東京★秩父★函館ノマド生活 末端社長!森田博の公式ブログ

趣味の世界と零細企業末端社長としての近況報告。
書きたいことを書き、たまにアッと驚くことを発表する。

『得する人、損する人』

2007-12-28 19:59:11 | ラスト

●ある職場でのやりとり。

社長:A君、悪いけどこの仕事を今日中にやってくれないかな。
A:わかりました、今日中ですね。

と嫌な顔一つせず、むしろ社長に新しい仕事を頼まれたことがうれしいようですらある。
実は彼の会社はこのところ受注が増えて忙しい。
A社員の仕事量も倍増しているのだが、彼はいつも笑顔を絶やさない。

●そこへ新たな経営課題が発生した。急ぎのテーマだ。あいにく社長は今夜から出張が入っていて、その仕事はできそうもない。誰にその仕事を頼もうかと社長は考えた。
いつもなら迷わずにA社員に依頼する内容だが、先ほど、別件の緊急課題を頼んだばかりだ。

よし、今回はB君に頼んでみよう。

社長:B君、悪いけどこんな問題が起こった。明日にでも結論を出し たいので今日中にこの件のデータ集めをやってくれないかな。
B:(明らかに迷惑そうに)えっ、ボクがですか。今日中?
社長:君が忙しいのは分かっている。それを承知で君に頼んでいるのだ。
B:まぁ、分かりました。そのかわり、今取りかかっているこの仕事が、その分だけ遅れますが良いですね?
社長:良いわけないが、しようがない。君にやってもらうしかないんで。


●"新しい仕事を頼んだのだから、今までの仕事はその分だけ遅れる"というのがB君流仕事術。しかも、不平そうな顔でそう言う。

ところが、A君流仕事術とは、"新しい仕事は引き受けましょう。同時に、今までの仕事も遅滞なくやりますよ"というものだ。しかも、笑顔で。

●むかしから、仕事は忙しい人に頼めと言う。

その理由は、忙しい人ほど時間管理が上手なので、いったん引き受けたら必ずやってくれる。
ところが、忙しくない人は、時間管理の必要がほとんどないので、頼んだ仕事も期限内にやってくれるかどうか分からないから、ということらしい。

だが、実際はそうではない。頼む側からみて、頼みやすい相手と頼みにくい相手がいる、というのが真相だ。

結局、A君は同僚より忙しくなって、一時的にはつらい思いをすることもあろうが、彼の元にはいろいろな人からいろいろな話が持ち込まれる。結局、得するのだ。

一方、B君はやっかいな課題を背負い込まずに済むのでマイペースを貫けるかもしれないが、人も仕事も集まってこない。結局、損するのだ。

●個人でこれだけの差がつくわけだから、会社単位で比較すると、もっと差がつく。
仮に、A君のような社員ばかりが働いている会社だと、お客さんから信頼されて仕事が途切れることがない。
反面、B君のような社員ばかりが働いている会社だと、お客さんは近づかなくなる。

●まずは、あなた自身が頼まれ上手な人間になろう。

そして、頼まれ上手な部下を育てよう。頼まれ下手の部下がいたら、教育するか、いっそのこと取り替えてしまおう。そして、会社全体が頼まれ上手な会社になろう。

提案がある。

今度の忘年会の居酒屋で忙しそうな店員さんに「ちょっと、お水ください」と、あえて声をかけてみよう。できるお店、できる店員ならこう答えるはずだ。

「はい、かしこまりました。」
そのあとに、「少々お待ち下さいませ」がついてもよい。

できないお店、できない店員ならこう答えるはずだ。

「少々お待ち下さい」

要するにお客は、水を待つのか、注文する行為を待つのか分からない。
こんなお店は、相手の立場に立てず、自分の立場でしか仕事をしていない証なのでリピートする必要はない。

●でも先のA君、本当に断らないといけない場合どうするか。

その時も、笑顔はかわらない。「申し訳ありません。お引き受けしたいのですが・・・」で充分誠意は伝わる。
そして、断るだけでなくその仕事の内容を聞いて社長の問題を親身に聞いてあげる姿勢があれば、断りながらも信用力アップになる。
仕事を引き受けながら信用ダウンするB君より、はるかに上手ではないか。


任せたら任せる!

