や分野のこと) について
20分程度のプレゼンをするというものです。
彼らはそれぞれ、バスケットボールやサッカーや陸上など、
ピアノや器楽や声楽など、絵画や彫刻やデザインなどといった自分の得意分野をもっていますので、
それぞれの専門について、他の素人のみんなにわかりやすいプレゼンをしてもらうのです。
プレゼン本番までには1ヶ月半くらいの準備期間がありますが、
この間、彼らは嬉々としてプレゼンの準備をしてくれます。
自分の大好きな専門について調べたりまとめたりするのですから、
やっていて苦ではありません。
パワーポイントを使った本格的なプレゼンは初めてという学生が多いですが、
パワーポイントの使い方なんかわざわざ教えなくとも、
勝手に自分たちで凝ったパワーポイントを作ってきてくれます。
どれだけ時間をかけているのか、毎年頭が下がるのですが、
こちらが苦行を課さなくとも、彼らは自分がやりたいことであれば、
自発的に時間をかけて調べたり準備をしたりしてくれるのです。

しかし、この 「異文化交流プレゼン」 はプレゼン準備をして、プレゼンをするだけではすみません。
プレゼンは全チームが発表を終えるのに4週間くらいかかるのですが、
全部を見終わった2週間後には、「異文化交流プレゼン・レポート」 を提出しなくてはならないのです。
「レポート作成要領」 も最初に渡して、事細かに何を書かなければならないかを指定してあります。
まずは、自分たちのプレゼンに関する振り返り。
プレゼンの意図や工夫や反省点などについて詳しく書いてもらいます。
次に、他のすべてのチームのプレゼンについて、内容面でどんな学びがあったか、
形式面で工夫されていたのはどういう点だったかをそれぞれ詳しく書いてもらい、
最終的に内容面で1位のチームと形式面で1位のチームを選んでもらいます。
最後に、「異文化交流プレゼン」 の活動すべてを通じて一番印象に残ったこと、
一番学びが深まったと思えることは何かを、その理由も含めてまとめてもらいます。
分量的にはA4用紙で3枚以上書くことと指定していますが、
規定枚数ギリギリの学生はほとんどいません。
平均して7~8枚、多い人は10枚以上書いてきます。
読んでみると、自分たちのプレゼンを準備するのにどれほど苦労したか、
他チームのプレゼンをどれほど楽しんだかが伝わってきます。
このレポートを書くのにも相当時間をかけただろうと思いますが、
おそらく彼らはそれほど苦に思わずに書いたのではないでしょうか。
書きたいことは山のようにあり、
それをどういう形式でまとめたらいいかはすべて指示してありますので、
A4で7~8枚というと相当な分量ですが、
彼らは自発的にそれくらいのレポートを書いてしまうのです。

さらに学生たちには、レポート提出日には自分たちが書いてきたレポートを用いて、
グループ・ディスカッションをしてもらうということもあらかじめ伝えてあります。
5~6人の混成グループに分かれて、プレゼンを振り返りながら話し合いをしてもらうのです。
自分たちのプレゼンではどんなことを意図し、どんな工夫をしたのかを語り、
見ていた者たちからプレゼンのよかったところや改善すべき点などを聞いていきます。
すでにレポートにまとめてきたことですので、この話し合いはたいへん盛り上がります。
レポートを書きっぱなしで終わるのではなく、さらにそれを用いて授業を行うというのは、
ちょっとした思いつきで始めてみた試みでしたが、あとから考えてみると、
レポートに真剣に取り組ませるためにも有効な方法でした。

私が 「文化創造論」 という講義で課している課題の一端を紹介させていただきました。
この授業は自分の専門とはちょっと違うことを扱わなければならなかったがゆえに、
講義型授業であるにもかかわらず、学生自身の活動を中心として、
しかも、授業時間外で活動することを基本として授業計画を組むことができました。
これが、自分の専門の倫理学に関する講義であったとしたら、
なかなかここまで思い切って自分の話を割愛して、学生に任せる形式の授業にはできなかったでしょう。
やはり問題は、自分のどストライクの専門の講義で、話したいことも山のようにある授業のなかで、
こちらからの講義を中心としつつ、どうやって学生に授業時間外で学習してもらうかです。
次回は、日常的に課題を与えるという正攻法のやり方ではなく、
もっと簡便なやり方もご紹介することにしましょう。

携帯カンニング防止対策

2011-03-04 12:19:33 | 教育のエチカ
京大その他で携帯を使ってカンニングした受験生が捕まったようですね。
どんなふうにやったかという具体的な方法が解明されることを期待したいと思います。
それに先だって、大正大学では携帯によるカンニングを防止するために、
こんなこと↓が行われたそうです。

