里の家ファーム

無農薬・無化学肥料・不耕起の甘いミニトマトがメインです。
園地を開放しております。
自然の中に身を置いてみませんか?

東北ミニ旅行

2018年11月16日 | 旅行

昨夜遅く、無事戻りました。


12日22時出発。
翌朝、5時函館着。まだフェリーの時間まで余裕があるので温泉へ。

函館山を望む。9:30出港。

天気良好。波もほとんどなく、揺れるようなこともなかった。

11:00大間着。

高い、高い。
こんな高い昼定食を食べたの初めて。
一頭1憶5千万円に騙されてる。
まぁ、2度と来ることもないだろうと、大奮発。
さすがにうまかった。

ひたすら盛岡を目指す。

暗くなりかけて、岩手山が見えてきた。

夜は、盛岡の友人とここで夕飯。

翌朝、市内を散策。
9時弘前に向けて細い山道の一般道へ。
途中、秋田県に入り、「きりたんぽ」発祥の地、鹿角。
昼飯代わりにみそ付けたんぽ。

昼過ぎ、弘前着。

構内を歩き回り、下宿のおばさんにごあいさつ。
土手町など散策。
夕方青森市へ向かう。
10人ほどが集まってくれ宴会。
楽しいひと時を過ごすことができた。

翌朝、10時青森を出港。

すいていて、この部屋に3人だけ。
今回の旅行、初めてフェリーを使った車での旅行でした。
というのは、「新幹線」がべらぼうに高い。
暗闇の海底トンネルを走るより明るい海がいい。
ということでした。
普通車5人まで、軽はも少し安く4人まで。
また「青函連絡船」を味わえるいい旅になりました。

函館着13:40.
おいしいケーキとコーヒーを。


END


ユダヤ人権団体、BTSに謝罪要求 

2018年11月12日 | 社会・経済

BTS ナチス帽着用、ナチス想起の旗の過去も 米ユダヤ系団体が非難

   デイリースポーツ/神戸新聞社 2018/11/12

 

 米有力ユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」は11日、原爆投下のきのこ雲がプリントされたTシャツを着用していたことで、日本のテレビ出演が中止になった韓国の人気男性グループ「BTS(防弾少年団)」が過去に、ナチス親衛隊(SS)の記章をあしらった帽子をかぶったり、コンサートでナチスの鉤十字に似た旗を掲げたりしていたとして非難した。同団体の公式サイトでコメントなどが掲載されている。

 同センターのエイブラハム・クーパー副所長は「原爆被害者をあざけるTシャツを着ることは、過去をあざけるこのグループの最新の“事件(出来事)”にすぎない」と指摘。「国連での講演に招かれたこのグループは、日本の人々とナチズムの犠牲者、被害者たちに謝罪する義務を負っていることは言うまでもない」とした。

 さらに「それだけでは不十分だ」として、「このグループのキャリアを作り、宣伝している者は、あまりにも簡単に過去の記憶を傷つけている。このグループの経営陣も公に謝罪すべきだ」とBTSの所属会社にも公式な謝罪を求めた。

 同団体は16年10月には、欅坂46がコンサートで着た衣装が、ナチス・ドイツの軍服に酷似していたとして、公式サイトで「嫌悪感」を表明。「不適切で非常に侮辱的な表現」と批判し、総合プロデューサーの秋元康氏らに謝罪を要求。所属レコード会社が公式に謝罪する事態となった。

また、11年春にも、氣志團がナチス親衛隊の制服に似た衣装でテレビに出演したとして、謝罪を要求。所属事務所が公式に謝罪した。

 

朝日新聞デジタル

さらに、「韓国や世界の若い世代が偏狭さや不寛容さを『クール』であると認識する恐れがある」としてBTSが公式に謝罪することを求めた。(高田正幸)


 

週間天気

 

2018年11月12日 15時00分発表

 

日付
11月14日
(水)
11月15日
(木)
11月16日
(金)
11月17日
()
11月18日
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11月19日
(月)
天気 曇一時雪
曇一時雪
曇時々晴
曇時々晴
曇時々雨
曇時々雨
曇一時雨
曇一時雨
曇り
曇り
曇一時雪
曇一時雪
気温(℃) 7
-1
8
-3
10
1
6
-3
4
-3
5
-2
 

 ぎょぎょ!
ついに雪マークがついた。
さらに氷点下へ。

今朝見たときは傘マークばかりで気温も氷点下にはなっていなかったのだが、いっぺんに変わってしまった。

今日夜中いよいよ出発だが、曇りでそれほど気温も低くはないようで中山峠は大丈夫のようだ。
夕食後、少し仮眠してから出かけます。


ひきこもり、 高年齢・長期化

2018年11月11日 | うつ・ひきこもり

ひきこもり、孤立を防ごう 高年齢・長期化で家族会が議論

道新 11/10

  NPO法人「KHJ全国ひきこもり家族会連合会」(本部・東京)が10日、広島市で全国大会を開き、地域での孤立を防ぐための方策を議論した。同連合会の2017年度調査でひきこもりの人の平均年齢は34・4歳、家族は64・5歳。親が高齢になると病気や介護、経済的困窮が重なり、福祉の現場では親が80代、子が50代のケースを「8050問題」として、支援が急務になっている。

 横浜市では今月、自宅で死亡した母親(76)の遺体を放置したとして、同居の息子(49)が逮捕された。警察によると長年ひきこもり、他人と会話がほとんどできず、取り調べに筆談で応じているという。

 ひきこもりの取材を続けているジャーナリストの池上正樹氏は基調講演で、息子の妹が「市の支援対象は39歳までだったので諦めた」と明かしていることを紹介。「これまでは若者、思春期の問題とされ、就労一辺倒の支援も現実に合っていなかった。8050の予備軍は多い」と警鐘を鳴らした。

 地域支援の在り方を研究している川北稔愛知教育大准教授は「単身高齢者に比べ、親と子が同居しているケースは地域の見守り対象になりにくい」と指摘。家族会や行政が連携し、息の長い取り組みが必要だと述べた。


 今日はほぼ一日中雨。濡れながらもなんとか下2本の直感パイプを降ろした。

明日夜から盛岡まで行ってきます。4.5日更新しませんのでよろしく、です。


手軽で便利なライフスタイルの象徴だった使い捨てアイテムだが、今や無駄の多い社会の象徴となった。

2018年11月10日 | 社会・経済

 

“今年の単語”は「使い捨て」 便利なライフスタイルの象徴だったプラスチック商品はいま

今や無駄の多い社会の象徴となった。

 

イギリスのコリンズ英語辞典は11月7日、2018年を象徴する「今年の単語」に、「single-use(『使い捨て』の意味)」を選んだと発表した。

「使い捨て」とは、使った後、修理・補給などをしないで捨ててしまうこと。また、そのように作られたもの。一般的に、一度使用したら廃棄することを見込んで作られたプラスチック製品などを意味する。

ストローやボトル、袋など、かつては手軽で便利なライフスタイルの象徴だった使い捨てアイテムだが、今や無駄の多い社会の象徴となった。

海上を漂うプラスチックごみが海洋生物に悪影響を与えているとされる問題は、使い捨てプラスチックの使用削減を目指す世界的なキャンペーンにつながった。

コリンズの調査によると「使い捨て」の使用回数は2013年に比べて4倍に増えている。BBCの「ブループラネットII」など、この問題を取り上げるテレビ番組なども増えているという。

「今年の単語」は、2017年は「fake news(フェイクニュース)」、2016年は「Brexit(ブレグジット)」が選ばれている。


 今年は暖かい。例年の11月だと北風が時たま雪を伴って吹き荒れる。ジャンバーを着込んで鼻水をすすりながらの仕事だ。今日は雨の時間が多かった。

 天ビも腰ビも降ろしたので、これで一安心。


日本に逃れてきた難民の人権を守れ!

2018年11月09日 | 社会・経済

難民は犯罪者ではない、施設に長期間収容していいのか?

樫田秀樹  (ジャーナリスト)

  imidas時事オピニオン2018/11/09

 

   ここは刑務所以下です。刑務所なら何年収監されるか予めわかりますが、ここではそれが一切わかりません。私は何か悪いことをしたのでしょうか。ただ難民認定申請をしただけなんですよ」――もう2年11カ月も収容されているイラン人のMさんのアクリル板の向こうから訴える声は悲痛だ。

   今年(2018年)10月3日、私は茨城県牛久市にある法務省の「東日本入国管理センター」を訪れ、長期にわたって収容されている数人の外国人にアクリル板越しの取材をした。

 

日本へ難民認定を申請した人の置かれた状況とは

 日本にはこのような難民申請中の人や在留資格のない人などを収容する施設が、牛久のほかに長崎県大村市に大村入国管理センターがあるほか、短期に収容する施設は15カ所(入国管理局8カ所とその支局7カ所)ある。

  ここ東日本入国管理センターには、不法滞在とされる342人の外国人男性が収容され、うち難民認定申請者は242人(2018年2月26日時点)。そのほとんどが年単位で収容され、いつ放免されるかはまったくわからない状態に置かれている.

 Mさんはイラン人。母国で反政府運動をしていたが、自分の身に危険が迫っている情報を得ると、すぐにヨーロッパへ逃げた。そこで落ち着き先を考えたときに思い浮かんだのが「日本」だった。

 「中東ではいつも戦争や内紛、弾圧があります。私にとって日本は、安全で、戦争をしていない国というとてもいいイメージを持っていました」

  渡航資金を工面し、日本の観光ビザを得ると成田空港まで飛んだ。Mさんは成田空港での入国手続き時に正直に「難民申請をしたい」と訴えた。すると、入国管理局は、観光目的ではなかったとして観光ビザを取り消し、Mさんは「在留資格」を失った。ただし、本人が「難民です」と言っている以上は強制退去させるわけにもいかず、本当に難民かを判断するまでの間ということで、Mさんを即、牛久の東日本入国管理センターに送った。

  難民申請者を強制退去させられないわけを、難民支援協会(東京都千代田区)広報部チームリーダーの野津美由紀さんに取材した。日本も加入している、難民の保護を目的とした国際条約である「難民条約」(難民の地位に関する条約)で、締約国は、ひとたび受け入れた難民認定申請者を迫害の恐れのある国へ移すことができないとしているからだ。

 Mさんはここで1年2カ月を過ごす。

   その後、入国管理局は、Mさんを難民とは認めなかったが、日本国内で保証人と住所とが決まったことで、Mさんを「仮放免」した。

   日本では、不法滞在をしている外国人には、母国に帰国するまでの収容が原則となっている。だが、体調悪化や収容長期化などの情状を酌量し、保証人と保証金が用意できれば、暫定的に収容を解かれることがある。これが仮放免だ。

