うちなー→えぞ日記 (もとすけのつぶやき)

奈良県出身、沖縄での学生生活を経て、北海道ライフを堪能する、
とある研究者の日常のよしなしごとの紹介。

【続々報】とりあえず交番に届け出てきました。

2009年03月29日 21時49分29秒 | うちなー日記(沖縄編)
↑車内に落ちていたBB弾

というわけで、近所の交番に行ってきました。

巡査さんに事情を説明したところ、
恐らく中高生の悪戯だと思われるが、現場で犯人の姿を見ておらず、故意かどうかも判然とせず、また、犯人の手掛かりになるような情報もないので、すぐには具体的な行動を取れないとのこと。
なので、「被害届け」という形ではなく、とりあえずは「警邏要請」として受理し、現場周辺の警邏を強化するということになりました。

なかなか犯人を捕まえるのは難しそうです。

しかし、悪質で危険な悪戯であることは確かですから、これ以上他に被害が出ないように祈るばかりです。





【続報】凶器はエアガンでした。

2009年03月29日 12時01分16秒 | うちなー日記(沖縄編)
今日未明の被弾、今朝明るくなってから車内を確かめると、白いBB弾が見つかりました。当然ながら、元々そんなものが車内にあるはずがないので、被弾したときに私の右腕に当たって落ちたものでしょう。

ゴムの音だと思っていた「バチッ」という音は、車のボディにBB弾が跳ね返った音だったのかもしれません。となると、犯人は私の右腕に当たったのを含めて3発を撃ったことになります。
当時、時速30kmほどで走っており、ごく短時間に複数回撃たれているということは、恐らく犯人はマシンガンタイプのエアガンを使ったと思われます。

それにしても、危ないところでした。
もしも目に当たっていたらと思うと、ぞっとします。

これから、一応警察に届けに行こうかと思います。

パチンコ玉?攻撃に遭遇!

2009年03月29日 01時13分24秒 | うちなー日記(沖縄編)
先程、零時半ごろ、研究室の後輩と浦添のTSUTAYAに行くために、パイプライン付近の裏道を窓を開けながら車で走っていたところ、「バチッ」という音が二回鳴り、右腕に強烈な刺激を感じました。
「なんだ今の!?」と思いつつも、何故か止まったらいけない気がして、その場を急いで離れました。
そこからの車中、後輩がいうには、「ひょっとしたらパチンコ玉かもしれませんよ」とのこと。
確かに、あの音はゴムの音みたいな音でした。
強盗、もしくは悪戯目的で車の窓を割ろうとしたのかもしれません。
実際、ハンドルを握っていた腕に当たったということは、窓を閉めていたら窓に当たっていたのです。

ただ、さすがに半信半疑で、TSUTAYAに着いてから明るいところで確かめてみることにしました。

で、確かめた結果が上の写真です。
見事に円形に腫れています。
やはりパチンコ玉に当たったのでしょうか。

現場は、今回初めて通った道で、閑静な住宅地でした。
幸い、右腕に腫れはありますが、骨などには異常はないようですし、車にも傷はついていません。しかし、一歩間違えれば事故に繋がりかねません。
この場合、やはり警察に届けた方が良いのでしょうか?

地震速報!

2009年03月27日 04時49分28秒 | うちなー日記(沖縄編)
先ほど午前4時20分頃、沖縄県で地震が発生しました。
西原町、宜野湾市などでも震度2の揺れを観測し、襖がガタガタ鳴る音で目が覚めました。ただ、私の家では揺れ自体はさほど感じず、「あれ、地震かな」と思った程度でした。

震源は沖縄本島北西沖深さ150キロ、マグニチュードは5.7でした。そこそこ大きな地震ですね。

私にとっては久々の有感地震で、昨年の7月に震度3に遭って以来です。

しかし、昨夕帰省から戻っていきなり地震ですか・・。orz

南の島に無事到着。

2009年03月26日 17時51分02秒 | うちなー日記(沖縄編)
先ほど、午後5時28分に無事に那覇空港に到着しました。
今日の搭乗便はANA1737便(機材B767-300:JA8669)でした。

関西空港にて、購入&搭乗手続き(株主優待券は、インターネット購入ができないので、予約だけしていました)をしたところ、満席ながら窓側の席が一席だけあるとのこと。翼がかかるけれども良いかとの問いに、二つ返事で承諾し、座席を指定しました。

少し早めに手荷物検査を終え、19番搭乗口前で搭乗を待っていたら、目の前をフェデラルエクスプレスのMD-11Fが通り過ぎて行きました。あの、成田の事故の同型機です。今回の事故では、MD-11型機自体の問題も指摘されていますが、特に飛行自粛などの措置は行われていないようです。

今日の座席は16A、いざ搭乗してみると、確かに窓側には違いありませんが、肝心の窓がありませんでした。飛行機には、空調パイプや電気系統のケーブルを通すスペースを確保するため、窓がないエリアが存在するのですが、今日はそこにあたってしまったのです。