<入試ネット投稿> 携帯は電源切り机上に 大正大学が防止策

「大正大学 (東京都豊島区) は1日、2日に実施する文学部や人間学部の入試で、受験生に対し、携帯電話を電源を切った状態で机上に置かせることを決めた。従来は電源を切った上で、かばんにしまうよう指示していたが、試験監督の目が届く場所にあえて置かせることで 「不正防止」 を図るという。」(毎日新聞2011年3月1日)

うーん、これで防げるのでしょうか?
だって、今どきもうこういう時代↓ですよ。

話題の2台目携帯を持とう

「携帯がもう1台欲しい! ソフトバンクなら2台目も夢じゃない! とにかく安いソフトバンク携帯は、2台目としてもオススメ。「月々の通話料を安くしたい」 方、「仕事とプライベートで携帯を分けたい」 方、「仲間どうしでの連絡が頻繁にある」 方などは特に注目!」

この売り文句の中に、「ダミー用と実用を分けたい方にもオススメ!」 と付け加えてもいいくらいです。
そんなことよりは、とにかく今回の受験生が特定され逮捕されたということ自体が、
今後に向けての抑止効果を少しは生むでしょう。
とはいえ、次にやる人はもはや自分が特定されてしまうような携帯を使ったりはしないでしょう。
いたちごっこですね。

私は第一報を聞いた時点で、これを防ぐには電波妨害装置しかないと直観しました。
正しくは 「通信機能抑止装置」 というらしいですね。
受験生はなにかというと試験中にトイレに行ったりもしますので、
服のポケットにしのばせておき、トイレの個室で利用されたりしたらもうお手上げです。
だから、妨害電波を発してそもそも携帯を使えないようにするわけです。
みんなで話し合ったときには、ボディチェックをするという案も出されましたが、
 ぼくがボディチェック係をやりますっと言ったら、その案自体が却下されました。)
しかし、けっきょくこれをやっても、今度はそれに対抗するように、
電波妨害キャンセラーとかが開発されることになるんでしょう。
やはり、いたちごっこです。

最終的な解決策は、そもそも大学入試のあり方が変わるしかないだろうと思っています。
ネットで調べればすぐにわかるような問題や、
ネットで尋ねたら誰かにすぐに正解を教えてもらえてしまうような問題を出しているから、
こういう不正行為が可能になってしまうのです。
これからの時代は、携帯だろうがパソコンだろうがネットだろうが電子辞書だろうが、
いくらでも自由に使っていいですよ、
むしろそれらを駆使して情報を集めながら、
でもやっぱり最後は自分の頭を使って解かなきゃいけないような問題を、
出題するようにしなければいけないと思うのです。
たぶんこれからの社会で求められているのはそういう力でしょう。
問題は大学側がそういう問題を出題できるかという点です。
私はイヤだなあ、そんな仕事が回ってきたら。
当面はやはり、キャンセラーに負けないような強力な電波妨害装置を、
日本中の大学に設置していただくというのでいかがでしょうか。

人体のお掃除ロボット

2011-03-03 12:23:09 | 生老病死の倫理学
先日エアコンのフィルターを修理 (?) することによって劇的な改善を経験した私、

今朝、鼻をかんでいて思いました。

鼻毛というのはフィルターなんだな、と。

そして、鼻水というのはまさに 「お掃除ロボット」 ではないですか。

フィルターにちょっとでもホコリがたまると、自動的に水洗いしてくれます。

まあ自動とはいっても、ティッシュを探したり、両手で鼻にティッシュを押しつけたりと、

いろいろやらなければなりませんが、

しかし、これらの動きはほとんど自動的、反射的に行われるわけです。

それに、たとえこれらの動きをやらなかったとしても、

鼻水による洗浄は強制的に実行されてしまいます (いわゆる洟垂れ状態)。

やはり 「お掃除ロボット」 ではないですか。

うーん、人体ってよくできてるなあ。

欲を言えば、フィルタークリーニングの一時休止ボタンもついてると有り難いんだけど、

まあ、そういうわけにもいかないんでしょう。

毎日鼻をかみながら、この高度な最先端の機能に感謝することにいたしましょう。

マック撤退

2011-03-02 15:12:56 | お仕事のオキテ
先週末、東京に行ってきたんですが、そのときに気になったことが。

カント研究会の会場である法政大学に行くために、飯田橋の駅で下りたんですが、

飯田橋西口を出て神楽坂に向かって歩いていくと、

神楽坂下という交差点の角にマクドナルドがあったはずなのに、ないんです。

なんか別のお店になってしまっているんです。

その日は別にハンバーガーを食べようと思ったわけではないのでいいのですが、

昔、その神楽坂下店を利用したときは超満員で、

どのレジにも行列ができているほどだったんです。

このへんは大学も多いし、人出も多いし、ここが不採算店舗だったとはとうてい思えないのです。

そのお店がなぜ撤退してしまったのでしょうか?