  だが、これはこれできつい。仮放免者は「就労が許可されない」し、「健康保険に入ることもできない」し、「居住する都道府県外への移動は事前申請が必要」だ。さらに、仮放免された人に子どもがいた場合、その子どもも「仮放免」での滞在と見なされ、通学はできても、将来、就職ができないという問題にぶつかる。

  人間、働かずには食べていけない。

  だからMさんはプラスチック生成工場でこっそりと働いた。しかしばれた。Mさんは再収容され、今、2回目の収容は2年11カ月にもなっている(2018年10月3日時点)。

   再びの仮放免はいつか? 入管の職員からもその類の情報はまったく入らないという。人生の先がまったく見えないことにMさんは希望を失いかけている。

  Mさんの話によれば、Mさんの恋人は、2014年にイランから逃げて渡米して難民申請をした。すると、その数カ月後には難民認定され自由な人間として生きている。Mさんは恋人に所内の公衆電話を利用して週に1、2度電話をするが、恋人は、犯罪を犯したわけでもないのにMさんが囚われの身となっていることをただ悲しんでいるという。逃げた国が違うだけで、恋人とはあまりに違う境遇。

 「日本は本当に難民にやさしい国だと思っていた。こんな扱いを受けるなら第三国に行きたいです。でも、その前にこの外に出たい。それがいつになるかまったくわからないんです」

 世界と比べ極めて壁が高い日本の難民認定

「正直者が馬鹿を見ます」

  こう語るのは前出の難民支援協会の野津さんだ。

   難民支援協会は1999年に設立以来、一貫して、来日直後に困窮状態に置かれている難民申請者の生活相談やシェルター(宿泊施設)の提供、医療支援、難民認定のための法的支援、そして日本の地域社会の一員として過ごせるよう自立を目指した就労支援やコミュニティー支援を展開している。2017年度は72カ国の人々に対して1349件の法的カウンセリングを実施し、19名への難民認定、1名への「人道配慮による在留特別許可」を得ることができた。

  「人道配慮による在留特別許可」とは、難民認定がされない場合でも、法務大臣の判断で、特別に滞在が許可される場合がある。最近の事例では、シリア出身の人々の多くが、本国の情勢が危ないことから、難民として認定されなかったものの人道配慮による在留特別許可をもらった事例がある。2017年で45人が認められた。

難民支援協会も牛久での面会を実施しているが、野津さんは日本の難民認定は極めて壁が高いと訴える。

   「観光ビザでそのまま入国し、在留資格の期限が切れる前に難民申請した人なら、「特定活動」という在留資格に切り替わり、認定されるかどうかの結果が出るまでは日本に滞在が許可されます。その間に私たちも含め支援する人とつながる可能性はある。でも空港で難民申請をしたいと申告し、そのまま入国管理センターに移送される人たちは、日本に知人がいないまま、日本語も話せず収容されてしまいます。そのため、仮放免のために必要な保証人や保証金を工面する上で極めて厳しい状況に置かれています」

 世界ではここ数年で多数のシリア難民やロヒンギャ難民などが発生。ヨーロッパでは、各国が数万人規模のシリア難民を受け入れた。だが日本では、2017年の難民認定申請者1万9628人に対して認定したのはわずかに20人(法務省入国管理局)。ほとんどの申請者は難民と認められず、人道配慮による在留特別許可を得た45人をのぞいて在留資格を失い、強制送還の対象となります。さらに難民申請の結果が出るまでに平均2年半、長い場合で10年近くかかるという。

 私はこの数に違和感を抱く。というのは、1970年代末、日本は、ベトナム、ラオス、カンボジアからのインドシナ難民を約1万1000人も受け入れた過去があるからだ。なぜ今難民を受け入れないのか。野津さんはこう説明する。

「インドシナ難民は日本政府も外圧で受け入れを決め、批判されない程度の人数を受け入れたんです。同時に、1981年、日本は『国連難民条約』を批准しましたが、問題は、インドシナ難民以降に難民をどう受け入れるかの方針を決めてこなかったことです。ただ、『偽難民を排除する』ことに力を割いているのが現状です。つまり、難民保護よりも管理を優先しています」

  その管理の象徴が入国管理センターだ。

国際的な条約として日本も批准した「国連難民条約」は、難民の保護や待遇などに関して取り決めたもので、1951年に採択され54年に発効した「難民の地位に関する条約」と、1967年に採択された「難民の地位に関する議定書」のことだ。日本は批准後の1982年に「出入国管理及び難民認定法」が成立しているが、難民を管理するという姿勢が強いものだ。

   前出のMさんも含め、難民はとにかく命を守るために生活基盤のあった地域や国から「逃げる」ことを優先する。その際、安全で、子どもがまっとうな教育を受けられる先進国へと願うのは当然であり、過去70年以上戦争をしていない日本に憧れる人は多い。だが、その日本でまさか長期間収容されるとは誰も想像していない。

 入国管理センターではどのような収容生活をしているのか?

   スリランカ人のPさんには、働いている日本人妻がいる。つまり、住所も保証人も有するのに、仮放免されないことが理解できない。

   Pさんはスリランカで反政府運動をしていたが、友人が何者かに殺されたことに危機感を覚え、2008年1月17日に来日した。生きるためにアルバイトをしていたが、2010年3月24日、オーバーステイがばれて入管に身柄を拘束された。仮放免されたのは2年半後の12年9月13日。その翌年に日本人女性と結婚する。

   その後、数カ月おきに仮放免を更新してきたが、17年10月の更新手続きの際、更新が認められずに即、東京都港区の東京入国管理局に収容される。Pさんはここで2回の仮放免申請をするが認められず、今年3月28日に牛久に移送された。ここでも2回の仮放免申請をするが、やはり理由を開示されずに仮放免は認められない。

 「もうストレスです」

  Pさんはくたびれている。「見てください」と頭を下げた。頭頂部に頭髪がない。

 「ここでは毎日同じ生活です。おなかが減るから食べるだけで、食事らしい食事とは言えません。ビールだって飲めません。いつ出られるのかもわからない不安で夜も寝られない。髪も抜けるし、ここでは私、動物よりも下の扱いです。なぜ仮放免が認められないのか、その理由すらもわかりません」

   Pさんはこれまでに3年半を被収容者として過ごしている。この失われた3年半を取り戻すことは誰にもできない。

「仮放免は簡単には出してもらえません」

   こう断言するのは、この入国管理センターに2年8カ月もの長期にわたって収容されていた韓国人の金毅中(キム・イジュン)さんだ。現在、仮放免中の金さんは同じような苦しみを味わう仲間を支援するために毎週のように面会行動を実施している。金さんはこう証言する。

 「私が収容されていたのは2010年頃ですが、当時は仮放免申請の結果が出るのはだいたい60日後が多かった。でも、今では75日が多く、ひどい人だと100日超えもあります」

   入国管理センターは刑務所ではないから、収容者に作業させることはない。差し入れのテレフォンカードで外に電話をすることもできる。だが、人によって強いストレスになるのは、6畳間の和室に5人が住むことだ。

 「それも、国籍も、宗教も違う人たちです」

  自由時間は9時20分から11時40分と13時から16時半まで。これに加え、1日40分の運動時間があるが、それ以外はこの6畳間にいなければならない。

  私が面会した複数人はただ「苦痛です」と訴えた。

 病気になってもすぐには医者に診てもらえない

 入国管理センターには様々な問題があるが、その中でも特に大きな問題として、金さんは「医療」をあげる。

 「管理センターには外から通いで来る医師や看護師はいます。でも、たとえば頭痛ひとつとっても、人によりその原因は様々なのに汎用薬を与えられることが多いのです。そして、具合によっては外の病院に行かねばなりませんが、すぐには行かせてくれない。これは絶対におかしいです」

   もし病気になり、外部の病院に行く必要があるとき、収容者は申請書を書かねばならない。ところが、それを書いたからといって、直後に診察を受けられるわけではない。申請書を書いてから外部の病院で実際の診察が受けられるには、平均14.4日。最長で54日もかかっている。

   金さんの収容中にこんなことがあった。収容者には1日40分の運動が許可されるが、あるインド人が転んで足を骨折した。すぐに手術をしなければならない。だが、そのときは金曜日の午後。申請書を書いても、管理センターの事務は土日は休みだから、許可が下りるのは月曜日以降になる。金さんは「せめて鎮痛剤を」とセンターに訴えたが、かなわなかった。そこで、韓国で軍隊経験のある金さんは自分のTシャツを破いて、応急的にインド人の足を固定した。結局、このインド人が外部の病院に行けたのはその翌週となったのだ。こんなことは刑務所でもあり得ないのではないのか。

 いつ外に出られるのかわからないという不安

 MさんやPさんがここからすぐに出られる方法がたった一つだけある。本国に帰ることだ。だが……。

  MさんもPさんも「帰れませんよ!」とアクリル板の向こうから声を上げた。Mさんは「帰ったら最後。間違いなく投獄され、拷問に遭う。下手すれば死刑です」と帰国を恐れている。

  2010年に来日して、そのオーバーステイがばれて、2016年7月26日から収容されている中国人のCさんは、1989年に世界的なニュースとなった天安門事件を機に設立された中国政府を批判する世界的組織「民主中国陣線」の理事を務めている。これは確かに帰国すれば逮捕と長期拘留が待っている可能性が高い。

 「劉さん、知ってますよね」とCさんは私に尋ねた。

   中国での民主化運動や人権活動を展開したことで、当局に何度も逮捕され、2010年にノーベル平和賞を受賞した劉暁波(リウ・シャオポー)氏のことだ。劉氏は危篤状態になるまで拘留されたままで、昨年7月13日に61歳という若さで死去する。

  中国では捕まったら刑務所生活は長い。だから帰れない。「でも」とCさんは言葉を続けた。

 「私には二人の娘がいます。上は14歳だから私の置かれている立場を理解している。でも下の8歳が、まだ状況を理解していません。早くここを出たい。確かに私はオーバーステイをしたけど犯罪は犯していない。なぜ2年以上もここにいるのでしょうか。仮放免申請はもう8回していますが、いつも不許可。もう心が疲れました……」

この状況を、毎週水曜日に被収容者への面会行動を実施している市民団体「牛久入管収容所問題を考える会」(以下、「考える会」。茨城県つくば市)の田中喜美子代表は「それこそが法務省の狙いです」と断言する。

 「条件を満たしても仮放免を認めず、疲れ切った被収容者が帰国を願い出るのを待つ。そうしたら、翌日には国はもう帰国の手はずをとっていますから」

 収容者にとって最大の問題は「自分がいったいいつ外に出られるのか」ということだ。仮に収容者の身元特定や母国での活動履歴の確認などに時間がかかるとしても、長い人で5年も収容されているのは異常な事態と言わざるを得ない。

私が面会したブラジル人のKさんは、かつて何度も来日しては正規に就労していたが、あるとき、悪い仲間に誘われ窃盗に加わってしまった。Kさんは1年9カ月を刑務所で過ごし、出所後、在留資格を失っていたために入国管理センターに送られた。以後、2年以上収容されているが、Kさんの訴えは単純明快だ。

