国が司法と組んで「黙らせる」狡猾手口
古賀茂明 政官財の罪と罰
AERAdot 2023/09/12
沖縄県名護市辺野古の米軍新基地建設に関連する訴訟で、最高裁が沖縄県の上告を退けた。
防衛省の基地設計の変更申請を沖縄県が不承認としたことに対して、国土交通相が県に承認するよう是正指示を出した。県がその取り消しを求めた訴訟で敗訴が決まったのだ。
これにより、沖縄県は、「法的には」、設計変更を承認するしかなくなった。
辺野古の埋め立てについては、県は絶対反対の立場で一貫し、沖縄県民も住民投票における7割の多数で反対の民意を示したほか、累次の選挙で基地反対派の議員を当選させてきた。
元々、沖縄ばかりに基地の負担が押し付けられている上に、普天間飛行場移設に名を借りた巨大な新基地建設でさらに負担の上乗せだ。どう考えても不公平ではないか。県民の反対は当然のことである。
工事は当初試算した3500億円を超過する4312億円を支出しても、まだ埋め立ての14%程度しか終わっていない(2022年度末時点)。予想外の軟弱地盤の存在が判明し、工事見積額は9300億円と当初の2.7倍弱に膨れ上がっているがそれでも足りなくなるのは必至だ。そもそも軟弱地盤の工事自体無理だという見方のほうが強い。
さらに、ドローンやミサイルが主力になる今日の戦争で、海兵隊を沖縄に置くことはかえってリスクを高めるとの米軍関係者の声もあり、26年も前に構想された辺野古基地建設は、もはや完全に陳腐化している。
それにもかかわらず、この計画がなお推し進められる背景には、沖縄に対する自民党政権の「差別」があるからだということを指摘したい。
実は、特定の地域のみに適用される法律を作る際には、憲法95条で「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない」と定められている。
これは、「法律を作る」場合に限定されているが、一つの県だけに異常な数の基地を押し付ける場合なら、それ以上にその県の住民の同意が必要だと考えるべきではないだろうか。少なくとも、憲法95条の趣旨に鑑み、県民投票による承認を求めるべきだ。もちろん、県民投票を改めて行えば、反対多数で基地建設は葬り去られるだろう。
ところが、自民党政権にはそんな考え方のかけらもない。そして、今回、最高裁は、県の主張を聞く機会さえ持たないまま、門前払いで上告棄却の判決を下した。
最高裁が最終判断を下したので、法的には、県知事は計画変更の申請を承認せざるを得なくなった。しかし、それは、沖縄県民の意思を踏みにじる決定だ。これが民主主義と言えるだろうか。
最高裁は、常に正しいかというと、そんなことはない。冤罪にいくつも加担してきたし、先の福島第一原発事故の裁判では、国に責任なしという驚くべき判決も出している。誰が見ても間違った判断だ。
最高裁は、国の重要な政策について、国の主張が間違っている場合でも必ず政府の側についてきた。最高裁は、そういう機関なのだ。
県知事は、計画変更の承認を拒否し続けるべきだ。最高裁の決定に従わないのは、民主主義の否定だとか、憲法無視の行為だとか批判されるだろう。しかし、知事は県民に選ばれた代表だ。県民の声を正面から否定する司法に従うことは、法形式上は正しくても、政治的には正しい行動だとは言えない。
もし、これが欧米であれば、市民が立ち上がって大規模なデモに発展し、暴動にまでエスカレートするだろう。そのような大規模デモで社会に混乱が起きれば、それを受けて議会で議論が始まり、あるいはその前に政府は態度を変えるなど、なんらかの形で民意を汲もうとするのが普通だ。
しかし、日本では、市民があまりにもおとなしい。特に最近はほとんど大きなデモは起きなくなった。そして、政府は、デモなどの民意を表す行動に非常に冷淡、というより敵対的だ。
このような態度は、自民党政権固有の特徴ではあるが、特に、安倍晋三政権の時からよりあからさまになってきた。
しかも、そこには、市民の声を無視することに関する確固たる哲学があるように思える。それを4つの柱にまとめてみた。
第一に、「市民、国民は馬鹿だ」という哲学だ。その前提として政府は間違いを犯さないという「無謬性」の考え方がある。特に、官僚にはこの考えが根強い。自分たちが一番優秀だ。自分たちが徹夜で考えた方針に間違いがあるはずがない。市民が一時の感情に流されて要求することなど間違っているに決まっている。いちいち取り合う必要は全くないと考える。
第二は、「最後は金目でしょ」という哲学。福島の中間貯蔵施設に関連してつい本音を漏らして大顰蹙を買った石原伸晃元環境相の言葉だ。「理不尽な要求の裏にはたかりの構造がある。だから金さえ出せば、解決するはずだ。逆に金を出さないぞと脅せば、最後は折れてくる」と考える。
