中学ごろまで日記をつけていた。
ある日、昔書いたところを読み返す折があった。
これは解決策になっていない。ただの愚痴だ。
そう思って、日記を止めてしまった。
帰国してから日誌をつけている。
その日やったこと、食べたもの
翌日の予定・献立
誰に会って、誰に電話して、誰から電話があって
注文した商品をどこの誰が届けた
テレビを何時まで見た
就寝時間、起床時間
等、等。
ここに何を何を思い、おかしかったとか、悲しかったとかは書かない。
去年ブログを始めた。
これも日記の一種だ。
今のところ毎日書いているし、思ったこと、感じたこと、愚痴まで
かなり書いている。
匿名の相手に話しかけているわけだが、
自分に話しかける伝統的な日記よりポジティブな気がする。
匿名とはいえ、時に意識して話しかけている。
写真の添付があるとき、
カナコちゃんとか、安住さんとか、吾郎ちゃんとか、リサさんとか希ちゃんとか
ラジオで何か聞いて、それについて書いている時は、
ケンタさんとか、ミヤダイさんとか、小島さんとか、カッキーとか安住さんとか・・・・
私はいい気分で書いているけど、反論できないこれらの方はおもしろくないかもしれない。
ハッカーの103関係にも話しかけているのだろう。
これはわかりやすい反応があるのけど・・・ HiHiHi・・・・・
あれは先週の確か金曜日。
キラキラの3時に松山さんとかいう人が出演した。
なんかカーネーションとか言うドラマの話だったみたい。
その中で表現方法(ここからは私の言葉です)について言っていた。
単刀直入ではなく、相手に考えさせるような表現方法。
全部言うのではなく相手に考えさせる。
ストーリーにもっと集中してもらうため?
確かに日本はいつもそういう表現方法をを使ってきた。
全部は言わない。
もし見当違いを打ったら話し手としてはどうするのだろう。
お察しくださいという表現方法。
使う相手次第というか。
外国と日本がちゃんと交渉できないのは「お察しください」で話すからである。
この表現方法についてはもうとっくに書いたのだけど、
この表現方法が最近なされていないという”批判”めいた意見を聞くと
また反論したくなる。
フルに表現しないことの利点は何なんだろう?
どこの馬の骨ともわからない人の作品に最初からこういう期待のされかたは重い。
私に言わせるなら卑怯な臭いがするのだ。
「そういうつもりで言ったのではない」
「そういう解釈をされたは」
相手に非を押し付け、自分の逃げ場は確保している。
実を言うとフランス人もにおわせる言い方をする。
だからフランス語には「意図的に言わない、言葉を濁す(落とす)」という単語があるくらいだ。
しかし、この単語のおかげで
「あなたは意図的に言葉を落としている」と直訳なのだけど
反撃・追及することで対話が続けられるのだ。
それに肝心の場でこの手段を使う人は稀だ。
こんな言い方をされたら議論にならないからだ。
松山さんという人はどういう場面を想定してこの表現方法を押す押すのだろう。
小説とか文化的行為のときだけかしら?
オーサーが絵でも、文でも、何の作品でも全部表現しなかったら
見た人、聞いた人、読んだ人はそのオーサーのことをまっすぐにはわからない。
と思う。
フルに表現してぶつけてくるからこそ、共鳴もでき、批判もでき、
どちらのケースでも他の作品も知りたいと感じるのではないだろうか?
気に入れない作品のときでも、他の作品もみて見るということはある。
能のなかで、和歌・短歌のなかで余韻、間を残したのはどうしてだろう。
確かに相手にまかせる、残す表現はある。
ロッシーニのオペラで歌い手に好きなように歌ってもらうパーツを残した作品がある。
でも松山さんの言っている余韻はこれとは違うと思う。
松山さんはじっくり腰を入れて見てほしいと言ったけど
それは作品次第なのだはなかろうか?
どういう手段であれ、自分を表現するのは誰かに伝えたいからだ。
伝わらない表現をするのは自分の意思に矛盾するのではなかろうか?
昔、商工会議所の講演に出席したとき、
英語の先生が
「文末によろしく御判読をお願いします」なんてふざけたことを書くなと言った。
それはビジネスレターだからかもしれない?
いいえ、相手に考える時間の無駄、読む手間の無駄をさせないために
隅から隅まで明瞭に書く手間を自分で払うのは当然なことなのだ。
ついでにアメリカ人の英語の教師が、
「1枚以内にまとめる。それ以上になったらアメリカでは読んでもらえない」と言った。
文学でも絵画でも音楽でもわかってもらう努力をするのは作者のほうだ。
と私は考える。
それこそ相手に対する配慮、マナーと言えると思うのだが。
先日の芥川賞の審査員であった都知事が「つまらない作品ばかりで」とか言ったとか。
私は都知事の作品は一冊しか読んでいないのだが、
実に配慮の行き届いた作品だった。
洗練され、隙がなく。
言いたいこと、作者の工夫はし尽くされていたが
それでなおかつ、考えさせる作品だった。
そうだ、つまらない作品という評価の作品を都知事の作品と比較読書してみよう。