2007-12-18 19:05:40 | ラスト

『任せる能力、育てる能力』


●トヨタ・クラブW杯サッカーは、カカの大活躍でACミランが優勝した。
日頃、欧州サッカーを見ない私は、昨年のドイツW杯の時のカカよりもスピード、パワー、テクニックともにグーンと成長しているのに驚いた。伸び盛りの若者の成長は恐るべし。

●ところで、社長の伸び盛りはいつ頃だろうか。本人の年令もひとつの要素だと思うが、社長着任年数が若いほど伸びやすいし、新しいことに挑むことが多い社長ほど伸びる。

●身を引くタイミングを前もって年令で決めておこう。
社長の意欲や体力が低下してからバトンタッチしようとすると、うまくいかない。
ある時など、85才の社長と60才の専務(息子)が揃って講演に来られていたこともあるが、ズルズルと20年は余分に引っ張ってしまったと私は感じた。

●思い切って任せるということには、任せる側に訓練が必要なのだ。
日頃から社員や息子に仕事を任せるときは、任せた以上、口を挟まずに結果だけを見守る度量を養っておこう。

「君が環境美化委員長だ!」と一度任命したら、少なくとも一年間は彼に良い仕事をさせて自信をつけさせるまでフォローしなければならない。フォローしてやらないと、「私は何をすればよいのだろう」と迷いながら、成果を出すこともなく任期が終了してしまう。すると自信をなくすことだってある。
ひどい場合は、彼に委員長を任せたことすら忘れてしまう社長だって
いる。

●そういう任せ下手な社長は、いざ後継人事というときになっても任せ下手の癖が出てしま、任せられないのだ。

特に、ある程度以上に実績があった社長ほど要注意。自分ほどの経営力をもった部下は社内に一人もいないと思っていることが多い。
たしかに同じことができる部下は一人もいないかもしれないが、違う方法で成果を上げる部下はきっと何人もいる。

●優秀な人材の下に人材が埋もれていることが多いのだ。
それに気づかぬのは上がいるから。往々にして我が子がいつまでも未熟に見えるように、未熟な頃の部下・息子を知っているだけに眼鏡が曇る。

●社長がいつも社内にいる会社は、必ず専務以下が育たないもの。
彼らが社長に依存してしまうのか、上がいるから力が発揮できないということも多いのだ。

任せてよいかどうか迷ったら、まず社長は、一ヶ月間外国旅行してみよう。
連絡を取るのは一日一回のメールだけ。それ以外は連絡を我慢する。
それで会社がどうなるのかテストしてみればよい。できる後継者は、必ずこの一ヶ月でたくましく成長する。

●管理職の究極の仕事、それは今の仕事を卒業することだ。



嵐の経理

2007-12-15 00:33:03 | ラスト
 年末調整とは、本当にめんどくさい。
この時期、私は税制に不条理を感じる。
払ったり、還付したり、定率減税したり、住民税変えたり・・・
政府は「税」そのものを極めて都合よく変える。本当に政府の都合だ。

消費税10%でもいいから、「一本化」して欲しいものだ。
高齢者に配慮は、年金手帳とか収入証明カードでも作って減らすとか。

本当に景気をよくしたり、文化的生活を皆がおくれるようにする為には、こんな小手先のことではなく、抜本的税制改革が必要だと思う。

こんなことでふり回される暇があったら、もっと創造的時間を作りたいものだ。
世の中の経理担当者はみな思っているに違いない。
もしかしたら、税務署の役人たちも思っているかもしれない。

これで国が赤字だというのは一体何に金を使っているのだろうか?