 「私は自分の犯した罪で刑務所での収監期間がわかっていました。まじめに過ごせば刑期も短縮される。実際、私は仮釈放されました。でも、ここでは収容期間の基準がまったく教えられません。まじめに過ごしても早く出られるわけでもない。私はいつここを出られるのでしょうか」

   文化も習慣も宗教も違う国の人たち5人との6畳での生活。外を見ることなく過ぎる毎日。日本に住む子どもに会いたいがために、ブラジル帰国を拒否しているが(帰国すれば再入国は難しくなるので)、子どもとはまったく会えていない。想像しただけで、凄まじいストレスにまみれた生活だ。

   そして、これに耐えきれなかったのか、入国管理センターではたびたび収容者の自殺や自殺未遂が起きている。

   2010年には2人が自殺、2014年には2人が病死、2017年にはベトナム人が病死。そして、今年4月13日にはインド人難民申請者が自殺した。

  じつはKさんも自殺未遂を2回起こしている。

  1度目の首つり自殺は失敗したが、意識を失ったKさんは、さすがに、すぐに外の病院に救急搬送された。そして、病院では当たり前のことだが、病室のドアが施錠されず、病院内を自由に歩けることに束の間の自由を味わった。しかし、また入国管理センターに戻ると、そこは自由が制限され、明日も見えない日々。Kさんはこう語った。

 「僕、今でも死にたいです。ここにいると、心がだんだん細くなります。首吊りに失敗したから、今度は手首切りたいです」

   だが、私と話すことでKさんのそういう気持ちが薄まっていくのを私は感じた。それくらい、外の世界との接触は大切だ。「考える会」が毎週面会行動を行っている理由はそこにもある。

 ところで、収容者の多くは現状に絶望しているが、いっそのこと、難民を当たり前に受け入れているヨーロッパやカナダなどに住もうと考えたことはないのだろうか? 私の問いに、MさんもRさんも「行きたい」と答えた。だが実現しない。前出の野津さんはこう説明する。

 「それは無理なんです。日本から難民申請のために第三国へ行きたいとなると、その国に入国するためのビザが必要になります。ビザを求めて日本にある第三国の大使館に出向いても、日本は難民条約を批准しているので、日本で難民申請してください、ということになります。まれに家族が第三国で難民認定されるなどして、その方が日本から呼び寄せてくれるという形で第三国へ行ける人もいますが、ほとんどの方にそのような機会はありません。」

 つまり、日本の難民認定申請者は日本で難民と認定される、あるいはその他の形で在留資格を得られなければ、帰国か、難民申請を繰り返して、就労は禁止されるなか、いつでも収容され得るリスクに怯えながら日本で生活を続けるしかないということである。

 難民が受け入れられ安心して暮らせる社会へ

 難民は毎年世界のあちこちで発生している。アフガニスタン難民、イラク難民、シリア難民、ロヒンギャ難民等々。そのつど、心ある人たちは、あちこちで募金運動をしたり、服や日用品を送る運動を展開したりしている。

  だが、自分たちのすぐ足元に住む難民(申請者を含む)にはあまりにも関心が低いのが事実だ。彼らの中にはいわゆる偽難民もいるかもしれない。母国への送還も私は否定しない。だが、正当な基準もなく、家族にも会わせず、外出の自由も認めず、医療からも遠ざけているのは人権問題に他ならない。じつは国民の一定数も「偽難民は来るな」との意識を有しているのかもしれない。だが考えるべきはそこなのだろうか?

   私事だが、私はかつてアフリカのソマリアの難民キャンプで2年間活動していたことがあるが、そこには食料配給を目当ての偽難民も一定数いた。私たちは彼らを追い出すことに力を割かなかった。今目の前で困っている人たちに可能な限りの支援をすることに力を割いていたからだ。

   偽難民であろうが、観光ビザであろうが、日本に住みたい人はどんな手を使っても来る。彼らの排除よりも、いかにして、母国に帰れば迫害を受けるであろう人たちを庇護してその生活を保障するのか。まずそれを考え、その実現にこそエネルギーを割くべきだと私は考える。

   とはいえ、国民の一定数に「偽難民は来るな」との意識があることも事実。しかしながらそれは、難民が置かれている環境やその実情を知らないことが大きな背景としてあるだろう。私も含めたメディアの役割が問われている。

   もし本稿を読んで少しでもこの問題に関心を持った読者は、「難民支援協会」には寄付や活動報告を月2回お届けしているメールマガジン(無料)への登録を、「牛久入管収容所問題を考える会」にはカンパや収容者への差し入れ(テレフォンカード、ノート、ペン、洗剤、レトルト食品、カップ麺、インスタントコーヒーなど)の支援をしてくれたら嬉しく思う。

 

認定NPO法人 難民支援協会 (外部サイトに接続します)
牛久入管収容所問題を考える会 (外部サイトに接続します)


雨宮処凛がゆく!  第465回:貧すれば、ゼロトレランス〜14年前の「自己責任」論から振り返る〜の巻

2018年11月08日 | 社会・経済

  マガジン9   2018年11月7日

 

   シリアから無事に帰国した安田純平さんが10月25日、記者会見をした。冒頭で「おわびと感謝」の気持ちを述べ、40ヶ月にわたる拘束の日々を振り返った。

   この会見を受けても様々な意見があるが、拘束中のことを知れば知るほど「よく耐えられたものだ」という気持ちが湧いてくるのは私だけではないはずだ。しかし、安田さんがシリアへ足を踏み入れたことへのバッシングは一部でいまだ続いているようだ。

 そんなものを見ていて思い出したのは、2004年、イラクで高遠菜穂子さんら3人が人質になった際に起きた恐ろしいほどの「自己責任」バッシングだ。イラクにボランティアなどとして入った3人がとらわれ、武装勢力が日本政府に自衛隊撤退を要求したという事件である。安田さんも同時期、1度目の拘束をされており激しいバッシングに晒された。私はあの瞬間が、この国の大きな分岐点ではないかと思っている。

   ちなみにあの時のバッシングは、私にとってはまったく他人事ではなかった。なぜなら、私もその前年、イラク戦争が始まる1ヶ月前にイラクに行っていたからである。

 イラク行き直前の出来事で、鮮明に覚えていることがある。それは「イラクに行く」と自らのサイトで宣言したあと。まったく知らない人からメールが届いたのだ(当時、読者からのメールを受け付けるアドレスを公開していた)。そこには、以下のようなことが書かれていた。

 「戦争が起こるかもしれないからイラクに行くとか、いい身分だな。こっちは過労死しそうなサラリーマンで、イラク行くどころか休みも取れないし、そもそも戦争について考えたりする余裕なんてないし」

 その手のメールは、一通ではなかった。読んだ時は「そんなふうに見えるのか」とショックを受けたものの、すぐに思い直した。当時の私は物書きになって3年目。その3年前までフリーターだった。自分だってフリーターの頃、「戦争が始まるかもしれないからイラクに行く」なんて人を見かけたら、嫌味のひとつでも言いたくなかっただろうな、と思ったのだ。こっちはそんな金もないし、休みを取ればその分給料が減るアルバイト生活。たった数日の休みが「家賃滞納によりホームレス化」に直結するフリーターが、悠長に他の国の戦争や「世界平和」なんて考えられるか、お前ら金にも時間にも心にも余裕あるからそんなこと考えられるんだよ、というような思い。

 だからこそ、04年、高遠さんたちへのバッシングが起きた時、そんなに驚かなかった。すごく嫌なことが起きているとは思ったけれど、この国はそういう「気分」の中にあって、みんながイライラしていて何かがあればたちまち爆発しそうな、「空気が電流を含んでる」ような感覚は確実にあったから。そして当時の総理大臣・小泉純一郎という「空気を読む天才」は、みんなの苛立ちをいち早く掬いとり、「自己責任」と言い放った。当時のみんなの苛立ちの原因は政治にもあったかもしれないにもかかわらず、小泉首相は「みんなが苛立ちをぶつけていい場所」を鮮やかに提示した。さぁ、何か不満があるなら「正義ぶって偽善ぶった」こいつらを徹底的に叩きのめせばいい。総理大臣である私がそのお墨付きを与えよう、と。

 当時は、戦後最長の好景気と言われる時期が始まった頃だった。しかし庶民に実感は乏しく、格差が静かに広がり始めていた頃。そんな中、総理大臣公認の「生贄」として差し出された3人は、イラクにいる時よりもずっとひどい目に遭わされた。集団リンチが始まったのだ。いたぶり、いびり殺すような執拗なリンチは、しかし加害者の多くが「面白半分」だったからこそやっかいだった。加害の自覚などおそらくないのだ。あの時、3人が日本に帰国する空港で掲げられたプラカードの言葉を覚えている。

 「自業自得」「税金泥棒」と並んで「ぬるぽ」。

 笑いながら、ふざけながら「叩いてもいいとされている人」を叩く。「悪いとされている人」を叩くのは一番簡単で正義感も満たせる娯楽で、その上タダで、多くの人がその「祭り」に飛びつき、祭りをエスカレートさせていった。

 今のヘイトスピーチを彷彿とさせる醜悪な光景が、おそらく初めてこの国に出現したのはこの時ではないだろうか。

 あれから、14年。「自己責任」という言葉は、政治家が言うより早く、もはや一般の人々から上がるようになっている。

 私は「失われた」と言われるこの20年を一言で表現するなら、「金に余裕がなくなると心にも余裕がなくなるという身も蓋もない事実をみんなで証明し続けた20年」だと思っている。社会から寛容さは消え、ゼロトレランス(非寛容)が幅をきかせる中で「自己責任」という言葉はもはやこの国の国是のようになっている。

 貧困も自己責任。過労死や過労自殺も自己責任。病気になるのも自己責任。また、寛容さが失われるこの国で、凶悪犯罪は減り続けているにもかかわらず進む少年法の厳罰化。多くの人が「自分の苦しみの原因」がどこにあるのかわからないまま「敵」を欲しがり、叩きたがる。在日、外国人、生活保護といったキーワードは常にバッシングの槍玉に上がる。

  最初に「自己責任」と言われた04年から今に至るまで、すべてに共通するのは金だ。税金だ。

 「人質の救出費用は全額自腹にして税金なんて使うな」「外国人が生活保護を受けるなんてけしからん」「生活保護利用者がこの国の財政を破綻させる」「たらたら飲んで食べて、何もしない人の金(医療費)をなんで私が払うんだ」「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担させよ! 嫌だと泣くならそのまま殺せ!」「戦場ジャーナリストは自己責任なんだからそんな奴には決して税金を使うな」

