今日の記事は、1年前の終戦の日の前日にUPした記事である。
人間魚雷にシベリア抑留、風化させることの出来ない、辛くて悲
しい現実である。
散歩の途中、時々上杉家御廟所の直ぐ近くを通ることがある。 →
数日前の写真だが、10年前も30年前もほとんど変わらない。 →
終戦の日を前にして(1:戦争の悲劇 ) 2014-08-14 07:08:09 | 日記・エッセイ・コラム
毎年この時期になると、太平洋戦争の特集番組が放送される。今なお広島と長崎の原爆の悲劇は終わる事無く、原爆を知らない2世・3世の人たちも、体に原爆の傷を負い苦しめられている。
戦況が悪化し人間魚雷の製造に関わった91歳の人が重い口を開いた。今自分が生きている間に、どうしても伝えておきたいという、使命感からの行動だった。能登半島の珠洲市で市民を前に、戦争の悲劇を伝える姿がとても印象的だった。
2014年8月13日放送 5:00 - 6:30 NHK総合
NHKニュース おはよう日本 (リポート)
石川県珠洲で杭田忠三さんは戦争体験について語った。内容は人間魚雷「回天」携わった経験だった。杭打さんは戦争当時、広島の呉海軍工廠に見習いとして入り、訓練後に配属されたのは回天を運ぶ潜水艦の設計部門であった。金沢で会社を起こした杭田さんは当時の仲間が亡くなる中で回天について伝えようと考えたという。回天について思い出そうと石川県白川にいる、乗組員の三納寛のもとを訪れ話を伺った。そうして迎えた講演の日、杭田さんは回天について語り出した。
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シベリア抑留には多数の女性がいた事について、本人や姉妹のドキュメンタリーの番組もあった。筆舌を尽くし難いとしか、形容できない。二度と戦争は起こしてはならない、同じ不幸は2度と繰り返してはならないという、強い思いを戦争を知らない世代の人々に伝えておきたいと使命感から、辛い体験を話されていた。
シベリア抑留者の苦難の歴史を掘り起こす、全国抑留者補償協議会の戦後の歩みと活動の中で、斎藤六郎会長(山形県出身 故人)の果たした役割の大きさを仲間たちが語っていた[参加者の高齢化により、協議会の役割と意義について一定の成果があったとして、平成23年に解散した。]。
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