HP更新

2007-12-11 02:24:33 | ラスト
HP^^を更新に入ります。
 また時間がなく、完全なものは出来ないが今後の計画上、必要になったものや、求人、スタッフ更新をしないと古くなってきた。
 それにしても、なかなか残務が終わらない!

 おかげで銭湯もいけない・・・これ久々のスモーキーマウンテン状態!

  

求人

2007-12-07 23:35:21 | ラスト

【今日の言葉】

 「名将の条件は、ひたすらに運である」(司馬遼太郎)

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『不思議な一日』


●「誰を採用すべきか迷ったら、運の良い人を入れなさい」と松下幸
之助氏。
兵隊にはまず体力や技術が求められるが、将を目指す人材には「運」
が加味されなければならない。

●運があるかないかは、直接その人に聞いてみればよい、という松下
さんだが、中には、「さぁ、どうでしょう」と黙して語らない幸運児
もいる。今日はそんな奇跡の幸運児をご紹介したい。

●「名将の条件は、ひたすらに運である」と司馬遼太郎氏。この言葉
は、『街道をゆく』シリーズの42巻「三浦半島記」(朝日文庫)262ペ
ージに出てくる。

●司馬が、"運の持ち主"と称えるその人物とは木村昌福(きむらまさ
とみ)海軍少将である。

木村は太平洋戦争において、敗色濃厚のなか、数少ない明るい話題を
日本国民に提供した「キスカ島の奇跡」を為し遂げた人物である。

では、司馬の『街道をゆく』をもとにして、キスカ島の奇跡について
簡潔に紹介しよう。

●太平洋戦争の開戦後、大本営がとった作戦は、太平洋に浮かぶ大小
の島々を押さえ、兵力を拡散分駐させることだった。
軍事上の戦略拠点を押さえたい、という意味と、20日分しかない備蓄
が尽きる前に石油を確保してしまいたい、という台所事情もあった。

●そうした意味では、南方のフィリピンにいた米軍、マレー半島とシ
ンガメ[ル要塞にいた英軍などを叩いた緒戦では、作戦が成功しつつ
あるかに見えた。

だが、同時に大本営は、北海道とアラスカ半島の中間地点にある「ア
ッツ島」と「キスカ島」への進駐も決める。
こちらには石油がなく、のちに、作戦上の理由がよく分からないとさ
れる方面だ。

●アッツ島とキスカ島は南方の島々よりも更に自然環境が厳しかった。

年中濃霧に閉ざされ、強風が吹き荒れ、樹木もない不毛な島々だった
という。
無血上陸を果たしたのが開戦翌年の昭和17年6月。それぞれの島に千余
名が上陸。このとき、まだ明確な守備作戦がなく、制海権も制空権も
もたない孤島上陸作戦であったとされる。

●やがてアッツ島とキスカ島に守備部隊が配備され、アッツ2600名、
キスカ5200名という陣容になるものの、やがて南方作戦が破綻し、敗
色が濃厚となりはじめた。

●アッツとキスカに対する補給もとだえがちになり、ついに昭和18年
5月、米軍はアッツ島を襲い、島の形を変えるほど砲爆撃を加え、陸戦
部隊を上陸させて日本軍を文字どおり全滅した。

