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津市片田長谷町の近田山長谷寺(きんでんざん・ちょうこくじ)です。
今回は、長谷寺のいろいろな仏像を紹介します。
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本堂の内部です。「十一面観世音菩薩」と書かれた提灯が下がっています。
奈良の長谷寺(はせでら)をはじめとして、
全国に「長谷寺」という寺院があり、それぞれ十一面観音を本尊としています。
これは、奈良の長谷寺を模して、各地に「長谷寺」が建てられたからだそうです。
こちら津の長谷寺の十一面観音は、文武天皇の時代(大宝年間)、
徳道上人が身の丈二丈六尺(約7.9m)の十一面観世音菩薩三体を彫刻させ、
その内の一体を本尊として安置していました。
その十一面観世音菩薩は、当時でも日本有数の巨大な仏像でしたが、
天正年間織田信長の兵火により焼失し、その残骸が寺に残されているとのことです。
現在、本堂に安置されているのは、江戸時代に作られた観音像です。
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境内にあります、大事に屋根で囲われた巨石です。
説明書きが何もないので、よくわかりませんが、
お経を埋めた「納経塔」のようなものではないかと思います。
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境内より一段低い場所、参道の脇にある石像群です。
この石像は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、朝鮮半島から持ち帰られたもの、
だという言い伝えがあります。
確かに、
・石像の衣服が朝鮮半島風である。
・顔が細く顎が小さくて、日本の仏像の顔とは違う。
・石の色が、津市周辺の石仏とは違う。
というところから、
朝鮮半島で作られたもの(を日本に持ってきた)、というのは間違いないようです。
では、誰が、いつ頃、
これを半島から持ち帰ってきたか、ということですが、
その人物とは、藤堂高虎公であったようです。
詳細はこちらをご覧ください。
↓
朝鮮国と藤堂藩
朝鮮出兵の頃、藤堂高虎は、秀吉の弟・秀長に仕えていました。
秀長が死に、後継ぎの秀保も亡くなるという騒動があって、
直々に秀吉から、「とにかくこの戦いにはお前の力が必要だ」と説得されて
朝鮮出兵に加わりました。
藤堂高虎は、日本水軍の大将として活躍するも、
秀吉の死亡により、日本軍は朝鮮から引き揚げることになりました。
その撤退する将兵を運んだのも、高虎の水軍であったということです。
1598年11月25日、最後に残った日本軍が釜山浦を撤退して日本に帰国、
高虎がこれらの仏像を持ち帰ったのも、この頃のことでしょう。
しかし、高虎が徳川家康から伊賀・津を与えられて、
初代津藩主になるのは1608年のことですので、それまでは
これらの仏像も、前任地の伊予宇和島に置かれていたのでしょう。
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(境内にある、藤堂家ゆかりの地を示す「いしぶみ」)
で、宇和島から津へと運んだ仏像を、
長谷寺を復興した2代藩主・藤堂高次が、こちらに寄贈したということのようですが、
その経緯は不明です。
長谷寺(ちょうこくじ)
長谷寺参道の石階段