『魯山人の宇宙展』を“かわら美術館”で観てきました。周知のとおり北大路魯山人(1883-1959)は、書家、美食家、陶芸家、画家など多彩な顔を持つ人です。
そうした中で、今回は陶芸作品を中心としたものでしたが知識も、観賞眼も持ち合わせていません。そこで、学芸員による説明を聞きながら観て回れる日を選んで行ってきました。
展示作品の多くが、織部、九谷、瀬戸、志野、備前など実際に使う食器でした。
学芸員の方に質問してみました。
「多くの陶芸家は、織部なら織部、志野なら志野を専門的に追及するのではありませんか? 魯山人はなぜいろいろな焼き物をやったのでしょうか?」と。
それに対しての説明ですが、「魯山人はあくまで食を提供するためにどういう器を使ったらいいかという視点で考えていたのでしょう。そのため、それぞれの食をおいしく見せるために、織部、瀬戸、志野など違う感じの器を作ったのだと思います。それも自分が気に入るものをということで、自分の手で作ったということです」ということでした。
そうしたこだわりがあったのでしょう、魯山人が人間国宝に推薦されたとき、織部焼の人間国宝ということだったため、自分は織部だけではないという理由で辞退したということです。
これも学芸員の説明で聞いたことです。単に作品を鑑賞するということだけでなく、こうした話を聞き魯山人という人を少し知ることができたような気がします。
写真
(1)織部扇面鉢
(2)辰砂竹雀俎鉢
(3)九谷風鉢
(4)北大路魯山人
そうした中で、今回は陶芸作品を中心としたものでしたが知識も、観賞眼も持ち合わせていません。そこで、学芸員による説明を聞きながら観て回れる日を選んで行ってきました。
展示作品の多くが、織部、九谷、瀬戸、志野、備前など実際に使う食器でした。
学芸員の方に質問してみました。
「多くの陶芸家は、織部なら織部、志野なら志野を専門的に追及するのではありませんか? 魯山人はなぜいろいろな焼き物をやったのでしょうか?」と。
それに対しての説明ですが、「魯山人はあくまで食を提供するためにどういう器を使ったらいいかという視点で考えていたのでしょう。そのため、それぞれの食をおいしく見せるために、織部、瀬戸、志野など違う感じの器を作ったのだと思います。それも自分が気に入るものをということで、自分の手で作ったということです」ということでした。
そうしたこだわりがあったのでしょう、魯山人が人間国宝に推薦されたとき、織部焼の人間国宝ということだったため、自分は織部だけではないという理由で辞退したということです。
これも学芸員の説明で聞いたことです。単に作品を鑑賞するということだけでなく、こうした話を聞き魯山人という人を少し知ることができたような気がします。
写真
(1)織部扇面鉢
(2)辰砂竹雀俎鉢
(3)九谷風鉢
(4)北大路魯山人