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(長徳寺)
長野御三家のうちのひとつ、雲林院氏の9代当主・雲林院祐基は
剣豪塚原卜伝に剣を学び、極意皆伝書をもらったといわれています。
「龍王桜伝説」で有名な芸濃町の長徳寺は、
曹洞宗の寺院で、雲林院氏の菩提寺だったとされています。
同寺には塚原卜伝の位牌があるとされ、卜伝と雲林院氏との繋がりがあったことを想像させます。
塚原卜伝は延徳元年(1490)十二月、常陸国塚原(茨城県鹿島郡鹿島町須賀)で生まれ、
諸国を巡った後、83歳(1573?)で亡くなっています。
伊勢国は1532年から1557年の間に2度訪れており、
2度目の旅では、伊勢国司・北畠具教に庇護されて美杉に住んだとされています。
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(美杉町の塚原卜伝屋敷跡にある説明板)
さて、卜伝の弟子だったという雲林院祐基は、
長野本家の15代当主・藤定の弟だとされています。
藤定が当主であった1558年に長野と北畠の講和が成立し、
北畠具教の次男・具藤を長野家の養子に迎えていますから、
祐基が卜伝に学んでいたのは、どう考えてもそれ(講和成立)以前のこととなります。
その頃は卜伝が美杉に住んでいたわけですから、
わざわざ敵方の美杉まで剣を習いに出かけて行ったとは思えません。
祐基と卜伝との接点が本当にあったのかどうか、よくわかりません。
(追記)
上記の「雲林院祐基は塚原卜伝に剣を学び、極意皆伝書をもらった」は、
芸濃町長徳寺に伝わる伝承です。
ところが実は、この伝承は誤りで、
雲林院一族の雲林院光秀という武士が、塚原卜伝より新当流を伝授された弟子でした。
そして、光秀の子、雲林院弥四郎光成は、
父から新当流兵法を伝授され、さらに柳生宗矩のもとで柳生新影流をも学んでいる。
後に熊本藩主細川忠利に召抱えられ、熊本に赴いている。
藩主細川忠利の御前で、光成と剣豪・宮本武蔵との試合が行われ、
宮本武蔵は57歳、光成は60歳、両者木刀を以て闘ったという。
このことは、武蔵の死後にまとめられた『二天記』に記されている。
そして、これが武蔵最後の決闘となったという。
雲林院弥四郎光成はその後、熊本藩の客分のまま、1669年9月、89歳で死去した。
戦国時代から江戸時代にかけての剣術家・疋田豊五郎景兼も
新当流雲林院松軒(光秀)に師事したことが知られています。
武蔵最後の決闘相手-伊勢の剣豪 雲林院光成