【田舎の道路】
かつて、過疎地の重要な産業は土建工事でした。(トンネルや橋を含む)道路工事が中心で、他には砂防ダム、運動場、小さな公園、会館、集会場等々!
国のお金が足りなくなっても、国は借金して過疎地に道路をつくり続けて来ました。おかげさまで、私が故郷に帰るのは非常に便利になりました。私のふる里の10軒ほどの集落には、立派な橋が2つも架かっています。
道路には色々なものがあり、それぞれ別の予算で作られます。私の故郷にある税金で作られる道路は、国道、県道、市道、農道、林道です。さらに、集落の道路は補助金で維持されています。
林道には、ほとんど利用されていない物(一日に2~3台車が通る?)も有ります。
【測量事業の背景】
20年程前までに、ここまでは要らないだろうと思われるほど、各種道路が建設されました。そこで、コッパ役人達が次の過疎地の産業として考えたのが「測量事業(地籍調査)」です。
都会の方には「測量事業」の背景を説明しておく必要があります。
近年まで、田舎では土地の境界線は道、石垣、あぜ道、分水嶺、川・谷などで、杭を打つ等々はされていませんでした。それで、十分用を足してきたのです。
1950年頃に「測量法」が施工されましたが、貴重なお金を掛けてまでやる必要性を感じなかったためか?田舎では、家屋敷、田畑、山林の境界線は昔からの慣習のままでした。
1990年頃に、父が所有している事になっていた故郷の土地を処分したのですが、その内なんか所かは実質的には国道と県道になっている土地でした。当時、私の故郷を走っている国道や県道は、登記簿上は「線」だけで「幅」が無かったのです。
【私は測量事業の被害者です!】
2000年頃、故郷の屋敷跡地の境界線を確定したいので立ち会えと、役場から連絡があり帰りました。役場の担当者は「100年掛かる大事業だ」と自慢げでした。
この結果、約200坪と言う事になっていた土地が、300坪ほどあった事がばれて、固定資産税が高くなってしまいました。
昔し田舎のステイタスシンボルは土地の所有でした。広い土地を分筆して売る時、実測しないで取引したので、実際は100坪しかない土地でも、120坪とか130坪と水増しして登記していました。私の屋敷跡地は、戦前~戦中に何回か分筆して売ったらしいので、残りの土地の登記面積は実際より狭くなっていたわけです。
それから2年ほどたって、私の山林の境界線を確定すると、また役場から連絡が有りました。
役場の担当者を除くと私(50才台)が最も若く、あとの人は70才台でした。何種類かの杭と重いハンマーを背中に背負って運び上げました。重い杭は5kg程度ありましたので、急な山道を登るのは大変な思いでした。少し大袈裟ですが、ゴルゴファの丘を十字架を背負って登るキリストを思い浮かべました。(キリストはその時33才だったらしいですが!) 70才台だった方は、皆さんもう亡くなられています。
私のふる里は遠いいので、役場から連絡が有るたびに旅費と宿泊料が数万円掛かり、毎回・二日有給休暇を取らなければなりませんでした。勿論、役場からは一銭も出ませんでした‼
【山林の価格】
山林の価格は暴落したままです。三重県熊野市育生町粉所大谷の山林が売りに出てますが、面積が9万坪(288,000m2)杉や檜が植林され樹齢が34年~95年で価格は1,100万円です。
東京ドームの6倍以上の面積があり、木は5万~6万本ほど植わっていると思われます。木は1本、200円程にしかなりません。植林して、草刈して、間伐して、枝打ちして・・・今までどれだけ手間が掛かっているかと思うと涙が出ます
測量資料が有ると記載されていましたので、この山は(前述の)境界線を確定する作業は終わっていると思われます。境界線に杭を打っても、ほとんど山の値段は上がらないのです!
【過疎地の山林の測量事業は中止すべきです。】
ここまで読んで頂いた方は、『コッパ役人達』と下品な言葉を使った気持ちが分かって頂けるのでは? 『コッパ役人達』とは霞が関の役人のことです。 コッパ役人よ杭打ちと杭運びを手伝え! 貴重な税金を投入するのなら、山林の価値が上がる事業だけにしろ!
過疎地では、ますます高齢化が進んでいます。山林の境界線には一般に道らしい道は有りません。70才以上の老人に、そんな所を登り・下りさせるのは”酷”だと思いませんか!