「税金」という言葉を使えば、まるですべてが正当化されるというようなロジック。が、うっすらとした不満を抱える人には受け入れられやすい「正論」でもある。

 高遠さんたちが猛烈なバッシングに晒されていた頃、ショックな出来事があった。親族の集まりで同席した親戚のおばさんが、テレビで人質事件の話題になった際、突然顔を歪めて「ほんっと迷惑な人たち!」と吐き捨てるように言ったのだ。小さな頃からよく知るおばさんは優しくてほんわかした癒し系で、それまで感情を剥き出しにしたところなんて一度も見たことがなかった。しかし、彼女は怒りを剥き出しにしていた。衝撃だった。高遠さんたちが晒されているバッシングの恐ろしさの一端がわかった気がした。国際情勢や中東のことなんかまったく詳しくなくても、「我々の税金が使われたかも」という一点で、人はここまで誰かを恨むことができるのだ、と。おばさん、どうしてそんなに怒るの? そう聞きたかったけれど、怒りに震えるおばさんにどうしてもその言葉を言うことができなかった。

 そうして2年前、相模原の障害者施設で19人が殺される事件が起きた。植松被告は障害者の生存を「無駄」と決めつけ、大量殺人を起こしている。ここにも背景にちらつくのは税金であり、財源論だ。

 しかし、この国の多くの人が「我々の税金が無駄に使われている!」と感じたすべてのことに怒るかと言えばそうではない。例えば加計学園の問題では、身内びいきのために大量の税金が使われたのではという疑惑があるわけだが、安倍政権は何事もなかったかのように続いているのがその証拠だ。

 さて、そんなこの20年ほどの状況を、私は「貧すれば鈍する」ならず「貧すればゼロトレランス」と名付けたのだが、今年の夏、「寛容」という言葉について改めて深く考えさせられるような事件が起きた。

 それはタイの洞窟に閉じ込められた少年ら13人の救出劇。25歳のコーチが、その日誕生日のメンバーを祝うためにみんなで洞窟に入ったものの、豪雨で出られなくなったというアクシデントだ。9日後にはダイバーによって全員の生存が確認され、17日後には全員が救出された。この救出劇には世界中の注目が集まり、日本でも連日報道されたので覚えているだろう。

 報道を見ていて驚いたのは、現地のタイでは、コーチを「責める」世論がほとんどないということだった。また、救出にあたり、近隣の農家は洞窟から排出される大量の水のため、田植えしたばかりの田んぼが浸水するなど大きな被害に遭っていた。しかし、農家の人々は口を揃えて「少年たちを救えるなら喜んで協力する」と笑顔なのだった。

 これが日本だったら。「被害者」の「大迷惑」「大損害」という怒り心頭の声が伝えられ、ワイドショーの識者は損害額をはじき出してみせるだろう。また、コーチには「責任をとれ」「救出にいくらかかると思ってるんだ」「全額負担しろ」「自己責任」「日本の恥」などの罵詈雑言がネット上に溢れ返っているはずだ。しかし、少年の両親たちは、コーチに対して「自分を責めないで」という手紙を救助隊に託していたという。自身の子どもがまだ洞窟の中に取り残されている中で。

 誰だって、間違える時はある。そして誰だって、予期せぬトラブルに巻き込まれることがある。その時に「自分を責めないで」と優しく手が差し伸べられる社会と、「自己責任だ」と、再起不能なまでに叩きのめされる社会。一体、日本とタイで、何をどうしてどうやったらここまでの差がついてしまったのか。なぜ、タイの人は冷たく「自己責任」と突き放したりせずにいられるのか。

 この20年、この国で生きてきた私たちは何を失ってきたのだろう。「自己責任」とか言う前に、改めて、考えるべきことだと思うのだ。

 最後に。安田さんの「自己責任」を問う報道は多くするのに、「世界で最悪の人道的危機」にあるシリアの状況についてまったく報じないメディアって一体なんなんだろう、という疑問を本気で考え始めると、これはこれで本当に怖くなってくる。


氷点下3.5℃。江部乙の方もほぼ同じでした。

ブルーシートをかぶせておいたのは無事でした。


明朝の予想最低気温ー3℃

2018年11月07日 | 自然・農業・環境問題

今朝も霜が降りていた。
江部乙の方はわからないけれどハウス内の最低気温が氷点下0.2℃。
明朝の予想最低気温-3℃。
なんか10日ごろから「異常高温注意報」とやらが出ていたのに、このギャップ。
そんなわけで今日はミニトマト、ピーマン、全部収穫完了。
パブリカが残ってしまったが、ブルーシートをかけてきた。
いい天気だった。
帰りに見た夕焼けがきれいだった。

 


冬仕舞い

2018年11月06日 | 自然・農業・環境問題

 ここは連日のように霜が降りているのに、江部乙の住民に聞いたところいまだなしとのこと。やっぱりかなり気温の差があるのだと実感した。
 もう少しこのままハウスを置いておきたいのだが、12日から盛岡、弘前、青森へいく予定がある。その前にはビニールを降ろさなければならない。
そんなわけで、いつでも天ビを降ろせるよう、巻き上げから外す作業。

途中雨が降ってきたので、中のミニトマトを収穫しながら株の切断。
お客さんが来て話し込んでしまった。体を動かさなかったので寒い寒い。
明朝の冷え込みが予想される。

なんか、変!
「冬仕舞い」とは、冬が終わるということだよね。
「冬仕様」といいたかったのか?
馬鹿だね!


「パソコンが重い」を簡単に解決できる8つの対策とは?

2018年11月05日 | なんだかんだ。

  わたしのデイスクトップPC購入してからもう5年になる。まだそんなに経ってないような気がしていたのだが、このところ不具合が生じる。電源を入れて画面が出てもカーソルが動かない。そんなときは強制終了で再稼働。開いているページが反応しない。これは一度閉じて再度クリック。その程度で今は済んでいる。

 


 

マイナビニュース / 2018年10月29日 13時20分

 

●PCが遅くなる原因を踏まえて対策を講じよう

最近のPCはCPUも速く、メモリもたくさん搭載しているとはいえ、もともとインストールされているソフトウェアが多かったり、Webサイトのコンテンツもリッチになってきていたりといったこともあり、「重い」と感じることがあるだろう。

 本稿では、マカフィーの公式ブログの「パソコンが重いと感じた時すぐできる解決策!動作を軽くする対策8選」をもとに、PCが重くなる原因を整理するとともに、その対策を紹介しよう。

○PCが遅くなる6つの原因

 ブログでは、PCが遅くなる代表的な原因として、「メモリやCPUの使い過ぎ」「本体の不具合」「マルウェアに感染」「ウイルス対策ソフトをアップデートしていない」「パソコンのスペックが不足」「重いソフトウェアがインストールされている」の6点を挙げている。

 「メモリやCPUの使い過ぎ」と「重いソフトウェアがインストールされている」に大きくかかわっているのが「動画ソフトウェア」や「高解像度のゲーム」だ。動画の編集作業は高解像度のゲームの実行はCPUに大きな負荷をかける。

 Windowsであれば、CPUやメモリの使用状況は「タスクマネージャー」で確認することが可能だ。タスクマネージャーは、Windows 10であれば[Windows システムツール]から起動できる。

 「PCが重い」と感じた時は、タスクマネージャーでCPUやメモリの使用状況を確認してみることをおススメする。その結果を基に、次に紹介する対策を実行するとよいだろう。

○PCの重さを解決する対策

1)常駐アプリケーションの無効化

 PCは起動時に立ち上がり、パソコンの電源を落とすまでバックグラウンドで動き続けるアプリケーションがいくつもある。こうしたアプリケーションは「常駐アプリケーション」と呼ばれている。

 常駐アプリケーションは、「スタートアップ」や先ほど紹介した「タスクマネージャー」で確認できるので、不要なものは起動時のスケジュールを無効にしたい。

 (2)容量の大きなファイルの削除・移動

起動ドライブ(WindowsであればCドライブ)の空き容量が減ってくると、ハードディスクからの読み出しや書き出しに時間がかかるようになる。

そこで、Cドライブ上のファイルのうち、容量が大きくかつ不要なものは削除するか、もしくは、USBなどの外部記録メディアに移動しよう。代表的な容量の大きなファイルと言えば、画像や動画ファイルなので、「ピクチャ」や「ビデオ」フォルダを確認して、不要なものを削除するといいだろう。

(3)不要なアプリケーションの削除

 当然と言えば当然だが、不要なアプリケーションは削除しよう。インストールしたものの、利用していないアプリケーションはないだろうか。それらアプリケーションに常駐機能があれば、メモリを無駄にしていることになる。

 アプリケーションのアンインストールは、コントロールパネルの「プログラムのアンインストール」から行える。

 

●Windowsが標準装備しているツールを使う

(4)デフラグをかける

 Windowsはハードディスク上のファイルの断片化(フラグメント)を解消する「デフラグツール」を備えている。通常、データはハードディスクに連続して書き込まれるが、容量が減ってくると、1つのデータを分散して書き込む。その結果、ハードウェアへのアクセス速度が遅くなることがある。

 デフラグツールではディスクのデータを整理することで、データが分散された状態を解消し、アクセス速度を向上する。なお、Windows10の場合、初期設定で自動実行されるようになっている。

(5)ディスクのクリーンアップをする

 Windowsは不要なデータを削除してくれる「ディスクのクリーンアップ」という機能も提供している。この機能は、Cドライブのプロパティを表示すると、実行できる。

 [ディスクのクリーンアップ]というボタンを押すと、「インターネット一時ファイル」などクリーンアップの対象となるファイルが表示されるので、削除したくないファイルにチェックが付いていたら外そう。

 (6)ブラウザのキャッシュをクリアする

 Webブラウザには、アクセスしたWebサイトの画像などのデータを一時的に保存する「キャッシュ」という仕組みがある。キャッシュは何度も同じWebサイトに訪問する際は、アクセスが速くなるため便利だが、容量が大きくなってくると、PCに負担がかかることになる。

 そのため、定期的にキャッシュを削除することは「PCが重い」問題を解決することに役立つ。例えば、Internet Explorerにおいては、画面右上の[設定]から[セーフティ]-[閲覧履歴の削除]を選択すると、キャッシュを削除できる。また、Google Chromeにおいては、画面右上の[設定]から[その他のツール]-[閲覧履歴を消去]を選択すると、キャッシュを削除できる。

(7)視覚オプションの解除

 Windows 7やWindows 10には、視覚効果を出すため、ウインドウの最小化時やスナップ時などの画面表示にアニメーション表示が取り入れられている。このアニメーションはPCのパフォーマンスや動作スピードを落とす原因にもある。

 したがって、画面表示にリッチさを求めない場合は、アニメ―ションを無効にするのも手だ。アニメーションの設定は、[設定]-[簡単設定]で[その他のオプション]から変更できる。

