あなたの余命教えます
幸田真音
講談社
作者と私は同年生まれ、そして、小説の主人公も同年。ポスト団塊の世代、とでもいいましょうか。
還暦なんていう言葉はまったく無縁だと思っていたのに、いつしか60歳は目前。
五十六歳という年齢は、なんとなく中途半端な年代だ。
枯れてしまうには早すぎるが、リスクを取って何かを始めるにはあまりに先が限られている。
最近は何気なく年齢的な限界を口にするようになったが、実際にはそれも本当にそうなのだろうか。
先が限られているかどうか、どうして判断できるというのだ。
あと四年何事もなく過ごし、六十歳で定年になって会社を退職したとしても、その先八十歳まで生きるとしたら、後に続く二十年の歳月は決して短くない。
なんといっても、生まれたばかりの乳児が成人するまでに匹敵する歳月なのである。
「ええ、すべて被験者のご意向次第です。そして、最後になりますが、そうした条項をすべて加味し、総合的に算出された結果、受検者番号Oー208番さんの余命は・・・」
「私の余命は?」
「なんだって、三百五十三週間? ろ、六年と十ヶ月か・・・」
「いえ正確には、六年九ヶ月と二週間か・・・」
「そんな数え方なんか・・・・」
六年九ヶ月と二週間弱。
あとわずか七年足らずで、自分はこの世から消えてしまう。
こんな現実を突きつけられた今、自分はどんな顔をすればいいのだろう。
七年足らずの人生は、短いのか、それとも意外に長いというべきか。
泣いても笑っても、六十三歳の誕生日前に、自分はこの世から消え去るのだ。
それまでの間に、自分は何をしていき、何をできずに死んで行くのか。
五人の人間が余命告知を受けるのだが、皆一様にうろたえる。
余命を知って、計画的に人生を有意義に死ぬまで生きよう。なんて簡単なものではないのだろう。
昔、居酒屋で「あと何年生きるか分かれば、微々たる蓄えだけれど、均等割して使い切って死ねるな。だらだら長生きしたら、いくらかかるか分かったものでないし・・・」なんて酒の肴に話したことを思い出す。
幸田真音
講談社
作者と私は同年生まれ、そして、小説の主人公も同年。ポスト団塊の世代、とでもいいましょうか。
還暦なんていう言葉はまったく無縁だと思っていたのに、いつしか60歳は目前。
五十六歳という年齢は、なんとなく中途半端な年代だ。
枯れてしまうには早すぎるが、リスクを取って何かを始めるにはあまりに先が限られている。
最近は何気なく年齢的な限界を口にするようになったが、実際にはそれも本当にそうなのだろうか。
先が限られているかどうか、どうして判断できるというのだ。
あと四年何事もなく過ごし、六十歳で定年になって会社を退職したとしても、その先八十歳まで生きるとしたら、後に続く二十年の歳月は決して短くない。
なんといっても、生まれたばかりの乳児が成人するまでに匹敵する歳月なのである。
「ええ、すべて被験者のご意向次第です。そして、最後になりますが、そうした条項をすべて加味し、総合的に算出された結果、受検者番号Oー208番さんの余命は・・・」
「私の余命は?」
「なんだって、三百五十三週間? ろ、六年と十ヶ月か・・・」
「いえ正確には、六年九ヶ月と二週間か・・・」
「そんな数え方なんか・・・・」
六年九ヶ月と二週間弱。
あとわずか七年足らずで、自分はこの世から消えてしまう。
こんな現実を突きつけられた今、自分はどんな顔をすればいいのだろう。
七年足らずの人生は、短いのか、それとも意外に長いというべきか。
泣いても笑っても、六十三歳の誕生日前に、自分はこの世から消え去るのだ。
それまでの間に、自分は何をしていき、何をできずに死んで行くのか。
五人の人間が余命告知を受けるのだが、皆一様にうろたえる。
余命を知って、計画的に人生を有意義に死ぬまで生きよう。なんて簡単なものではないのだろう。
昔、居酒屋で「あと何年生きるか分かれば、微々たる蓄えだけれど、均等割して使い切って死ねるな。だらだら長生きしたら、いくらかかるか分かったものでないし・・・」なんて酒の肴に話したことを思い出す。