都会に住む人がふる里の祖先伝来の土地を相続するケースが多くなっていますから、共感頂ける方が多いのではと、この記事を書きました。
かつて、過疎地の重要な産業は土建工事でした。(トンネルや橋を含む)道路工事が中心で、他には砂防ダム、運動場、小さな公園、会館、集会場等々!
国のお金が足りなくなっても、国は借金して過疎地に道路をつくり続けて来ました。おかげさまで、私が故郷に帰るのは非常に便利になりました。私のふる里の10軒ほどの集落には、立派な橋が2つも架かっています。
道路には色々なものがあり、それぞれ別の予算で作られます。私の故郷にある税金で作られる道路は、国道、県道、市道、農道、林道です。さらに、集落の道路は補助金で維持されています。
林道には、ほとんど利用されていない物(一日に2~3台車が通る?)も有ります。
【測量事業の背景】
20年程前までに、ここまでは要らないだろうと思われるほど、各種道路が建設されました。そこで、コッパ役人達が次の過疎地の産業として考えたのが「測量事業(地籍調査)」です。
都会の方には「測量事業」の背景を説明しておく必要があります。
近年まで、田舎では土地の境界線は道、石垣、あぜ道、分水嶺、川・谷などで、杭を打つ等々はされていませんでした。それで、十分用を足してきたのです。
1950年頃に「測量法」が施工されましたが、貴重なお金を掛けてまでやる必要性を感じなかったためか?田舎では、家屋敷、田畑、山林の境界線は昔からの慣習のままでした。
1990年頃に、父が所有している事になっていた故郷の土地を処分したのですが、その内なんか所かは実質的には国道と県道になっている土地でした。当時、私の故郷を走っている国道や県道は、登記簿上は「線」だけで「幅」が無かったのです。
【私は測量事業の被害者です!】
2000年頃、故郷の屋敷跡地の境界線を確定したいので立ち会えと、役場から連絡があり帰りました。役場の担当者は「100年掛かる大事業だ」と自慢げでした。
この結果、約200坪と言う事になっていた土地が、300坪ほどあった事がばれて、固定資産税が高くなってしまいました。
昔し田舎のステイタスシンボルは土地の所有でした。広い土地を分筆して売る時、実測しないで取引したので、実際は100坪しかない土地でも、120坪とか130坪と水増しして登記していました。私の屋敷跡地は、戦前~戦中に何回か分筆して売ったらしいので、残りの土地の登記面積は実際より狭くなっていたわけです。
それから2年ほどたって、私の山林の境界線を確定すると、また役場から連絡が有りました。
役場の担当者を除くと私(50才台)が最も若く、あとの人は70才台でした。何種類かの杭と重いハンマーを背中に背負って運び上げました。重い杭は5kg程度ありましたので、急な山道を登るのは大変な思いでした。少し大袈裟ですが、ゴルゴファの丘を十字架を背負って登るキリストを思い浮かべました。(キリストはその時33才だったらしいですが!) 70才台だった方は、皆さんもう亡くなられています。
私のふる里は遠いいので、役場から連絡が有るたびに旅費と宿泊料が数万円掛かり、毎回・二日有給休暇を取らなければなりませんでした。勿論、役場からは一銭も出ませんでした‼
【山林の価格】
山林の価格は暴落したままです。三重県熊野市育生町粉所大谷の山林が売りに出てますが、面積が9万坪(288,000m2)杉や檜が植林され樹齢が34年~95年で価格は1,100万円です。
東京ドームの6倍以上の面積があり、木は5万~6万本ほど植わっていると思われます。木は1本、200円程にしかなりません。植林して、草刈して、間伐して、枝打ちして・・・今までどれだけ手間が掛かっているかと思うと涙が出ます
測量資料が有ると記載されていましたので、この山は(前述の)境界線を確定する作業は終わっていると思われます。境界線に杭を打っても、ほとんど山の値段は上がらないのです!
【過疎地の山林の測量事業は中止すべきです。】
ここまで読んで頂いた方は、『コッパ役人達』と下品な言葉を使った気持ちが分かって頂けるのでは? 『コッパ役人達』とは霞が関の役人のことです。 コッパ役人よ杭打ちと杭運びを手伝え! 貴重な税金を投入するのなら、山林の価値が上がる事業だけにしろ!
過疎地では、ますます高齢化が進んでいます。山林の境界線には一般に道らしい道は有りません。70才以上の老人に、そんな所を登り・下りさせるのは”酷”だと思いませんか!
都会に住む人がふる里の祖先伝来の土地を相続するケースが多くなっていますから、共感頂ける方が多いのではと、この記事を書きました。
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