8月9日日曜、長崎で開かれた原爆投下70周年記念式典で、
次の国連総会で核兵器廃絶決議案を提出する意向であることが伝えられた。
恐らく、これは大多数の人間によって好意的に迎えられるニュースになるだろう。
しかし、安倍が言うところの核兵器は北朝鮮や中国の核兵器であり、
決してアメリカやイギリス、フランスの核兵器を意味してはいないだろう。
私は、
日本の反核運動は、これまで「何が悪いか」を問う言及に留まり、
そこから一歩踏み込んだ「誰が悪いか」の追及を控えてきたのではないだろうか?
という意見を先日、述べた。
それは現実ではアメリカや日本、イギリスの指導者層は明らかに、
「世界には良い戦争と悪い戦争、あるいは良い核と悪い核の2種類が存在し、
自国のそれは前者に値し、敵国のそれは後者に値するのだ」と考えているのに対して、
私たちレフトが単に「核の脅威」や「戦争の残酷さ」を強調し、
一般論のレベルで抗議するだけで終わっていることを危惧しているからである。
長崎の原爆投下に関して言えば、非常に面白い話がある。
広島の原爆がウラニウム爆弾、長崎の原爆がプルトニウム爆弾であることは
ちょっと勉強した人なら誰でも知っていることだろう。
だが「なぜ、わざわざ違うタイプの爆弾が同時期に使われたのか?」
ということを知る人はそういないと思う(もしかしたらいるかもしれないけど)。
ネタ晴らしをすると、当時のアメリカは自国が開発した
ウラニウム爆弾とプルトニウム爆弾のどちらが将来の生産対象として
ふさわしいのかを知るために実験も兼ねて二種類の原爆を使用したのである。
長崎の原爆投下作戦を一任されたレスリー・グローヴス将軍は、
開発に4千億ドルもかかった爆縮型爆弾が広島の引き金型爆弾と
同等の効果があることを示したがっていた。
実際の戦闘で新兵器の実験を行うというのは別に特異な発想ではなく、
例えば、一部左翼にも敬愛されている山本五十六も海軍の戦闘機開発の予算を
増やすために、上海空爆を計画・実行し、戦闘機の威力をアピールしたことがある。
今、私はアピールという言葉を書いたが、
まさに近代の科学兵器はアピールと一対のものだった。
哲学者のレイ・チョウは、
「近代科学は表象のテクノロジーだった」と述べている。
非常に大雑把に説明すると、近代の科学は、
小難しい専門知識や理論を知らなくても、
その威力の凄さが大衆に伝わるようにすることが優先されてきた。
コンピュータ・ゲームを例にすれば、わかりやすいと思う。
YouTubeあたりで昔のゲームと今のゲームの映像を比較するだけで、
現在のコンピュータ言語の技術の発展を実感することができるだろう。
同様に、兵器もまた、継続的に生産・使用されるために
その威力が誰にでも伝わるようにすることが求められ、
開発者・軍人たちが特に視覚効果に訴えるよう気にかけるようになった。
ある兵器を実演することで、その兵器の存在意義をアピールするようになった。
ちょっと小難しい話になってしまったが、要するに、
軍がプルトニウム爆弾の威力を証明し、
予算を確保するために長崎にあの原子力爆弾が落とされたのである。
試すだけならまだ良い。長崎の原爆投下は他者に対するアピール、
つまり開発チームの有能さなり兵器の有効さなりを訴えるためのものであった。
プレゼンで報告者がパワーポイントで
いかに自分の主張が正しいのかを説明するあの作業と同じ感覚で
アメリカは日本に原子力爆弾を投下した。
この「誰が悪いか」がハッキリとわかるエピソードを前にして、
キノコ雲の写真や、皮膚がただれた群集の絵をイメージして欲しい。
実験やアピールのために爆弾を都市に落とす、
しかも効果が高いことを期待して落とすという
落とした側の非人間性、人を人とも思わない思想が
あれらの資料からは伝わってこないのである。
それらから伝わってくるのは、「原子爆弾」に対するマイナスイメージであり
「原子爆弾を落とした理由」に対するマイナスイメージではない。
私が、わざわざこのような細かいことを執拗に気にかけるのは、
現在の反核運動に多く見られる傾向が、
「原子爆弾を持つこと」に対する反射的な嫌悪感であり、
「原子爆弾をなぜ持つのか」に対するものになっていないからである。
以前、ある反核活動家に
「北朝鮮は、米韓の軍事演習の中止を条件に核保有の放棄を提案している。
逆に言えば、米韓の軍事演習が如何に北朝鮮に軍事的脅威を与えているのかということだ」
と述べたところ、お前は核兵器の保有を正当化するつもりなのかと言われたことがある。
それに対して私は
「アメリカの標的にされる国が核を持つのは自国が侵略される恐れがあるからだ。
実際、アメリカはベトナム、イラクと嘘の理由で他国の土地を荒らしたにも
関わらず、非難を受けただけで戦争犯罪で裁かれたことなど一度足りともない。