そういえば福島駅東口の駅ビル内にあったマクドナルドも撤退してしまいましたね。

あそこは神楽坂下店の足下にも及ばないだろうとは思いますが、

しかし、福島市内では福島駅西口店と並んで稼ぎ頭だったろうと思うのです。

もっと閑散としたお店はほかにいくらでもあるような気がするのです。

なぜあんなに流行っていた店を撤退してしまうのでしょうか?

そういえば、このあいだ結婚式で盛岡に行ってきたとき、「The Bar 佐藤」 のマスターも、

盛岡の大通のマックが2軒とも撤退してしまったと教えてくれました。

盛岡の大通といえば一番の繁華街ですから、そこから2軒とも撤退してしまうというのは、

どういう経営戦略のもとでの判断なのでしょうか?

デフレ攻勢によってけっきょく自分の首を絞めて、赤字経営に転落してしまったことは知っていますし、

こういうときは思い切って撤退の道を選ぶことも必要だということも知っていますが、

それにしてもなぜあんなに羽振りのよかった店ばかりをどんどん閉めてしまうのでしょうか?

あの手の会社が合理的な理由のないことをするはずはありませんので、

きっとなにかちゃんとした理由があるはずなのです。

家賃が高かったのかなあ?

うーん、わからん。

ネットを調べてみても答えは出てきませんでした。

誰か知ってる人、教えてください。

死語の世界 ・ たぶんその1

2011-03-01 16:17:41 | 人間文化論
長らくエアコンが壊れていたために、冬場はうちで読書会をすることもできず、
会場をぢゅんちゃんの家に替えて開催したりしていたのですが、今日はそのときの話です。
前回ご紹介したようなメンバーでカント読書会を終えたあと、
恒例の (というか私にとってはこちらがメインの) 打ち上げにでかけることになりました。
ぢゅんちゃんちのドアから出ると、そこにぢゅんちゃんちの自転車が停めてあります。



これを見て、私と同い年の山川仙人さんはこうのたもうたのです。

「お、いい自転車だねぇ。これはメーカー品だね。」

私はこの一言を聞き逃しませんでした。
すぐさまツッコミを入れます。

「 『メーカー品』 って何だよ。そんな言葉使うのぼくらの親の世代くらいだよっ!」

皆さん、どうでしょう?
「メーカー品」 て言葉今でも使っていますか?
うちの母親とかはたしかに 「これはメーカー品だから」 とか言って有り難がったりしていました。
しかし、近年ではむしろ 「ブランド品」 と言うのではないでしょうか?
私は以前から母に対してもよくツッコんでいました。
「どんな商品だってメーカーが作ったに決まってるだろ。」
本来メーカーというのは maker ですから、
物を作っている会社、すなわち製造業者はすべてメーカーです。
したがってありとあらゆる製品はすべて 「メーカー品」 のはずなのです。
ただし、日本では外来語やカタカナ言葉が珍重されていた高度成長期の頃に、
「メーカー」 という言葉がある特別の意味をもって使われるようになったのは事実です。
小学館の 『大辞泉』 で 「メーカー」 を引いてみると、それがよくわかります。

「メーカー 【maker】 製造業者。製造元。特に、名の通った製造会社。
 物事をつくりだす人。 「ヒット―」
 ――ひん 【――品】 よく名前を知られた会社の製品。銘柄品。」

「メーカー」 という言葉にすでに 「有名なメーカー」 という意味が含まれているわけです。
ですから 「メーカー品」 という言葉も成り立つわけです。
私だってそれくらいの日本語事情はわきまえているのですが、
でももう 「メーカー品」 という言葉はすでに死語になっていると思うんですよね。
「ブランド」 という言葉ですら、それ単独では特別の意味をもちえなくなってしまって、
わざわざ 「一流ブランド」 とか 「有名ブランド」 と言わないと、
その良さをアピールできなくなってしまっている現在、
たんに 「メーカー」 とか 「メーカー品」 と言っただけではまったく特別感を表すことはできず、
だから誰もそんな言葉使わなくなっていると思うのです。
そんな言葉がぼくと同い年の人の口からスラッと出てきたので驚いてしまったわけです。 

まあ、山川仙人さんは国語の先生なので、
辞書に載っているような伝統的な言葉の意味を大切にされているのだ、
と好意的に解釈しておくことにいたしましょう。
でも彼は私と同い年とは思えないぐらい変わったところがいろいろありますので、
今後またレポートしていきたいと思います。


P.S.
今書いていて思ったのですが 「同い年」 ってもう死語ですか?
まだ若い人たちも使ってます?
なんで 「同じ年」 が 「同い年」 に音変化してしまったんだろう?