高楠順次郎(広島県御調郡八幡村・字篝出身)は生涯に名前を何度か変更している。沢井梅太郎が幼名。その後(明治15、17歳)梅太郎を洵に改名。明治16頃小林洵と称する。幼少期には祖父精作(精斎)から漢籍の素読10歳時に終了、そのご詩経・唐詩の朗唱をし、弟の子守唄とする。
明治11年、13歳のときに宮内尋常小学校下等2級を卒業。教師は野村精作(長谷川恭平の弟)。翌年12年に下等一級を卒業し、三原の桜南舎(漢学塾)に入り、長谷川恭平(桜南)について漢学を修める。花井卓蔵・山科礼蔵と同学。
明治13年旧三原城内に設立された三原小学校で行われた小学校教員検定試験。政治に目覚め「竜山会」を結成。花井は自由党員、高楠は立憲政党員となる。
高楠順次郎の知人友人
そうそうたる人物の名前がリストアップされているが、その中には渡辺哲信・富士川游・花井卓蔵・浅野長武・常光得燃・徳富蘇峰・山科礼蔵・新村出・大谷光●ら真宗教団の最高幹部の名前が・・・。
旧福山藩主の家筋の人とか、竹原出身の永井潜・高島平三郎・和田英松の名前は無い。
高島平三郎は富士川游と接点をもっていた。
文部省教学局編 教学叢書2(昭和13)に西田幾多郎・高楠順次郎・佐々木信綱の論文が掲載されている。
一 學問的方法・西田幾多郎 / 1
二 佛教の全體性原理・高楠順次郎 / 15
三 萬葉學先哲の苦心に就いて・佐佐木信綱 / 35
など
佐々木は万葉集の研究に打ちこむことが、戦場で戦う若い兵士たちに対する学者の責任だという。それに対して高楠は仏教の考え方は当時の天皇制国家主義のベースにある全体主義と通底するというという形で軍国主義に積極的に加担。大東亜共栄圏構想に対しても肯定的論陣を張った。
西田の場合は単刀直入にいえばいい部分を持って回った言い方に終始し、相変わらず、多彩なレトリックの中に身をゆだね、戯れている。
タイトル
大東亜海の文化
著者
高楠, 順次郎, 1866-1945
著者
高楠順次郎 著
出版地
東京
出版社
中山文化研究所
出版年
1942
大きさ、容量等
134p ; 19cm
注記
付録: 南洋に関する文献130-134p
高楠順次郎全集
明治11年、13歳のときに宮内尋常小学校下等2級を卒業。教師は野村精作(長谷川恭平の弟)。翌年12年に下等一級を卒業し、三原の桜南舎(漢学塾)に入り、長谷川恭平(桜南)について漢学を修める。花井卓蔵・山科礼蔵と同学。
明治13年旧三原城内に設立された三原小学校で行われた小学校教員検定試験。政治に目覚め「竜山会」を結成。花井は自由党員、高楠は立憲政党員となる。
高楠順次郎の知人友人
そうそうたる人物の名前がリストアップされているが、その中には渡辺哲信・富士川游・花井卓蔵・浅野長武・常光得燃・
旧福山藩主の家筋の人とか、竹原出身の永井潜・高島平三郎・和田英松の名前は無い。
高島平三郎は富士川游と接点をもっていた。
文部省教学局編 教学叢書2(昭和13)に西田幾多郎・高楠順次郎・佐々木信綱の論文が掲載されている。
一 學問的方法・西田幾多郎 / 1
二 佛教の全體性原理・高楠順次郎 / 15
三 萬葉學先哲の苦心に就いて・佐佐木信綱 / 35
など
佐々木は万葉集の研究に打ちこむことが、戦場で戦う若い兵士たちに対する学者の責任だという。それに対して高楠は仏教の考え方は当時の天皇制国家主義のベースにある全体主義と通底するというという形で軍国主義に積極的に加担。大東亜共栄圏構想に対しても肯定的論陣を張った。
西田の場合は単刀直入にいえばいい部分を持って回った言い方に終始し、相変わらず、多彩なレトリックの中に身をゆだね、戯れている。
タイトル
大東亜海の文化
著者
高楠, 順次郎, 1866-1945
著者
高楠順次郎 著
出版地
東京
出版社
中山文化研究所
出版年
1942
大きさ、容量等
134p ; 19cm
注記
付録: 南洋に関する文献130-134p
高楠順次郎全集