このようにアメリカやNATOが野放しになっている状況を変え、
北朝鮮が核兵器を持たなくても済むようにすることこそが、
核兵器廃絶のために最も近く、効果が見込まれる手段であるはずだ」と答えた。
「それは政府がすべきことだ!」という謎の回答で否定されたわけだが、
ある国が核兵器を持つには、それなりの理由があること、
その理由に正当性がある場合、持たざるを得なかった原因を解消すること、
つまり、NATOの中東・アフリカ・アジアに対する軍事干渉に抵抗することが
核の廃絶につながるという認識を持つことが大事なのだという意見は今も変わらない。
「誰が悪いのか」に深く言及しない反核は、結局のところ、
冒頭で安倍が述べたような軍拡を許す反核、
北朝鮮や中国、ロシアへの敵視を助長させる反核になってしまうだろう。
少なくとも、核を持った→許されない悪だ!という単純な認識は
核に反対した→この人は正義だ!という単純な認識と表裏一体のものである。
あのキッシンジャーやオバマが反核を唱えただけで好意的に評価されたことは、
反核というものが非常に使い勝手のいいアクセサリーであることを証明したものだと言えよう。
核廃絶を主張するオバマと核の使用準備を表明したプーチンとを対置すれば、
いかにアメリカがロシアに対して意地の悪い攻撃をしていようと、
いかにアメリカがウクライナを事実上の植民地にしていようと、
問答無用で前者が正義で後者が悪ということになってしまう。
実際、全体を見ずに核に対する発言だけを見て、
どちらが悪者かを決める反核・反戦団体は少なくない。
嘘だと思えば、「北朝鮮 反核」あるいは「プーチン 反核」とでも検索をかけると良い。
このような原理主義とでも言うべき人間や団体が、
いかに特定の国に対する軍事的・経済的干渉の正当化に貢献しているかを知るといい。
長々と書いたが、私たちは「核を持つことは悪いことだ」という単純なテーゼではなく、
「なぜこの国は核を持たなければならなかったのか」という疑問を持つべきだ。
それすら、今の日本の言論状況では
「それはロシアが悪だからじゃ!北朝鮮が独裁国家だからじゃ!」といった理解しか
されないようが気がするが、単純な正義ほど力強い軍拡へのエールはない。
知らず知らずのうちに右翼(というか安倍やオバマ)に都合が良い
アクションをとらないようにするために変わることが今、必要とされている。
そのことに変わりはあるまい。
次の国連総会で核兵器廃絶決議案を提出する意向であることが伝えられた。
恐らく、これは大多数の人間によって好意的に迎えられるニュースになるだろう。
しかし、安倍が言うところの核兵器は北朝鮮や中国の核兵器であり、
決してアメリカやイギリス、フランスの核兵器を意味してはいないだろう。
私は、
日本の反核運動は、これまで「何が悪いか」を問う言及に留まり、
そこから一歩踏み込んだ「誰が悪いか」の追及を控えてきたのではないだろうか?
という意見を先日、述べた。
それは現実ではアメリカや日本、イギリスの指導者層は明らかに、
「世界には良い戦争と悪い戦争、あるいは良い核と悪い核の2種類が存在し、
自国のそれは前者に値し、敵国のそれは後者に値するのだ」と考えているのに対して、
私たちレフトが単に「核の脅威」や「戦争の残酷さ」を強調し、
一般論のレベルで抗議するだけで終わっていることを危惧しているからである。
長崎の原爆投下に関して言えば、非常に面白い話がある。
広島の原爆がウラニウム爆弾、長崎の原爆がプルトニウム爆弾であることは
ちょっと勉強した人なら誰でも知っていることだろう。
だが「なぜ、わざわざ違うタイプの爆弾が同時期に使われたのか?」
ということを知る人はそういないと思う(もしかしたらいるかもしれないけど)。
ネタ晴らしをすると、当時のアメリカは自国が開発した
ウラニウム爆弾とプルトニウム爆弾のどちらが将来の生産対象として
ふさわしいのかを知るために実験も兼ねて二種類の原爆を使用したのである。
長崎の原爆投下作戦を一任されたレスリー・グローヴス将軍は、
開発に4千億ドルもかかった爆縮型爆弾が広島の引き金型爆弾と
同等の効果があることを示したがっていた。
実際の戦闘で新兵器の実験を行うというのは別に特異な発想ではなく、
例えば、一部左翼にも敬愛されている山本五十六も海軍の戦闘機開発の予算を
増やすために、上海空爆を計画・実行し、戦闘機の威力をアピールしたことがある。
今、私はアピールという言葉を書いたが、
まさに近代の科学兵器はアピールと一対のものだった。
哲学者のレイ・チョウは、
「近代科学は表象のテクノロジーだった」と述べている。
非常に大雑把に説明すると、近代の科学は、
小難しい専門知識や理論を知らなくても、
その威力の凄さが大衆に伝わるようにすることが優先されてきた。
