津市安濃町安濃、現在は阿由太神社となっている、標高50mほどの丘陵にあった安濃城は、
織田信長の伊勢侵攻に対して、最後まで戦った城です。
安濃城は室町時代の後期、長野工藤一族の細野藤光によって築かれました。
細野氏は長野工藤氏の分家であり、また有力な家臣でした。
安濃城を築くまでは、美里の長野神社の北に館を構え、
代々長野本家の家老のような立場であったと思われます。
安濃城を築いた藤光は、長野家14代当主の稙藤(たねふじ)の実弟で、
分家の細野氏の養子になっていました。
その安濃城の復元図が上の画像です。
室町時代の城郭としては、たいへん規模の大きなもので、
非常に複雑な構造であったようです。
永禄十一年(1568)、織田信長が北伊勢に侵攻を開始、
信長軍は、まず長野工藤氏の有力一族である安濃城の細野藤敦(藤光の長男)を攻めます。
藤敦は安濃城に籠り、信長軍の攻撃に頑強に提供します。
しかし、信長軍の侵攻に対して長野工藤一族の意見は、徹底抗戦派と和平派に分裂します。
徹底抗戦派が安濃城の藤敦、和平派は藤敦の実弟である分部光嘉・川北藤元らです。
(上の系図参照)
このとき、長野家の当主は、北畠氏から養子に迎えた具藤(16代当主)で、
具藤もまた徹底抗戦派でした。
藤敦と具藤をどうにかしないと、和平派の意見が通らないと考えた光嘉らは
「藤敦が信長と密通し、具藤の命を狙っている」という噂を流し、具藤に藤敦を討たせようとしました。
が、藤敦は逆に具藤を攻め、具藤は実家北畠氏の本拠地多芸に逃亡してしまいました。
具藤がいなくなった長野本家では、光嘉の目論見通り、
和平(信長への降伏)に傾き、信長の実弟・信包を養子に迎え、
雲林院、家所などの分家の城も次々に降伏しました。
が、藤敦の安濃城と草生氏の草生城は、抵抗を続けました。
信包もまた、信長に従って近江などを転戦したため、藤敦のことは後回しになっていたようですが、
天正八年(1580)、信包がついに安濃城への攻撃を再開します。
藤敦の2人の弟は戦死(系図にある守清と政寿か)、
藤敦は脱出して、後に豊臣秀吉の家臣となったものの、
関ヶ原の戦いに敗れて、不遇のままに死んでいったということです。
草生城の草生氏もまた、長野工藤一族の分家です。
細野氏の家臣ではないのですが、この時点では長野本家が消滅していたため、
細野氏に従って抗戦を続け、安濃城と同時に落城したということです。
この安濃の2城の戦いが、長野工藤一族の最後の抵抗でした。
細野藤敦、本家の代理で山城国に出兵する