Imidas 連載コラム 2018/05/09
土俵問題と「女は華」問題
雨宮処凛 (作家、活動家)
「女性の方は土俵から降りてください」
2018年4月4日、京都府舞鶴市で開かれていた大相撲の春巡業会場に、耳を疑うアナウンスが流れた。多々見(たたみ)良三舞鶴市市長が土俵上で挨拶の途中に突然倒れ、救命処置に駆けつけた女性たちに浴びせられた言葉である。
人命よりも伝統やしきたりを優先する姿勢に非難が殺到し、日本相撲協会は謝罪。心臓マッサージをした女性たちへ感謝の言葉を述べたものの、その後、土俵に大量の塩がまかれたという報道も問題となった。これについては「病人が出たから」という説もあり、相撲協会の広報担当は「女性が上がったからまいたのではないと思う」と弁明しているが、女性=不浄というのは「女人禁制」にはつきもののイメージである。
その2日後、兵庫県宝塚市の中川智子市長が土俵上での挨拶を申し入れ、断られたことも大きく報じられた。
「女性ということで土俵の上で挨拶できないのは、悔しいです、つらいです」
中川市長がそう述べると、観客からは大きな拍手が起きた。
そのまた2日後には、静岡市で開催された大相撲春巡業の「ちびっこ相撲」で、小学生女児が土俵に上がることを「遠慮してほしい」と言われ、女児が上がれないという事態が発生。日本相撲協会は「安全面を考慮した」などと述べているが、昨年までは女児も土俵に上がれていたという。
人命救助のために尽力すれば「降りて」と言われて塩をまかれ、市長という立場でもそこに立ち入ることを許されず、子どもであっても上がることを拒否される――。たった数日の間に、「土俵のしきたり」という「女は決して越えられない壁」の破壊力を散々見せつけられ、もやもやした気分は大きくなるばかりだ。
しかも相撲の世界は、土俵は女人禁制だが、相撲部屋で献身的に働き、力士の世話をするのは女性である「おかみさん」だということは誰もが知っている。そして、それがどれほど大変な仕事かということも、多くの人が知っている。
下働きの多くは女に押し付ける一方で、神聖な土俵には女など入れないというしきたり。なんだかこれって、この国の「男社会」をそのまんま体現しているようではないか。
一方で、現代社会では多くの場で、ジェンダーバランスをとることが「いいこと」「進歩的なこと」「現代的なこと」とされている。女性議員の少なさについては、以前から一定数を女性と定めるクオータ制導入の必要性が叫ばれ(叫ばれてるだけでちっとも実現していないが)、企業なんかでも女性役員などを積極的にアピールすることがいいこと、という空気がある。
が、そのような「私たち、ちゃんとジェンダーバランスに配慮してますよ」という場においても、もやもやすることは起きる。
例えば私は作家・活動家という肩書きゆえ、イベントやシンポジウム、さまざまな種類の集会などに呼ばれるのだが、結構な頻度でもやもやに遭遇する。
それは大抵、複数が登壇するイベントなどで起きる。ゲストとして何人かの男性のあとに紹介され、なぜ、私をゲストとして呼んだのかを主催者や司会者が話す時。結構な確率で、「女だから呼んだ」という内容のことを言われるのだ。
そこにまったく悪気はない。貶めているわけでもまったくない。ただ、どんなに意識高い系のテーマのイベント・集会だとしても、この世はやはり男社会。パネリストやゲストにはどうしたって男性が多くなる。5人くらい登壇者がいる中で女は私一人、というケースも多々ある。
そんな中、主催側はおそらく「男性ばかりではなく、女性ゲストも呼ぼうと配慮した結果、この人を呼んだんですよ」「私たちはちゃんとジェンダーバランスについても考えているんですよ」ということを強調したいからこそ、女性である私を呼んだことをアピールするのだろう。
だけどそれって、「“女”という属性だけで呼んだ」ということである。別にこの人の活動や意見を評価しているわけでなく、「女の頭数」が必要だったので呼んだだけですよ――深読みしすぎかもしれないが、そんなふうに聞こえることもあって、ものすごく、もやもやしてしまう。
しかも場合によっては、そこに「華」という言葉が加わることもある。「おじさんばかりじゃ華がないから」という言い分だ。
が、そんなことを言われるたびに、思う。賑やかし要員のために呼ばれるほど暇じゃないんだけど、と。なぜなら「華」という言葉で私がまず連想するのは、テレビ番組なんかでゲストの後ろにずらりと並ぶ若い女性たちなどの光景だからだ。
画面に映りはするものの、一切発言の機会を与えられず、拍手と笑顔だけを求められるという謎の存在。そんな光景を見るたびにやっぱりもやもやするのだが、私が「華」とか「女だから呼んだ」的なことを言われるのは、ステージに上がった瞬間。出端をくじかれつつ、みんなの前でバカにされているような気分もこみ上げる。
これって考えすぎ? 被害妄想? と思っていたのだが、ある時「あんな言い方失礼すぎる! 雨宮さん、怒ったほうがいいよ! 私も客席から怒ろうかと思ったもん!」と言ってくれる知人の女性がいた。
あ、このもやもやって、私だけじゃなかったんだ。違和感を持っていいことだったんだ。そう思うと、心の底から安堵して、思わず泣きそうになった。
「え、そんなことで?」と思う人もいるかもしれない。だけどあなたが男性の場合、想像してみてほしい。イベントなんかにゲストとして呼ばれて登壇した瞬間、「女ばかりだとよくないと思って男だから呼んだ」と紹介されたら?