(8)再起動する

 最後に紹介する対策は「再起動」だ。利用中のアプリケーションが何らかの原因で暴走してPCが遅くなってしまっている時などは、再起動することで解消されることがある。

 作業中のファイルを保存できないなどの問題が生じていない場合などは、再起動してみるのも手だ。

(今林敏子)


菊芋

2018年11月04日 | 野菜・花・植物

 

「徹底解説!健康食材・自然食品 」より

中性脂肪の減少効果

キクイモの一番大きな効果効能は、キクイモに含まれているイヌリンの働きです。

日本人全体の食生活が欧米化してカロリーの摂りすぎの人が増えています。

カロリーの摂りすぎは様々な疾病の原因になります。

中性脂肪を増やして、脂肪肝の患者さんを増やしました。

脂肪肝そのものはそれほど怖くはないと言っても、心筋梗塞などを死に至る病気の引き金になります。

菊芋の“中性脂肪を減少させる効果”は大きく、その減少させる元となっているのがイヌリンです。

菊芋に含まれるイヌリン効果で、膵臓機能改善し、肝機能の回復向上をさせて、各臓器が順調に働くよう促します。

また、イヌリンは、糖質の吸収を抑える作用をするため、余分な脂肪を溜めこまないのも脂肪肝を防ぐのに役立っています。

血糖値の上昇を防ぐ

 血糖値で悩んでいる方にお勧めなのが菊芋です。

菊芋の効能で一番大きいのは菊芋の主成分イヌリンは、“天然のインスリン”とも言われるほど血糖値を下げる働きをしています。

そのため菊芋は糖尿病の予防や改善にも大きな効果を発揮しています。

菊芋に含まれるイヌリンは人間の体内酵素では消化や吸収されない糖質です。

そのために一緒に摂った食べ物の糖の吸収も抑制する作用をします。

さらにこのイヌリンの特徴は、腸内環境を整える働きをし、腸内にある糖質も体の外にスムーズに運び出してくれます。

腸内の糖質が体外に運び出されるのですから、血糖値の上昇を防ぐことができ、糖尿病を予防することが出来ます。

このように、菊芋に含まれているイヌリンは、糖尿病を予防すると共に、腸内の環境を整えてくれます。

糖質の吸収が少ないことから、ダイエットの時に菊芋を用い、ダイエットを成功させた人もいます。

菊芋が血糖値の上昇を防ぎ糖尿病の予防と改善に効果があり、生で食べる方が効果があるとのことです。

 体内の活性化を促す

菊芋に含まれているイヌリンは「天然のインスリン」とも評されるほど、私たち人間の身体にとって有効に働いてくれる物質です。

菊芋 効能の大きさの元となっているイヌリンは糖尿病に効果があるばかりでなく、私たちの体内の細胞を活性化させる働きもしています。

イヌリン効果で腸内細菌が刺激されて、ビフィズス菌などを活性化させます。

活性化されたビフィズス菌は、腸の調子を整えますから、便秘の解消にも効果を発揮してくれます。

その他、菊芋に含まれているペクチンが重金属や放射能物質を体内から除去をするといいます。

このように菊芋にはたしかに体内の細胞を活性化させて、私たちを元気な体にしてくれる効果があるのです。

 便秘の改善効果

菊芋 は「便秘の改善」の働きをしてくれる効果があります。

菊芋の食物繊維が腸内環境を良くして便通が良くなります。

便秘が改善されれば体調も自然に良くなりますから、菊芋はお勧めです。

菊芋に含まれている優れた物質イヌリンは、腸内で人間の体にとって欠かせない“ビフィズス菌”など、善玉菌の餌となって善玉菌を増やしてくれ腸内環境整った結果、便秘が改善されます。

腸内環境が整うと、消化器系のトラブルの改善に繋がり、肌のトラブルがなくなって綺麗な肌が期待できるほか、不眠など、様々な体の不調の改善に繋がります。

ただ、便秘ではない人や腸が弱い人が菊芋をたくさん食べ過ぎると、お腹が緩くなって下痢をすることもあるので摂りすぎには注意が必要です。(私の経験からすると、下痢をしても腹痛を伴いません。便意が多くなり、ガスが出ますのでご注意を。本当に腸の掃除が始まった、てな気分です。でも、あまり顕著な場合は摂取量を減らし、体質に見合う量にしたほうがいいでしょう。わたしも顕著に表れるほうで、小さな芋1.2個が適量です。)

また、健康食品やサプリメントは薬ではありませんから、ある程度続けてからではないと効果が出ません。

人によって効果が出るまでの期間は違ってきますが、およそ1ヵ月は必要だといいます。

菊芋は元々日本にあったものではなく、戦後の食糧難には、多くの人の食糧不足を助けています。

薬と違うので副作用もありません。

健康維持に取り入れてもいらいたいのが菊芋です。

 美容と健康に

菊芋 効能その働きには大きな健康効果が期待されて、健康不安を感じている多くの人に愛用されています。

また、健康不安は抱えていなくても、健康を維持したい方や、美容と健康、そして老化を防ぎたい方にとっても効果があるとして活用されています。

きくいもの成分にはポリフェノールが含まれていますが、ポリフェノールは、抗酸化作用の働きが強く老化を早める活性酸素の働きを阻害&抑制してくれます。

菊芋の整腸作用効果で腸内環境を良くして便秘の改善をしてくれるのと、菊芋の「セレン」と呼ばれる物質が、シミ、クスミを消すとされています。

*

◆サラダや和え物

生のまま皮を剥き、スライスや細切りにしたものをサラダや色々な和え物にして食べます。シャキシャキとした食感が楽しめます。

◆炒め物や焼きもの

スライスして炒め物に使ったり、丸ごとオーブンで焼きバターなどを付けて食べても美味しいです。

◆煮物や汁もの

ジャガイモのように煮物にすることも出来ます。また味噌汁やスープの実にもなるほか、ポタージュにも出来ます。

◆揚げ物

丸ごとフライにしたり、スライスしたものを天ぷらにして食べてもいいでしょう。

出典「野菜の食材百科」


 この食材で「健康になる」などと思わないでください。体にいいもの(化学物質の入っていないもの)を日常的に多品種取ることが健康にいいのです。

 今日も割と強い霜が降りてます。でも、朝のうちに消えてしまうので、江部乙に行ったときは、霜が降りたのかどうかもわからず、ハウス内を点検して「今日も無事でした」。


チンすると老ける

2018年11月03日 | 食・レシピ

チンすると老ける物質が発生する? 電子レンジとの上手なつきあい方

笹井 恵里子

文春オンライン 2018/10/30

   冷凍食品やレトルトをはじめ、ストックしたごはんや作りおきおかず、コンビニで買った弁当などを温める際に欠かせない電子レンジ。しかし、時に”レンジでチン”は食品の中に老ける物質を発生させる。頼りすぎると体の老化を促進する恐れがあるという。

出典:『 老けない最強食 』(文春MOOK)

 健康検定協会理事長で管理栄養士の望月理恵子氏はこう話す。

「タンパク質が糖と結びついて劣化する反応(糖化)によって、AGEという老ける物質が生まれます。これが体内に蓄積されると、肌の弾力が失われて、シミやシワ、たるみを作ったり、血管を老化させて認知症や動脈硬化の一因になるのです。

 AGEは、唐揚げやステーキなど、こんがりとした焼き色がつく食品に多く含まれるため、かつては焦げ目がつかない食品ならAGEが含まれる可能性は低いと考えられていました。しかし、電子レンジ調理の場合は焼き色がつかなくても、高温になるため同じような化学反応が起こりやすく、AGEが増えてしまうことがわかってきたのです」

 老ける要因「糖化」も「酸化」も

 海外には多数の研究報告があり、米ニューヨーク州にあるマウントサイナイ医科大学の研究者が549食品のAGE含有量を調べたものでは、豚肉を7分炒めると100グラムあたり4752kU(キロユニット)のAGE発生量に対し、電子レンジに3分間かけると9023kUと報告されている。

 さらに電子レンジ調理は脂質劣化も進めやすい。電子レンジ加熱と、従来の加熱法(煮る、焼く)でサバを調理し、魚肉脂質の変化を比較した研究では、電子レンジ加熱が短時間で脂質劣化を進めると報告されている(北海道教育大学の研究より)。ソウル大学校農業生命科学研究所が行った肉の再加熱を調理法によって比較する研究でも、電子レンジによる加熱は、ほかの調理法と比較して油脂の酸化を進めやすいとあるのだ。

「AGE発生と脂質劣化のダブルパンチの食品では血管に良くないでしょう」(望月氏)

 もちろん、どんな食品でもAGEが大量発生し、脂質の酸化、劣化を進めるわけではない。まず避けるべきものは、調理済の肉や魚。特に焼く・煮る・揚げたメニューを電子レンジで再加熱するのは避けたい。

 東京大学名誉教授の加藤信介氏は「電子レンジの電磁波は食品中の油分・水分に集中しやすい」と話す。

「電子レンジは、WiFi通信などで用いられるものと同じ周波数帯の電磁波(マイクロ波)を用いて加熱します。マイクロ波は食品中の油分、水分を原子レベルで激しく振動させる。その摩擦で熱が発生し、食品が加熱されるのです」

 そのため、水分を含む食品は蒸発過多になればパサつきやすく、マイクロ波を吸収した油分(脂質)は酸化する。

「マイクロ波加熱によって劣化したタンパク質を食べると、体内であまっている糖と結びついて糖化しやすくなります」(望月氏)

 それでは糖質を含む炭水化物、とりわけ身近なごはんをレンジでチンするのはどうだろうか。日本アンチエイジング・ダイエット協会理事で管理栄養士の伊達友美氏が語る。

「あまり知られていませんが、ごはんにも少量のタンパク質が含まれています。ですから、ごはんのタンパク質を栄養素として活かすなら、電子レンジで加熱をしないほうがいい。炊きたてか、常温で数時間程度なら温め直さずにそのまま食するのがおすすめ」

 温め直さない冷えたごはんには、消化しにくいでんぷん「レジスタントスターチ」が増え、血糖値の上昇をゆるやかにする利点もある

 朝に弁当箱に詰めたごはんは、昼にレンジでチンしないで常温で食べるのがベスト

「家庭で冷凍庫にストックするようなごはんは、レトルトごはんと比べると密閉性が低く、水分が多少蒸発しますから、電子レンジ加熱をしたい際は表面がしっとりするぐらい霧吹きで湿らせるといいでしょう。もしくは、鍋やフライパンを使ってリゾットやチャーハンにするとパラパラ感が出ておいしくなります。

 冷凍食品のピラフ類も電子レンジではなくフライパンで炒める、焼きおにぎりもトースターを使うほうが、ゆっくり温められ糖化しにくくなります。しかもお米のおいしさが引き出されるのです」(伊達氏)

