美里町の探検日記GP

津市美里町(旧美里村)に住んでいるコレクターです。コレクション自慢(?)のほか、津のこと、美里のことも書いていきます。

安濃城 長野一族の最後の抵抗(津市安濃町)

2011-03-15 21:10:10 | 津のこと


津市安濃町安濃、現在は阿由太神社となっている、標高50mほどの丘陵にあった安濃城は、
織田信長の伊勢侵攻に対して、最後まで戦った城です。

安濃城は室町時代の後期、長野工藤一族の細野藤光によって築かれました。
細野氏は長野工藤氏の分家であり、また有力な家臣でした。
安濃城を築くまでは、美里の長野神社の北に館を構え、
代々長野本家の家老のような立場であったと思われます。

安濃城を築いた藤光は、長野家14代当主の稙藤(たねふじ)の実弟で、
分家の細野氏の養子になっていました。
その安濃城の復元図が上の画像です。
室町時代の城郭としては、たいへん規模の大きなもので、
非常に複雑な構造であったようです。



永禄十一年(1568)、織田信長が北伊勢に侵攻を開始、
信長軍は、まず長野工藤氏の有力一族である安濃城の細野藤敦(藤光の長男)を攻めます。
藤敦は安濃城に籠り、信長軍の攻撃に頑強に提供します。

しかし、信長軍の侵攻に対して長野工藤一族の意見は、徹底抗戦派と和平派に分裂します。
徹底抗戦派が安濃城の藤敦、和平派は藤敦の実弟である分部光嘉・川北藤元らです。
(上の系図参照)

このとき、長野家の当主は、北畠氏から養子に迎えた具藤(16代当主)で、
具藤もまた徹底抗戦派でした。
藤敦と具藤をどうにかしないと、和平派の意見が通らないと考えた光嘉らは
「藤敦が信長と密通し、具藤の命を狙っている」という噂を流し、具藤に藤敦を討たせようとしました。
が、藤敦は逆に具藤を攻め、具藤は実家北畠氏の本拠地多芸に逃亡してしまいました。

具藤がいなくなった長野本家では、光嘉の目論見通り、
和平(信長への降伏)に傾き、信長の実弟・信包を養子に迎え、
雲林院、家所などの分家の城も次々に降伏しました。

が、藤敦の安濃城と草生氏の草生城は、抵抗を続けました。
信包もまた、信長に従って近江などを転戦したため、藤敦のことは後回しになっていたようですが、
天正八年(1580)、信包がついに安濃城への攻撃を再開します。
藤敦の2人の弟は戦死(系図にある守清と政寿か)、
藤敦は脱出して、後に豊臣秀吉の家臣となったものの、
関ヶ原の戦いに敗れて、不遇のままに死んでいったということです。



草生城の草生氏もまた、長野工藤一族の分家です。
細野氏の家臣ではないのですが、この時点では長野本家が消滅していたため、
細野氏に従って抗戦を続け、安濃城と同時に落城したということです。

この安濃の2城の戦いが、長野工藤一族の最後の抵抗でした。

細野藤敦、本家の代理で山城国に出兵する
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ランチパック 桜もち風味(ヤマザキパン)

2011-03-15 11:15:17 | コンビニグルメ


ヤマザキパンのランチパックシリーズの新商品「桜もち風味」です。

ピンク色のマーブル模様のパンを使用しており、
見た目がとても鮮やかです。



ピンク色の羽二重餅風の餅がサンドされていました。
パンをふたつに割っても、中味の餅はよく伸びて、切れませんでした。
このピンクの色合いも、春らしくてきれいですね。

食べてみると、桜もちと同じような風味がしました。
が、
餅とパンは合いませんね。
パンのカサカサした感触と、餅のもちもちっとした感触がミスマッチのような気がします。

ランチパック 小倉&マーガリン(ヤマザキパン)
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