朝散歩していると、半袖・短パンでは肌寒くなった。今年の秋は訪れが早い様である。最高気温が25度以下、最低気温も15度以下と、きょうの天気予報は9月半ばから下旬並みである。
上杉家御廟所には歴代藩主の墓があり、300年以上前からゆっくりと時間が流れている。
戦後70年の年月も長いようで、まだ短いと言えるかもしれない。
昨年は、戦後70年の節目の年の1年前に当たっていた。今年以上に、昨年の8月に戦争に関わる記事をいろいろと書いた。
今振り返って見ても、その時に考えた想いは変わっていない事に気付かされた。
そこで、今回1年前の旧ブログからの移管記事(ocn→gooブログ)を再編集、再構成して数回に分けて再掲載することにした。
今回が、その最後の記事となった。
終戦の日を過ぎて(3:黙して語らぬ偉人 ) 2014-08-18 06:12:19 | テレビ番組
8月10日の夜、テレビ番組の「ありえへん∞世界」スペシャルで故「工藤俊作」氏の戦時中の話が取り上げられていた。本人は死ぬまで家族にさえ、敵兵の救出劇の事を話さなかったという。当時救出された英国人の自叙伝で明るみになり、日本の武士道精神を称えていたという。命の恩人の墓参りをどうしても生きている間にしたいと、日英の外務省の支援も受けて2008年12月、2度目の来日(当時89歳)でようやく実現できた。
日本海軍の軍人としてというよりは、一人の日本人として称賛に値する人物である。山形県人として、また母校の先輩としてもこの様な人がいたことを、大変誇りに思える。
番組終了後twitter上でも、若い世代の人達から感動のつぶやきが多く見られた。Web上で検索して出て来た中で、比較的自分にも共感できるブログがあったので、Wikipediaの記事の次に掲載することにした。
ただ、Web上ではブログなどで愛国者気取りの人たちが、取り上げていることが多かったのは残念なことだと思う。工藤艦長が黙して語らなかったのは、この様な事を危惧していたのかも知れない。
誇り高き日本人がいたことは事実だが、その他多くの日本人は、海外の戦場で戦争と言う名の下で、他国の人々の多くを苦しめた事実は消え去ることは出来ない。従軍慰安婦問題も同様であり、日本軍が強制的に連れて行ったか否かが、さも大きな問題として取り上げられがちだが、従軍慰安婦が存在した事実は消えない。
近隣諸国の多くの人々の声なき声に謙虚に耳を傾ける、器量の大きな政治家が活躍できる日本であって欲しい。
形容詞の使い方に違和感を感じる、積極的平和主義という言葉、自分だけだろうか?
※ 1枚目の写真は新潟県新発田市で、2枚目は福井県永平寺で
撮影したものである。
Wikipedia より +++++++++++++++
工藤 俊作(くどう しゅんさく、1901年(明治34年)1月7日 ? 1979年(昭和54年)1月12日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中佐。1942年3月、駆逐艦「雷(いかずち)」 艦長時、スラバヤ沖海戦で撃沈された英国艦船の漂流乗組員422名の救助を命じ実行させた人物である。
山形県東置賜郡屋代村(現高畠町)で、農家の工藤七郎兵衛、きんの次男として生まれる。山形県立米沢中学校を経て、1920年、海軍兵学校に入学(第51期)。1940年陸上勤務となり、海軍砲術学校教官、横須賀鎮守府軍法会議判士を務めた。同年11月、駆逐艦「雷」艦長となり太平洋戦争を迎えた。
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大津秀一 オフィシャルブログ(下記のURL)に詳細の記述があります。参考にして下さい。
見出し;昔はすごい人がいたもんだ 工藤俊作艦長の話
黙して語らなかった偉人 http://ameblo.jp/setakan/entry-11392943467.html