第三は、「既成事実を作れば勝ち」という哲学だ。辺野古基地新設工事をどんなに反対が強くても構わず進めてしまえば、もう後戻りはできないと県民が諦めるということだ。原発でも同じ考え方でやってきた。
第四は、「希望を与えるな」という哲学である。住民運動によって何かが変わるのではと希望を持たせてはいけない。どんなに小さな譲歩もだめだ。少しでも結果を得られたと思えば、「自分たちの力で何かができる」という「勘違い」が広がり、運動を勢いづかせてしまう。だから一切妥協せず、「何をやっても無駄だ」という徒労感を与える。それによって住民を諦めさせる。そこまで持ってくれば政府自民党の勝ちということになるのだ。
このような哲学は、安倍政権の時に確立し、岸田文雄首相もそのままこれを受け継いでいるように見える。
このような考え方で臨んでくる岸田政権に対して、我々は、どう対峙すれば良いのだろうか。
まず、国民は馬鹿だという第一の哲学に対しては、基地の現状や今日に至るまでの経緯、基地がないほうが経済が良くなるというデータの提示などでかなりの程度、沖縄県民の言っていることのほうが正しいという理解が進んでいるように見える。辺野古基地建設が不可能なこと、海兵隊の必要性に変化が出てきたことなどについては、さらなるPRが必要かもしれない。
次に、最後は金目でしょという考えには、歯を食いしばって、補助金と基地建設のリンクを切り離すように頑張ることが必要だ。さらに重要なのは、沖縄の経済的自立を目指すことが、政府のこの哲学を無力化することにつながる。県の経済産業政策が実は非常に大事だということだ。
第三の既成事実化については、とにかくいかなる手段を使っても工事を止めるということが大事だ。それは知事の働きに頼る部分が大きいが、その知事を県民がサポートすることも非常に重要だ。
第四の希望を与えないということに対しては、逆に、県民が希望を捨てないということで対抗する。小さなことでも成果につながることはないかを考えてみることも必要だろう。
当面は玉城デニー知事の行動が非常に重要になる。
牢屋に入る覚悟でできることはなんでもやるべきだ。
例えば、県が発注する工事において、辺野古基地建設を請け負っている工事業者は指名停止にするとか、米軍に対する県の水道の水供給を止めるとかを知事に義務付ける条例の制定を議会に求めてはどうか。条例ができれば、知事はそれに従う義務がある。それが法律や憲法に反するという議論は出るだろうが、それも全て最高裁まで争えば良い。
繰り返しそれを続ければ、防衛省もその都度法的な対応を続ける必要があり、それによって工事の進捗を遅らせることができる。
少し残念なのは、沖縄でも本土でも大きなデモが起きないことだ。これでは玉城知事が可哀想。一人で闘っているように見えてしまう。
これほど基地を沖縄に押し付け、さらに新基地を造る。県民投票や選挙で反対の意思を示しているのにそれを無視する。
こんなことが東京や大阪でできるだろうか?
絶対にできないはずだ。
つまり、これは沖縄県民に対する差別と言って良い。前述の通り、憲法95条の精神にも真っ向から反する。
政府が行っているのは、沖縄県民の「尊厳を踏みにじる行為」だ。日本が過去の植民地支配で、朝鮮・中国の人々に対して行ったことに似ている。そこから生まれる負の感情は決して消えない。
沖縄に対して、ここまで酷い仕打ちをしているのだから、普通なら独立闘争が始まってもおかしくない。しかし、沖縄の人々は忍耐強く、元来、争うことが嫌いな民族なのだ。なんとか友好的に本土の政府と折り合いをつけられないかと努力し、あるいは多くの場合我慢してきた。
しかし、そんな沖縄県民の善意を逆手に取った自民党政権の哲学は見事なほどに効果をあげている。
既成事実の積み重ね、いかなる反対運動も踏み潰して成果を出させない、金をばら撒いて一部の住民を黙らせる。それらが続くことにより、抵抗疲れが生まれ、あるいは住民間に分断が生まれて反対の力が弱くなる。
やがて、「まだ反対しているのか」という空気が漂い始めるのを岸田政権は待っている。
だが、私たちは、決して諦めてはいけない。辺野古基地建設は必ず失敗に終わる。それが見えてくるのは時間の問題だ。
その時まで、県民が反対の立場を守り、本土の市民がこれを応援する。そして、経済的自立の道を歩む。それによって、基地新設を頓挫させる日が必ず来ると私は確信している。
わたしも出来る限りの応援をしていくつもりだ。
あきらめない!
以下ビデオ注目です。
正力松太郎と重なった。
読売新聞、日テレ、ジャイアンツ、CIA。
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