もちろん、「男だから」という理由だけで呼ばれたわけじゃないことはわかってる。でも、決していい気はしないだろう。そして多くの女性は、もうずーっとそのせりふを言われ続けているのである。私自身は、デビュー以来18年間、言われ続けている。最近は言われなくなったが、30代前半くらいまでは「若い女だから呼んだ」というバージョンもあった。
なんだかさらに露骨である。だけど、「華」や「若い女」などと言う人には本気で悪気がなさそうで、「喜ばなくてはいけないのでは?」なんて思っていたのだが、やっぱりその言葉はちっとも嬉しくなんかないのだった。
さて、そんなイベントが終わった後、だめ押しのようにさらにもやもやすることがごくたまに起きる。例えば、私はいじめや生きづらさについての自らの経験を書いていることからそのようなテーマのイベントに呼ばれることも多いのだが、終了後、来ていた人に「励まされる」ことが時々あるのだ。私が子どもの頃いじめられ、それからリストカットを繰り返したなどの話を聞いたからなのだろう。
「そういうことを乗り越えてきたから今があるんだね、頑張って」などだったら非常にありがたい。しかし、数年前のある日、話を聞いていたオジサンは私に言った。
「大丈夫! いろいろあったけど、雨宮さんのような人こそいいお母さんになれるから、大丈夫!」
は? 思わず露骨に顔に出すと、「だから絶対、いいお母さんになれるから!」と私の背中をバンバンと叩き、満足そうな顔で立ち去った。
……なぜ、この人は、私が「お母さんになる」ことを勝手に前提にしているのだろう?
そんなことは、プライベートのお酒の席なんかでもある。少し前も、大人数での会食の場で、よく知らないオッサンに結婚してるのかとか彼氏はいるのかとか、プライベートに土足で踏み込むような質問を連発され、答える必要など微塵もないので答えずにいたら、「大丈夫! いつかいい人現れるから! ちゃんといいお母さんになれるから大丈夫!」とまたしても謎の励ましにあった。
なぜ、一部のオジサンは、女が全員「結婚して子どもを産むこと」を望んでいると思い込んでいるのだろう? そしてなぜ、女の最終形態が「母」だと強固に信じているのだろう?
しかし、この手のことをやってくるのは男性だけではない。少し前も、知り合いに連れていかれた飲み会(全員初対面)で、たまたま近くにいた女性は、私が単身・子なしだと知るやいなや「子どもだけは産んどいたほうがいい」ということを力説し始めた。
は? 初対面の女つかまえて何言ってんのこの人、と思ったものの、その女性はいかに出産や子育てが素晴らしいものかを語り続け、「だから絶対、結婚なんかしなくても子どもだけは産んでおいたほうがいい」と繰り返したのだった。げんなりしたものの、この手の「女からの悪気なきセクハラ」はよくある話でもある。
私自身、別に積極的に「絶対一人で生きていく」と決めているわけでもないし、「子どもはいらない」と思っていたわけでもなんでもない。ただ、気がついたら独り身の子なし40代だっただけである。
高卒後、浪人生活を経てフリーターとなり、25歳で物書きとしてデビューし、出版不況が深刻化する中、とにかく仕事を切らさないよう、働いてきた。毎年1冊は本を出すことを自分に課し、18年間、なんとかそれを続けてきた。もちろん、それは多くの人の助けがあってこそのことなのだが、「いいお母さんになれるよ」とか「子どもだけは産んだほうがいい」とかの言葉たちは、そんな私の紆余曲折をあっさりとなかったことにするような、暴力的なほどの無神経さに満ちているのだ。
一方で、私の周りには様々な理由から「子どもはつくらない」と決めている人もいるし、経済的な理由から諦めたという人もいる。不妊治療を続けている人もいるし、パートナーの不在という問題を抱えている人もいる。
こうしてちょっと書き出しただけでも、この問題の周りは見渡す限り地雷原なのだ。他人が軽い気持ちで口を出していい問題ではない。
それにしても、ハマチがメジロになり、ブリになるという「出世魚」的な自然現象のように「母」になることを決めつけられ、時に「華」とか言われながらも同時に「不浄」な存在であり、それでいながら男社会の底辺で下働きを求められる、女という存在。一方で「土俵」には上げないのに、「男の品定め」のためのリングにはいつも勝手に上げられている。
それがこの国のごく当たり前の光景だと思うと、生きづらくて当たり前だよな、という気持ちが込み上げてくるのだった。