ごはんと同様、糖質を多く含むサツマイモ、トウモロコシも“じっくり加熱”が向いている。「電子レンジで短時間で作ると、麦芽糖という糖質が増えず、甘みが出ない」(望月氏)という。電子レンジで加熱したい場合は、水で濡らしたクッキングペーパーに包み、「弱」の機能で加熱したほうがいい。

 つまり電子レンジのマイクロ波は、「ゆっくり加熱」と対極にある「短時間で高温加熱」が特徴なのだ。AGEは高温で調理することで大きく増える。

 揚げ物の温め直しは最もダメ

 そのため、最もレンジでチンが向いていないのは「揚げ物の温め直し」といえるだろう。揚げ物をするとき、そして電子レンジ加熱と、2回にわたって食品中のAGEを増やすことにつながる。

「揚げ物を再加熱するなら、テフロン製のフライパンにクッキングシートを敷き、その上にフライを置いてフタをし、弱火で5分程度温めるといいでしょう。その方法でも糖化は起きますが、低温かつマイクロ波がない分、電子レンジ加熱よりはAGE発生を抑えることができます」(同前)

 出来合いの惣菜も油を含んでいることが多いため、再加熱するなら同じ方法で温めよう。

 油分の多いカレーやシチューを調理翌日に食べたい場合は、電子レンジではなく鍋を使って弱火でコトコト温めるといい。マイクロ波による油の劣化を抑える観点からはもちろん、夏場は食中毒対策を兼ねられる。マイクロ波が油分に集中するということは、加熱ムラができやすくなり、均一に温めるなら鍋のほうが優れている。特に死滅するのに80度20分も要するような赤痢菌の場合は、電子レンジ加熱での滅菌が難しいのだ。

 ビタミンが流れ出ないという利点も

 それでは電子レンジが役立つ時はないのかというと、そんなことはない。短時間で高温加熱を利用できるのは、ビタミンを豊富に含む野菜類だ。

「ゆでるなど長時間火にかけると、水溶性ビタミンが流れ出てしまいます。電子レンジ加熱は逃げる水分が少ないため、水溶性ビタミンを保持しやすい。ビタミンが豊富なブロッコリーや葉物などの野菜類は、基本的に電子レンジ調理がいい。

ただし菓子メーカー、カルビーらの研究で、もやしを電子レンジで加熱調理すると、5分経過後からアクリルアミド(AGEの一つ)の生成が見られるため、やはり電子レンジは“短時間”が原則」(望月氏)

 忙しい現代社会ではもはや電子レンジなしの生活は考えられないが、ちょっと時間があるときは電子レンジの“加熱”ではなく、スイッチをひねって“オーブン”に切り替えよう

「マイクロ波加熱は内部の細胞から破壊されていくため、特にタンパク質は性質が変わりやすい。オーブンのような焼く加熱なら表面から細胞が徐々に壊れていくため、食品本来の性質を壊しにくい」(伊達氏)

 元厚生労働省健康局栄養・食育指導官で、現在は和洋女子大学教授の古畑公氏は、「食品に対して作用が優しいのは、蒸す、煮る、焼く、揚げる、電子レンジ加熱の順」と話す。

「5つの調理法の中で温め方が集中的でなく、蒸気によって四方八方から平均的に温められ、かつ栄養価も失いにくいのは蒸す方法。ただし、時間がかかる」

 前述した揚げ物や惣菜も、陶器に移して“蒸す”方法での再加熱がおすすめだ。

“手軽にチン”の前に、その必要性と手段をいま一度見直したい。

(笹井 恵里子/文春ムック 老けない最強食)


  こちらはかなり強い霜が降り、初氷。江部乙の方はそれほどでもないようで、ハウス内の作物はセーフでした。

 


江部乙


どうすれば日本の農業は再生できるのか?~問題なのは現場と農業政策のズレ

2018年11月02日 | 野菜・花・植物

Yahoo!ニュース 2018.11/1(木)

 松平尚也  | 農家ジャーナリスト、AMネット、京都大学農学研究科博士課程

   農・食・地域の未来を視点に情報発信する農家ジャーナリスト。京都市・京北地域の有機農家。NPO法人AMネット、京都大学農学研究科に在籍し世界の持続可能な農や食について研究もする。農場「耕し歌ふぁーむ」では地域の風土に育まれてきた伝統野菜を栽培、セットにして宅配を行いレシピと一緒に食べ手に伝えている。また未来の食卓を考えるための小冊子「畑とつながる暮らし方」を知人らと出版(2013年)。ヤフーニュースでは、農家の目線から農や食について語る「農家が語る農業論」、野菜の文化や食べ方を紹介する「いのちのレシピ」持続可能な旅を考える「未来のたび」などを投稿する予定。

 

   これまで推進されてきた大規模農業の矛盾が露わになる中で世界でも小さな農業の再評価が広がっています。日本の農業と農業政策はどうあるべきなのか、実際に農家を訪ねて考えてみました。

 日本の食卓と世界とのつながり

  2017年の世界の飢餓人口は8億2100万人に達しました。2050年には、世界人口が約100億人まで増加すると予想される中で、どのように世界の人びとを養うのか、そのための食料を支える「農業のあり方」について、いま大きな議論が起きています。

 2008年頃には世界食料危機が発生しました。そのしわ寄せは食料を輸入に頼る国々に波及し、世界の飢餓や貧困の増加を引き起こしたのです。

 日本は世界有数の食料輸入国のひとつです。食料を理由に戦争を経験したことがあるEU諸国は、国策として自給率を高く維持していると聞きますが、日本の食料自給率(カロリ-ベース)は、約38%と先進国の中で最低レベルの状況です。人口が1億人を超える国でここまで自給率が低い国は日本だけです。中でも穀物の自給率は27%と著しく低く、小麦やトウモロコシの多くを輸入に依存しています。

 日本の食料のこれからを考える上で覚えておきたい歴史があります。それは大豆ショックと呼ばれる出来事です。1973年、大豆の輸入を依存していた米国が日本への大豆輸出を禁止しました。日本は当時の大豆使用量の約9割(現在は約7割)をアメリカに依存していたこともあり、豆腐や納豆など大豆製品の値段が暴騰しました。

 そのような輸入に依存する危険性を経験したにもかかわらず、その後に日本政府が行ったのは自給率向上ではなく輸入先の多元化でした。政府は食料危機後も大規模農業投資を行い食料の安定確保を目指しています。しかし投資先の国々の中には、自分たちの食料も十分でないのになぜ輸出しないといけないのか、疑問の声が上がっている地域もあります。

日本はこのまま食料を輸入に依存したままで大丈夫なのでしょうか。もし何らかの事情で輸入が止まると他国と同じように食料不足に陥ってしまう可能性があります。

  世界の食料価格は、食料危機以降、高く推移しており、未だ予断を許さない状況です。

 また、日本の農家数は戦後減少を続け、1960年に約1454万人いた農業就業人口は、2015年の農林業センサスでは約209万人まで激減しました。農家人口の平均年齢が約66歳で、65歳以上の割合はなんと約63%を占めるまで高齢化しています。多くの農村で跡継ぎや担い手がいない状況です。

 つまり世界の食料や農業を巡る議論は他人事ではなく、日本にとっても深刻な問題で、これからの安定した暮らしを考える上でとても大切なことなのです。その中で農業のあり方は大きな問いでもあるのです。

 

 世界で進む小さな農業の再評価

  世界では大規模化が進む中で、最近「小さな農業」が再評価される動きが生まれています。

 再評価の動きは、国際機関や研究者、市民社会まで幅広く起こっています。その背景には、大規模農業に対する国際的な懸念の広がりがありました。工業型農業とも呼ばれる大規模農業が世界の耕地と水資源の半分以上を利用しているにもかかわらず、食料を十分に生産できていないという批判があるのです。

 その一方で小さな農業は、災害リスクが高まる中でも多様な方法で食料を安定生産できると評価されています。中でも国連は、2014年に国際家族農業年を設定し、小さな農業の評価と投資を呼び掛け始めました。そこでは、小さな農業が多くの国の食料安全保障の基礎であるだけでなく、農村の持続や自然資源の持続的管理にも貢献することが主張されています。

 国連は飢餓と貧困の解消を呼び掛ける中で、食料生産の担い手としては、これまで大規模農業を推進する立場でした。世界食料危機後、食料の安定生産ではなく先進国が食料を確保するために途上国への大規模農業投資を進めました。しかし、この動きが農地争奪とも呼ばれる、投資先での農家からの土地の強奪を引き起こしてしまいます。国連がその実態を調査したところ、投資受け入れ国の食料安全保障に脅威をもたらす可能性や、地元への雇用も限定的という調査結果が出されました。その中で国連は立場を変更し、小さな農業や家族農家の再評価を行ったとされます。

 日本での小さな農業の再評価

 日本でも海外で再評価される小さな農業の重要さを主張する農家が出てきました。その先頭に立つのが九州の農家や市民が立ち上げた「小農学会」です。小農学会は、「大規模・企業優先の政策が進むと農村が消滅する」と現在の農政へ疑問を呈しています。そしてもう一つの農業の道として、「小規模・家族経営・農的暮らしなどの多様な農業が農村を残す道である」と主張します。

  2018年夏、小農学会にかかわる農家を訪ねました。

 鹿児島県霧島市竹子地区に小農学会共同代表である萬田正治さんの農場があります。萬田さんは、鹿児島大学で安全なコメ作りの技術や小規模畜産経営などを農家の目線から研究してきました。2004年に同地区に移住し、今年からは小農による小農のための学校である霧島生活農学校を立ち上げています。

萬田さんは企業的農業と小農の違いを次のように語ります。

 「中山間地が多い日本では共同で農村を維持してきたが、企業的農業だけでは農村は守れない。また企業が参入しても採算が取れず出て行けば農村が消滅してしまう。一方で小農は自然を有効に活用し、食料自給率の向上や食の安全を保障し、農村を守る」

  2015年11月に設立した小農学会はわずか数年で200名を超える会員が集まっています。会員の多くは農家であり実際に農業に携わる人が共感して加入しています。興味深いのが、田舎暮らしや市民農園などに関わる都市生活者も含めた人びとも新しい小農として捉え、多様な農の価値を活用して農村の維持を考えていることです。

 その実情を知るために鹿児島県最北にある伊佐市の会員農家・有留廣秋(ありとめひろあき)さんを訪ねました。有留さんは2007年に退職し、農業を継いで現在3ヘクタールの田畑を耕しています。有留さんの農業経営の特徴は、農業生産だけでなく直売所と農家民宿「美和松」を運営し多様な農業を実践している点です。直売所ではパートを雇用し、奥さんは弁当を作り直売所で販売しています。多様な価値でもって地域経済を下支えしています。