コンピュータ・ゲームを例にすれば、わかりやすいと思う。
YouTubeあたりで昔のゲームと今のゲームの映像を比較するだけで、
現在のコンピュータ言語の技術の発展を実感することができるだろう。
同様に、兵器もまた、継続的に生産・使用されるために
その威力が誰にでも伝わるようにすることが求められ、
開発者・軍人たちが特に視覚効果に訴えるよう気にかけるようになった。
ある兵器を実演することで、その兵器の存在意義をアピールするようになった。
ちょっと小難しい話になってしまったが、要するに、
軍がプルトニウム爆弾の威力を証明し、
予算を確保するために長崎にあの原子力爆弾が落とされたのである。
試すだけならまだ良い。長崎の原爆投下は他者に対するアピール、
つまり開発チームの有能さなり兵器の有効さなりを訴えるためのものであった。
プレゼンで報告者がパワーポイントで
いかに自分の主張が正しいのかを説明するあの作業と同じ感覚で
アメリカは日本に原子力爆弾を投下した。
この「誰が悪いか」がハッキリとわかるエピソードを前にして、
キノコ雲の写真や、皮膚がただれた群集の絵をイメージして欲しい。
実験やアピールのために爆弾を都市に落とす、
しかも効果が高いことを期待して落とすという
落とした側の非人間性、人を人とも思わない思想が
あれらの資料からは伝わってこないのである。
それらから伝わってくるのは、「原子爆弾」に対するマイナスイメージであり
「原子爆弾を落とした理由」に対するマイナスイメージではない。
私が、わざわざこのような細かいことを執拗に気にかけるのは、
現在の反核運動に多く見られる傾向が、
「原子爆弾を持つこと」に対する反射的な嫌悪感であり、
「原子爆弾をなぜ持つのか」に対するものになっていないからである。
以前、ある反核活動家に
「北朝鮮は、米韓の軍事演習の中止を条件に核保有の放棄を提案している。
逆に言えば、米韓の軍事演習が如何に北朝鮮に軍事的脅威を与えているのかということだ」
と述べたところ、お前は核兵器の保有を正当化するつもりなのかと言われたことがある。
それに対して私は
「アメリカの標的にされる国が核を持つのは自国が侵略される恐れがあるからだ。
実際、アメリカはベトナム、イラクと嘘の理由で他国の土地を荒らしたにも
関わらず、非難を受けただけで戦争犯罪で裁かれたことなど一度足りともない。
このようにアメリカやNATOが野放しになっている状況を変え、
北朝鮮が核兵器を持たなくても済むようにすることこそが、
核兵器廃絶のために最も近く、効果が見込まれる手段であるはずだ」と答えた。
「それは政府がすべきことだ!」という謎の回答で否定されたわけだが、
ある国が核兵器を持つには、それなりの理由があること、
その理由に正当性がある場合、持たざるを得なかった原因を解消すること、
つまり、NATOの中東・アフリカ・アジアに対する軍事干渉に抵抗することが
核の廃絶につながるという認識を持つことが大事なのだという意見は今も変わらない。
「誰が悪いのか」に深く言及しない反核は、結局のところ、
冒頭で安倍が述べたような軍拡を許す反核、
北朝鮮や中国、ロシアへの敵視を助長させる反核になってしまうだろう。
少なくとも、核を持った→許されない悪だ!という単純な認識は
核に反対した→この人は正義だ!という単純な認識と表裏一体のものである。
あのキッシンジャーやオバマが反核を唱えただけで好意的に評価されたことは、
反核というものが非常に使い勝手のいいアクセサリーであることを証明したものだと言えよう。
核廃絶を主張するオバマと核の使用準備を表明したプーチンとを対置すれば、
いかにアメリカがロシアに対して意地の悪い攻撃をしていようと、
いかにアメリカがウクライナを事実上の植民地にしていようと、
問答無用で前者が正義で後者が悪ということになってしまう。
実際、全体を見ずに核に対する発言だけを見て、
どちらが悪者かを決める反核・反戦団体は少なくない。
嘘だと思えば、「北朝鮮 反核」あるいは「プーチン 反核」とでも検索をかけると良い。
このような原理主義とでも言うべき人間や団体が、
いかに特定の国に対する軍事的・経済的干渉の正当化に貢献しているかを知るといい。
長々と書いたが、私たちは「核を持つことは悪いことだ」という単純なテーゼではなく、
「なぜこの国は核を持たなければならなかったのか」という疑問を持つべきだ。
それすら、今の日本の言論状況では
「それはロシアが悪だからじゃ!北朝鮮が独裁国家だからじゃ!」といった理解しか
されないようが気がするが、単純な正義ほど力強い軍拡へのエールはない。
知らず知らずのうちに右翼(というか安倍やオバマ)に都合が良い
アクションをとらないようにするために変わることが今、必要とされている。
そのことに変わりはあるまい。