大本営は、見守るしかなかったという。

●「次はキスカ島だ」と誰もが思った。
いそぎ、大本営は5200名の撤退作戦をたてた。その作戦を誰にやらせ
るか、白羽の矢が立ったのが木村昌福少将だった。

この時、木村は重傷を負っていて、横須賀の海軍病院に入院していた。
けが人といえども将に任じねばならなかった。

制海権も制空権も米軍がにぎり、レーダーが監視する中、小さな軍艦
で5000人超の兵を一挙に、かつ速やかに救出し終えてしまうという至
難の作戦だった。

●そして昭和18年7月7日、濃霧をついて千島列島から長駆キスカ島に
近づいた木村隊は、何をおもったか再び千島列島にもどっている。

この時、めずらしくキスカ島付近が晴れていて、気象学上も霧がわく
条件がなかったというのが木村の決断理由だった。

後になって分かるが、この時、作戦を決行していれば日本軍は米軍か
ら袋だたきにあっていたという。レーダーが木村の動きを逐一、傍受
していたのだ。

●7月26日、木村隊は二度目の救出作戦に向かった。

この時もアメリカ艦隊は木村隊の動きをレーダーでキャッチしていた。
そして射程距離に近づき、戦艦・巡洋艦で木村艦隊にむかって重点爆
撃をおこなった。
玉が尽きるまで砲撃を加え、やがてレーダーの目標物消失をもって作
戦を終了した。
だが、その目標物は幻影だった。木村艦隊はそこにはいなかったのだ。

●砲弾などを補給するため、7月29日の一日だけ南方の補給基地に向
かった米軍艦隊。
木村艦隊はそうした事情を知らず、偶然その一日にキスカ島の湾内に
すべりこんだ。待ち受ける兵士5200名を55分間で撤収し終え、任務を
完了した。

●アメリカ側はキスカ島が無人になっていることには長く気づかなか
ったようだ。その後も島を封鎖し、砲爆撃をくりかえし、8月14日、
34,000の部隊が上陸し、無人と気づく。

●アッツ島は全滅し、キスカ島は全員救出された。
キスカの兵士を乗せた艦がアッツ島沖を通ったとき、島からバンザイ
の声が湧くのを聞いたという人が何人かいた。
こうした話を好まないという司馬が、「この話ばかりは信じたい」と
書いている。
誰かがまだ、アッツ島にいたと考えられなくもない。

●司馬をして「不思議な一日」とよぶキスカ救出劇。
そういう星のめぐりをもった人を大切にしたい。

だがそれは、パッと見の外見や顔つきや雰囲気だけでは分からないも
ので、その人の行動と結果の関係をよくよく観察していくことによっ
て理解が得られるものだと思う。

●後日談がある。

終戦後、この手柄話を木村は家族にも話していなかった。文藝春秋に
この記事が載ったのを見て、一番驚いたのが木村の家族だったという。

小さい頃からおとなしくて無口だったという木村だが、彼もラストサ
ムライの一人なのかもしれない。


今年を振り返るその1

2007-12-02 01:54:46 | 永住できる目黒区を考える


 12月に入りました。長い出張から帰り、紅白のステブレ(ステーションブレーク)に追われながらも一年は過ぎようとしている。
 今年は、涙もチョチョ切れる激しい年だった。
 とどめが実家の立ち退き問題で、お袋の住むところを探すことである。
 少しは、親孝行をと思うが、行政というのは冷たいものだ。
 実家のような「借家」には何のケアもない。30年すんでもだ。
 母は80歳で一人暮らし、今更見ず知らずの土地や市役所でさえ認める、柄の悪い市営住宅に
ぶち込まれてはかなわない!
 何とかするのは、結局行政に頼らず自分で・・・である。

 私は、「永住できる目黒区」を目指して区議会議員選挙で闘い、見事落選したが、実家である愛媛県松山市のような塩崎元官房長官のお膝元であり、中村親子市長の「中村城建設」「永住を拒み、公園ばかり作る行政」に目黒区はならないで欲しいと思う。

 選挙には敗れたものの、「淡島通り舗道の街灯の設置」「ビル屋上緑化」「ビックスクーター」の騒音問題、固定資産税、剥ぎ取るような相続税の全廃を訴え続けたいと思う。
 この写真も遠い過去に感じるが、戦いは始まったばかりかもしれない。

 永住とは、こんなに難しいものなのか?

 我が国に効く、防腐剤はないものか?

 とりあえず働こう。終わらない、このままでは!!!