もう一人、農家会員の鹿児島県・さつま町の久保秀司さんは、イチゴづくりを40年間やってきました。農場の片隅にある事務所にはイチゴの専門書が並びます。家族を養うために小さな面積でいかにイチゴの収穫量を増やすか研究し所得向上につなげたということです。専門書には細かな無数のメモが書き込まれています。その独自の研究結果を鹿児島大学の教授に確認してお墨付きをもらうというこだわりようです。研究結果には、農家がどうイチゴを増収するか事細かに書かれており、久保さんにしか書けない小農の実践と言えます。

各地域のこうした実践の継承が日本の農業の未来を検討する上で不可欠ではないかと感じました。久保さんは農業体験ができる農家民宿「観真庵」も経営しています。小農学会の農家会員は、二人のように農家民宿経営や農産加工や有機農業など新しい多様な農業を実践する農家が多いとのことです。

 兵庫県養父市・国家戦略特区を歩く

 一方、政府が推進する農業の大規模化・企業化を導入する農村はどうなっているでしょうか。その現状を確認するために国家戦略特区である兵庫県養父市を訪ねました。

 兵庫県北部の但馬地域中央に位置する養父市は、2004年に4町が合併し成立しました。古くから近畿と山陰を結ぶ交通の要衝として、生糸商が栄えるとともに、但馬牛取引の拠点となってきました。近年は少子高齢化が進み、人口は合併から10年間で約15%減少しています。養父市は、過疎からの脱却を謳い、2014年に国家戦略特区に指定されました。

養父市では特区の規制緩和を生かし、農業への企業参入を促しています。特区認定後に13社が参入しました。参入企業にはオリックス、クボタ、ヤンマー等、大手の名前も見られます。各社の農業参入の形態は多様で、スマートアグリと呼ばれる植物工場による次世代農業やハウス施設栽培、特産品づくりや野菜そして米づくりなどが行われています。2017年の参入企業の営農面積は約40ヘクタール、売上は約9000万円(2017年度)ということで、市全体の農業生産額の1割強に上っています。しかし各社の動きには温度差があり、全く稼働していない企業もあれば、大規模投資を行っている企業もあります。施設等への投資額も大きく設備の償還もまだまだで、評価を決めるにはこれからの動きを見て行く必要があります。

 大切なポイントと感じたのは、国の思惑と異なる動きが見られた点です。養父市特区制度の目玉は、企業による農地取得の規制の緩和、つまり企業が農地購入をできるようになったことです。しかし参入企業の購入面積は1.35ヘクタールと営農面積の約3%に過ぎないのが現状。企業が購入しない理由は資産を抱えるリスクがあるからで、各社とも販売先の確保や作物の選定に悩んでおり、利潤が伸びていない現状もその背景にあると想定されます。

 一方で地域に根付くことや対外的アピールの側面から農地を購入する企業もあります。そうした企業は地域資源を生かした農産品づくりに取り組んでいます。結局、企業のスタイルもこれまで地域で小さな農家が展開してきた農業のスタイルに似た特徴を持ち、国の想定とは少し異なる方向に事業が展開しているように感じました。

 では、日本の農業の理想の形はどうあるべきなのでしょうか。

 

  日本農業の未来と小さな農業

 その答えへの道筋の一つを、同じ養父市の畜産農家、わはは牧場で見つけました。わはは牧場の代表・上垣康成さんは、1990年頃に祖父の農業を継承し小規模な畜産を始めました。繁殖母牛10頭、経産牛肥育年間1頭、豚の肥育年間約10頭、合鴨農法稲作50アール(約200羽飼育)をしながら合鴨処理(年間約5000羽)も行っています。すべての家畜を自ら加工して販売しているのが他の畜産農家と異なる大きな特徴です。

 上垣さんは、2017年12月に「小さい畜産で稼ぐコツ~少頭多畜・加工でダントツの利益率」を出版しました。ハウツー本ではなく、生い立ちや食育まで生き方を含めた内容が注目され短期間の内に重版されたということです。同じシリーズの野菜農家が出した「小さい農業で稼ぐコツ~加工/直売・幸せ家族農業で30a1200万」という本も就農や田舎暮らしに関心を持つ人びとの間で人気が出ています。その背景には、上垣さんらが実践する「自分で生き方や働き方を決める小さい農業」への共感があると考えます。

 わはは牧場の実践でもう一つ注目したいのは、小規模でも雇用を行い地域経済の担い手となっている点です。本でも紹介されていますが、わはは牧場の利益率は、生産から加工そして販売まで自ら行うことで一般の畜産農家よりも高くなっています。国家戦略特区の参入企業も手を焼く所得確保を実現し、さらには食料供給の担い手ともなっているのです。その実現には、投資を最小限にして作れるものは自ら作るという自立性を持ちながら事業展開の工夫をするという、小さい農業の特徴が生かされていると感じました。この展開の方向性は、時代状況や災害リスクなどに対応できる本当の意味での強い農業と言える気がします。

問題なのは農業現場と農政のズレ

 問題は、養父市が国家戦略特区になってもわはは牧場のような地域独自の取り組みや小さい農業の実践が注目されない点です。自分で農業をやりたいという若い新規の就農者が増えているのに、小さい農家向けの補助メニューがほとんどないのが現状です。農家向けの予算を大規模農業だけでなく小さな農家にもバランスよく振り分ける方が、地域農業の基盤が強くなると思われますが、実際はそうなっておらず農業現場と農政のズレがあると言えます。

 また、日本の農村は中山間地主体で小さな農業が主体となりこれまで維持されてきました。日本の農業・農村を考えるのであれば、今こそ農政の足元を見直し小さな農業の評価を検討することが不可欠と言えるのではないでしょうか。

 世界では、小さい農業を支援する政策に取り組む国々が増えています。国連は各国が小規模農家支援に取り組めるように小規模政策のモデルを紹介し始めました。隣国の韓国では農業の大規模化や輸出推進をしたところ、農村が疲弊したため、強小農政策という小さい農業を支援する政策を打ち出しました。世界で最も大規模化が進む米国でも小規模農家への支援策が1980年代から継続されています。そうしないと農業・農村が維持できないというのが主な理由とされています。

 日本でも、福井県の小規模農家支援策など都道府県レベルでの小さい農業支援策が始まっています。小農学会の様に農家が独自で小さい農業の意味を啓発する活動を展開する動きも活発化しています。地方や農家の有志が小さな農業の重要さに気付き独自の取り組みを始めているといえます。

 しかし、その一方で政府は農業の大規模化を進めています。特に安倍政権になってからは、農外企業参入や農協の解体など、農村の基盤を崩す政策が進められてきました。その一方で大規模化を推進し、企業化する経営体を優先して優遇し支援する傾向が高くなっています。しかしまた、全国で約133万ある日本の農業経営体のうち、企業化しているのは約3万です(2015年農林業センサス)。わずか約2%の経営体に対して政策支援が集中している現状をみれば、バランスを欠いた政策が展開されていると言えるでしょう。

 未来の農業・農村のあり方を考え、食料を確保していくためには、日本は多様性を持つ小さな農業を守って農村の持続を目指していくことが必要だと考えます。そのためには、日本の実態に合ったバランスのよい農政の展開が、今求められているのではないでしょうか。


「新規就農」して27年、「農民」になるつもりでしたがなれませんでした。というのは規模が小さすぎてダメだというのです。ここでは5ha以上でなければならないそうです。わたしは農薬も化学肥料もホルモン剤も除草剤も使いません。この「農法」で5haは無理でしょう。このような一律な画一的な「指導」がなされているのです。でも、「農民」になったからどうだと言うと、農地を購入できるだけです。後継者もいなく、買う必要はないのです。むしろ土地に縛られずに済みました。

 大規模農業になればなるほど農薬、化学肥料、除草剤は「必需品」となります。それはそれで必要なものですが、「小規模」も含めた多様な形態を進めるべきでしょう。むしろこちらに力点を置くべきなのです。


雨宮処凛がゆく!第464回:祝・安田純平さん、帰国!! の巻

2018年11月01日 | 社会・経済

  マガジン9 2018年10月31日

 

  嬉しいニュースが飛び込んできた。

 それはシリアで拘束されていた安田純平さんが無事に帰国したこと!!

 帰国便の映像を見ながら、しっかりした口調に胸を撫で下ろした。一方で、3年4ヶ月にわたる拘束の間の過酷すぎる状況に言葉も失った。

 安田さんを知る人々の喜びの声が届く一方で、一部メディアやネット上ではおなじみの「自己責任」という声も上がっている。しかし、ジャーナリストが「危険」だからと戦場や紛争地に向かわなくなれば、一体誰が現実を伝えるのか。

 私は安田さんに2度、取材している。『排除の空気に唾を吐け』という本と、『14歳からの戦争のリアル』という2冊でだ。特に2015年に出版した『14歳からの戦争のリアル』では、一章丸々使って、なぜジャーナリストになったのか、そこから話を聞いている。どうして私が2度にわたって彼を取材したのか、そして彼がいかに「現場」を大切にする貴重なジャーナリストであるか、勝手ながら、今だからこそ「安田純平というジャーナリスト」について、書いておきたい。それが唯一、私にできる「自己責任」という言葉を押し返す方法だと思うからだ。

 私が安田さんの取材をしたのは、彼が「戦場出稼ぎ労働者」として、イラクで働いた経験を持つからである。命がけの潜入取材だ。働いた期間は、07年5月から08年2月までの9ヶ月間。「大規模戦闘終結宣言」は出ていたが、現地は泥沼の混乱の中にあり、迫撃砲が飛び交うような状況が続いていた。そんなイラクで安田さんは最初の7ヶ月はイラク軍基地建設現場で、最後の2ヶ月は民間軍事会社で働いた。仕事は、料理人。

「戦場で料理人?」と思うかもしれない。しかし、戦争は兵士以外にもさまざまな人員を必要とする。基地建設をする人、警備をする人、物資を輸送する人、道路を修理する人、郵便を届ける人、施設の掃除をする人、兵士や働く人の食事を作る人、洗濯などをする人。

  「民営化された戦争」と言われたイラク戦争では、そんなふうに多くの仕事が外注され、それを担っていたのが世界中の「貧しい国」から出稼ぎに来た労働者たちだった。フィリピン、インド、パキスタン、バングラデシュ、ネパール、スリランカ、ガーナなどなどから戦場出稼ぎ労働者が集まっていたのだ。

 彼らにはヘルメットや防弾チョッキなどの装備は与えられないが、武装勢力からは「敵」とみなされる。が、襲撃されて死んだとしても民間人なので「戦死者」にはカウントされない。襲撃されなくても、誘拐されて殺されることもある。04年には12人のネパール人の戦場出稼ぎ労働者(調理人および清掃人として雇われていた)が武装勢力に拘束され、殺されている。また、08年には、やはりネパール人が誘拐され、家族は身代金を要求されるものの現金がなく応えられなかった。その後、ネパール人がどうなったかはわからない。

