うちなー→えぞ日記 (もとすけのつぶやき)

奈良県出身、沖縄での学生生活を経て、北海道ライフを堪能する、
とある研究者の日常のよしなしごとの紹介。

大雪ですね。

2009年01月10日 11時57分04秒 | うちなー日記(沖縄編)
↑雪の新大仏寺(左上は大仏像)

今日、母と弟がポケモンバトルやらで津市に出かけるので、朝に車で伊賀上野駅まで送っていったのですが、外は予想外に大雪が降っていました。
先日、私が沖縄から帰省した次の日もちらっと雪が降りましたが、今日は雪国のような降り方でした。車を運転していても、前からどんどん雪が迫ってきて、普段とはかなり感覚が違いました。

母達を駅に送り届けた後、出かけたついでに新大仏寺に行ってみることにしました。なんといったって、昨日見た大仏様の夢のことがありましたから・・。

新大仏寺は伊賀市旧大山田村地区の東の方に位置し、伊賀市郊外の私の実家からさらに10kmほど山奥に入った場所にあります。
国道163号線を進んでいくと、ますます雪が大降りになってきました。

お寺に着くと、すでに一面の雪景色でした。以前にも何度か参拝したことはありましたが、やはり雪の日は風情があります。
寺務所の受付で大仏拝観を申し出ると、作務衣を着た寺の方が案内してくれました。
大仏様が安置されている新大仏殿(旧「大仏殿」もあって、そちらは現在釈迦如来像が本尊となっている)への道中、寺の由来などを教えていただいたのですが、それによると、1202年(健仁二年)に源頼朝が後鳥羽法皇の勅願寺として開創、東大寺の復興に携わった重源上人が開山(初代住職)となった由緒正しきお寺なのだそうです。重源上人は東大寺復興にあたって、全国に七か所の「別所」(信仰と勧進の拠点)を作ったのですが、この新大仏寺も伊賀別所(元々伊賀は東大寺の社領でした)として、東大寺の復興に大きく寄与しました。東大寺の大仏殿と大仏の大半は源平の合戦で焼け落ちてしまったのですが、その大仏殿の再建に用いた木の多くをこの新大仏寺周辺から調達し、近隣を流れる川(服部川:木津川の支流)を使って、奈良まで流したのだそうです。ちなみに新大仏寺の「新」は、重源上人が元来の大仏寺である東大寺に敬意を払って付けたものだとか・・。

そのようなことを聴いている間に、新大仏殿に着きました。
新大仏殿は二階建てで宝物庫も兼ねており、国の重要文化財に指定されているものがいくつも置かれていました。なかでも興味深かったのは、一階に置かれていた石造の獅子の台座で、元々はその上に大仏様が坐されていたというものです。東大寺大仏の復興にあたっては、南宋から多くの技術者が招聘されたのですが、その一部が伊賀に移り住み、この石造の台座を造ったといわれているとのことでした。(奈良時代の東大寺建設の際にも、百済の技術者100人ほどが伊賀に住み着いたと言われています)
台座を見た後、いよいよ二階に上って大仏様と対面しました。
新大仏寺の元本尊であるこの大仏は、檜造の毘廬舎那仏で、高さが約4mあります。800年前に快慶によって作られた当初は、阿弥陀仏だったのですが、しだいに寺が廃れて、江戸時代に再興されるまでの間に首から下の部分が欠損し、修理の際に現在の姿になったとのことです。
普段は、大仏様の正面からしか見学できないのですが、今日は特別に上段に昇らせていただき、横顔やお背中も見ることが出来ました。横顔はなかなか凛々しい印象で、意外に鼻が高かったのが印象に残りました。
最後に、正面に戻ってお祈りをして見学を終えたのですが、お祈りの際には寺の方からの進言として、「自分の事ではなく、世界の平穏などをどうぞ祈ってください」と言われました。本来、毘廬舎那仏は宇宙仏と言われ、宇宙の真理を全ての人に照らして悟りに導く仏様だからです。ちなみに個人的で世俗的なことは、同寺内にある、不動尊にどうぞとのことでした。とりあえず私は世界経済の復興を祈りました。

さて、新大仏殿から外に出ると、先ほどまで降っていた雪が止み、青空まで見えていました。おかげで家への帰り道は来るときよりも楽に運転することができました。(ちなみに新大仏寺は成田山不動尊の分霊も祀っており、伊賀成田山として交通安全の祈祷などもやっています)

明日は、沖縄に帰る予定なのですが、実家から空港へ行く途中で、奈良の東大寺に立ち寄って、久々に大仏殿に参拝に参ろうかと思います。