遅ればせながら、あわてて長崎へ向かったのは・・・・・
渡辺司さん 79歳がご逝去されたからである。
被爆の朗読劇「命ありて」をこの17年にわたって演じ続け、原爆の悲惨さを伝え続けた。
病に侵されながらも8月5日に237回目の上演をやり遂げ、これが最後の舞台となった。
NHKをはじめ各局が報じている。
渡辺さんは13歳の時、爆心地から1・6キロの長崎市の自宅で被爆。放射線の影響とみられる急性症状で危険な状態に陥ったが、一命は取り留めた。95年から続けた朗読劇では、友人や母が原爆症などで次々と亡くなったつらい体験を語ってきた。
この「命ありて」の脚本の手術を行ったのが何を隠そう、私です。
渡辺さんの息子さん(現 予備校校長)から相談を受け、私の仕事が終わらぬのを東京まで上京されて何時間も待たせた挙句、
かなり激しく手を入れた。
当時、私は、血気盛んな若手のTV編集者であり、作詞家としても道が開けおごりがあったのだ。
たしかに持ってこられた体験談の脚本はゆうに2時間を超えるもので、
森田「見る側に立って考えないと成立しませんよ」
渡辺さん「しかし、こういうことが伝えないといけないうえで大事では・・・」
若輩者の私は聞き入れず手をいれた。
数時間やり取りしたうえで、3分の1はカット、そのかわりB29の飛来音や原爆の音などを私が準備して効果音として臨場感を語りだけでなく取り入れることで・・・・・
ほんとうにバッサリ切って始めた芝居だったことは、のちに聞いた話。
なんと失礼なことをしたのかと、恥ずかしいばかりである。
お通夜には、長崎市長をはじめ、平和運動にささげる方、被爆者、2世の方々など多数が参列されていた。
私は喪服も準備せず、普段着で飛んで行ってしまった。
芝居で使われていた衣装
がんが分かったのは今年5月。医師から「手術はできない」と告げられた。
「ああやっぱり」と話したが「喉頭がんでなくて良かった」と朗読劇に意欲を燃やしたという。
最後の舞台では腕が細り、医師も無理だという中、つえなしでは立てない状態で、初めて黒衣の助けも借りて演じ切ったそうだ。
喪主である奥様にも17年ぶりにこの席でお会いしたら、
「あなたの言った通り、一度やったらずっとやめられなくなって大変ですよと言ったがここまでやりました」
あまりに気丈でにこやかだったので、思わず、
「お疲れ様でした」
と言ってしまった。
棺のなかの司さんもやすらかな御顔でした。
戦後66年、平和を願い、身をもって伝え続けた被爆者がまた一人、生涯を閉じた。
わたしは、日ごろのくだらないTV番組の議論や、文句ばかり言ったり、いい歳して自己主張ばかりする了見の狭い我々が、本当に平和とか、原発議論とかできるのだろうか。
相手を思った人権擁護できる、自己犠牲ができる大人になりたいものだ。
笑うこと、ほほ笑むことを忘れた大人たちがいい番組だとか、指導だとかできるわけがない。
謹んでご冥福をお祈りいたします。