 安田さんはそんな「戦争の民営化」の現場に飛び込んだのだ。『14歳からの戦争のリアル』のインタビューで、彼は以下のように語っている(以下、安田さんインタビューはすべて同書からの引用)。

  「もともとイラクの取材をしていて、戦争の民営化というのはひとつ大きな特徴なので、その労働の様子というか、たくさん行っている民間人を見たいと思って。03年くらいから欧米のメディアでは、現地にそういう労働者がいるというのはニュースになってたんです。04年頃からイラクに入るのも難しくなったんで、そういう労働者として現地に入るのは面白いなと思って。どうせやるなら末端の方がいいと」

 そんなイラクでの「戦場出稼ぎ労働」の顛末は、彼の著書『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』に詳しいので、ぜひこの機会に読んでほしい。私のインタビューでも、彼はその経験について非常に興味深い話をしてくれている。

例えば、バグダッド国際空港から赴任先のディワニヤまでの移動の際は、多国籍な混成部隊がAK47やM16で武装して護衛するのがスタンダードであること。その約180キロの移動の護衛だけで150万円かかり、それだけ民間軍事会社が儲けること。着いた翌日から爆音で叩き起こされ、以後、毎晩のように迫撃砲が落ちる爆音が響いていたこと。そんな中、ひたすら「三食用意する」ために朝7時半から夜は23時頃まで働いていると、爆弾が降ってきても、「戦場にいる」ということに麻痺していくような感覚があったこと。

 「夜中の2時、3時に爆弾がドカーンと降ってくる音で目が覚めて、でも翌朝普通に働いて、というのがずっと続くんで、だんだん神経が逆立ってくるというか。すごく狭い範囲の中で、しかも周りは砂漠のような場所で、閉塞感というか、変化のない暮らしで。もう暇で暇でしょうがないんですよ。(中略)でも、戦争ってそんなものだと思いますよ。最前線以外はずーっと膠着状態で、することがなくて、ストレスだけは溜まっていく。だからもう、爆弾がドカーンと降ってくることすらエンターテイメントになってしまう感じで、みんな夜空を眺めて談笑してました(笑)」

 実際の戦場を経験した人にしか言えないリアルな言葉だ。また、彼は爆弾からの身の守り方について『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』で以下のように書いている。

 「状況によるが、弾は音よりも速い速度で飛んでくる場合が多く、直撃の場合は飛来音を聞く前に炸裂する。映画や劇画でよく出てくる『プゥーン』という飛来音は、実は着弾点から少し離れた場所で聞いている音ということになる。着弾点が近ければ破片に当たる危険性が高まる。『プゥーンなら近くないから気にしなくてよい。シュォォオオオオなら、着弾後の破片を避けるために、一瞬のうちでもできる限り地面を掘って伏せろ。ただし、地面からの着弾の衝撃で内臓をいためないよう若干胴体を浮かせろ。弾がどこに落ちるかなんて正確にはわからないから、直撃だったらしょうがないと思え』とネパール人が指導してくれた。着弾点や戦闘地域との距離を推し量るために、こうした音の聞き分けは重要なのだ」

 『14歳からの戦争のリアル』では、安田さんがなぜ、戦争に興味を持ったのかも聞いている。きっかけは、イラク戦争だったという。

 「当時、地方紙(長野県)の新聞記者をしていたんです。それでイラク戦争の前、今から戦争が始まるという場所で人々の暮らしなどを取材したいと思っていました」

 そのために休暇を取り、自腹でイラクに向かう。初めてイラク入りしたのは02年12月。戦争4ヶ月前、現地の様子を取材してきた。

 「でも、長野県とイラク戦争なんて関係ない、と上司に言われて記事の企画すら出せませんでした。それでも戦争が始まれば大騒ぎするし、8月になれば、戦争はよくない、という恒例の記事が載る。始まる前に何もできなかったのにそれを見ているのは嫌だな、と思いました」

 そうして03年1月、安田さんは会社を辞める。フリージャーナリスト・安田純平誕生の瞬間である。この時、28歳。会社を辞めてまで伝えたかったことはなんなのか、聞いてみると彼は言った。

 「日本は戦争に賛成したわけじゃないですか。我々が選挙の結果、選んだ政府がやるわけですよね。石油の問題などをはじめ、我々の生活と密接な関係がある。世界で起きている戦争や飢餓、貧富の差が、自分たちの目の前の生活と関係ないわけがない。特に日本なんてほとんどのものを輸入しているわけですし、目の前の自分たちの生活と戦争の関係をひもといていくような報道がしたいと思いました。もちろん、戦争の現場を見ておきたいという思いもありました」

 安田さんが会社を辞めた頃、私もイラクに行っている。03年2月、イラク戦争が始まる1ヶ月前だ。これから戦争が始まる。それをどうしてもこの目で見ておきたかった。だからこそ、安田さんの思いはよくわかる。どれほど「行くな」と言われても、外務省から退避勧告、避難勧告などが出ていても、行く人は行くという現実があるだけだし、無関心な人は無関心という現実があるだけだし、何かあった時に後になって「自己責任」と言う人は言うという現実があるだけだ。

 さて、安田さんにインタビューしたのは、15年1月。この日は、イスラム国に囚われた湯川遥菜さんが殺害された映像が公開されてから2日目。しかし、後藤健二さんはまだ生きていると見られていた頃で、二人に対する殺害予告映像が公開されて6日後だった。ちなみに、安田さんと後藤さんは、よく二人で飲みに行くなど親しい関係だったという。

 よってこの頃、安田さんは後藤さんの友人ジャーナリストとして連日テレビなどに出演しっぱなしの状況で、取材中にも携帯はほぼ鳴りっぱなしだった。そうしてやはり、この頃も、後藤さんに対して「自己責任」という声が一部から上がっていた。そのことを問うと、安田さんは言った。

 「後藤さんがずっと取材していたシリアでは、内戦で20万人もの人が死んでいるわけです。それだけの人が死んでいる現場だから、その状況を知ってほしいと思って後藤さんはずっと取材をしてきた。そんなに死者が出ている場所だから、記者だって死ぬかもしれない。そんな記者に対して『そもそもそんな情報必要ないのに、何を勝手なことしてるんだ』というバッシングがされている。必要な情報だと思えば、誰も自業自得なんて言わないですよね。今回のそういった反応は、必要だと思っていない証拠ですよね。シリアで20万人死のうが関係ない。自分と直接関係ないんだからどうでもいいということじゃないですか」

命がけで現地に入っても、この国の無関心な人にはなかなか届かない。それどころか、何かあったらバッシングされる。戦場ジャーナリストほど割に合わない仕事はないのではないか。そう問うと、安田さんが淡々と言ったことを覚えている。

  「だから、好きでやってるというだけですよ」

  この取材の日から6日後、後藤さんの斬首された映像がインターネットに公開された。

 そしてこの取材から5ヶ月後、安田さん自身の消息が不明となる。

 この頃、安田さんとの連絡も途絶えた。今から思うと呑気すぎるが、『14歳の戦争のリアル』の出版記念イベントへの出演を打診しても一向に返事が来なかったことを不審に思っていた頃、「シリアで行方不明」という報道を目にしたのだ。また、この年の7月頃には、安田さんと長野県のイベントに一緒にゲスト出演することになっていた。

  「もしかしたら、当日、ふらっと現れるのでは?」

 この頃には、まだどこか楽観していた。しかし、安田さんが現れることはなかった。

 あれから3年4ヶ月。本当に、よく生きて帰ってきてくれたと思う。

 なぜ、ジャーナリストは戦地に行くのか。

 インタビューで、安田さんは、後藤さんが戦地の子どもにこだわって取材していたことについて、シリア内戦の取材経験から、以下のように語っている。

   「2012年の頃ですね。見えるところまで戦車が来て、ボンボン撃っていました。迫撃砲、戦車砲、空爆で、反政府側の地域にどんどん攻撃が来る。そこらじゅう瓦礫の山から子どもや女の人の死体がどんどん出てくるんです。病院は政府軍が押さえているので、反政府側の作った野戦病院しかない。でもそこは止血しかできなくて、ほとんど死んでしまうんです。それはひどい状態でした。

  街の9割くらいの人は避難していて、もういないんですよ。でも、残っている家族はいて、小さい子どももいる。可愛かったですよね、子どもは。今までそんなに可愛いと思わなかったんですけど。取材から居候先に戻ってくると、近所の子が100メートル向こうからでもこっちに気づいて、ダーッと走ってくる。友達もいないし暇なんでしょう。あんなところに見たこともない外国人が住み着いて、珍しかったんでしょう」

 「毎日死体になっているのは、子どもが多いですからね。爆弾って、落ちてから炸裂するんです。その炸裂した破片を見ると、ナイフみたいになっていたり、ねじれたドリルみたいになっている。破壊力を高めるために、わざとそういうふうに作っているわけです。爆弾が落ちると、そういうものが周りにピュンピュン飛んでくる。

  子どもたちはそんな破片で死ぬんです。同じ大きさの破片が当たった大人は平気でも、子どもはすぐに死んでしまう。そういうのを見ると、子どもがちゃんと生きているってことがどれだけ貴重なのかと、本当に思いました。後藤さんが『子どもたちが』とあれだけ言っていたのが、今は理解できますね」

 志半ばで奪われた、後藤さんの命。その悲劇を目の当たりにしても、決して取材をやめず、シリアへ向かった安田さん。ジャーナリストが戦場へ行く理由。それは、ここまでの彼の言葉を読めばわかるはずだ。

  安田さんは、同書のインタビューで、最後にこんなことを言っている。

 「とにかく想像することだと思います。一見関係ないように思える遠い国で、今も死んでいる人がいる。楽しく暮らしていたはずの生活が突然壊れて、爆弾がどんどん飛んでくる。もし、自分だったら、と考えてほしい。そうなったら自分が持っているすべてを失うといったことをイメージして、まずは不安になるだけでもいいんです。ニュースを見て、『自分だったら』と想像するような習慣をつけてほしい。そうすることで、人のことを考えられるようになると思うんですよね」

  想像と共感。それは、おそらく戦争を回避するための第一歩だ。

 安田さんが囚われたシリアでは、15年のインタビュー当時20万人だった死者は、35万人までに膨れ上がっている。また、国外に逃れた難民と国内避難民は合わせて1200万人にも上る。

 内戦下の現実を伝えるためにシリアに赴いた安田純平さんに、私は最大限の敬意を払いたい。ジャーナリストは、時にたった一人で世界を変えることがあるのだから。

 とにかく、生きて帰って、本当によかった! 今はゆっくり、休んでほしい。

 *

 安田純平さんの『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』、ぜひ多くの人に読んでほしいです。また、『14歳からの戦争のリアル』もぜひ。安田さんインタビューは第5章「月収13万、料理人、派遣先・イラク ジャーナリスト 安田純平さんに聞く戦場出稼ぎ労働のリアル」。