まあ、後ろの座席に対応する窓が、一部私の席にも被っているので、首を思いっきり捻ればなんとか外の様子が見えないこともないのですが、そうすると斜め後方の景色しか見えず、つまりほとんど主翼しか見えないという状況でした。

定刻に関空を出発し、春先の気流が不安定な時期だからか小刻みな揺れを時折起こしつつも、無事に那覇に至りました。
着陸間際、久しぶりに青い海を目にして、「やはり沖縄の海はいいなぁ」と思ったものです。

那覇空港到着後、研究室の後輩に電話したところ、今からでよければ迎えにきてくれるとのことだったので、そうすることにしました。
現在待っているところです。

と、ここで書き込み終了と思っていたら、今、私がブログ更新のために座っていた公衆PC(10分100円)の脇に、寮の隣人で学科の同級生だったA君がたまたま通りかかり、話ができました。
聞けば、これから対馬へツシマヤマネコの生態調査に行くそう。夜の便で福岡に出て、そこからフェリーで対馬へというルートだそうで、なんか面白そうで良いですな。
彼はそのまま大学院進学が決まっているので、4月以降も沖縄にいます。結構多くの同級生が既に沖縄を離れてしまったので、ちょっと寂しかったのですが、それを聞いて安心しました。

あー、早く迎えにきてくれないかな・・。



南西に向かう春の日かな

2009年03月26日 13時01分00秒 | うちなー日記(沖縄編)
約一ヶ月の帰省を終え、本日沖縄に戻ります。

現在櫟本(天理市)から関西空港に向かうリムジンバスの中です。
さらっと値上げ(1800円→2000円)していて、驚きました。

今回も、遠出の旅行は無しで、近場はちょくちょく出掛けたものの、ごくごく平凡な日常生活を送りました。

長期休暇での帰省は多分今回が最後で、大学院入試での一時帰省を除けば、次回実家に帰るのは大学を卒業して、引き揚げる段のことになります。
(現在の予定通り、卒業単位がきちんと取得でき、卒論を提出できればの話ですが・・)

これまでは、「沖縄に帰る」という感覚でしたが、半年後に沖縄を離れることを思うと、今回は「沖縄に遠征する」ような感覚です。
不思議なものですね。

日本の野球は世界一イイイイイィィィ!!

2009年03月24日 14時49分57秒 | うちなー日記(沖縄編)
つい先ほど、日本がWBCで優勝を決めました!
宿敵、韓国に5対3での勝利。
9回裏で追いつかれたときには、「もうダメかも・・」と思い、試合が終わるまで不貞寝することにして、テレビを消して横になっていました。
その間もちらちらとケータイで速報ニュースを見ていたら、イチローが2点入れたじゃないですか・・。
その後、10回裏で2アウト2ストライクになったときに、歴史的瞬間を見るために再びテレビの電源を入れたのですが、地デジだったがためか、映像が出るまで数秒かかり、映った瞬間に「決まったー!」という声が聞こえてきました。

とにもかくにも、日本2連覇!正直去年の五輪の惨敗の記憶から、今回は無理だろうと思ってましたよ。イチローの言葉も、強がりのように考えていましたが、しかし、まさか本当にやり遂げるとは・・!
やっぱり日本代表の力は本物でしたね。

試合中、非常に疑わしい判定やらもあり、韓国の応援がやたら喧しかったですが、それを踏まえての勝利は、本当に、本当に称賛に値します。
おめでとう!侍ジャパン!

【速報】成田で貨物機着陸失敗・炎上2

2009年03月23日 08時43分37秒 | うちなー日記(沖縄編)
今回とよく似た状況で起きた事故として、1999年8月22日に香港国際空港で発生した中華航空機事故があります。
台風による強い風の中を着陸進入していたバンコク発の中華航空642便が風に煽られて主翼から接地して、ひっくり返り、爆発炎上した事故です。死者3名、重軽傷208名を数えました。
事故機は奇しくも今回の事故と同じ、マクドネルダグラスMD-11型機でした。

マクドネルダグラスMD-11は、3発機の雄、DC-10の改良型で、垂直尾翼にエンジンが突き刺さる独特のフォルムの飛行機です。1990年初飛行の、比較的新しい型式の飛行機で、DC-10からの目立った変更点としては、胴体延長、操縦装置の電子化、ウイングレット(主翼端の垂直翼)の装着などが挙げられ、新しい飛行機らしい、すらっとした美しいフォルムで飛行機マニアには人気でした。が、90年代以降、双発機の性能向上で3発機の需要は衰え、ボーイング777などが開発されると、そちらを導入する航空会社が増え、早々と2001年に製造終了になりました。
国内の航空会社では、日本航空が10機のMD-11を運用していましたが、2004年に全機が退役、米貨物会社に売却されています。

なお、MD-11は、新鋭の大型旅客機としては事故率が高いと以前から指摘されてきました。全損事故がこれまで6件発生しており、これはその他の90年代以降に開発された旅客機と比べて3倍程度多いのです。このうち今回の事故を含めてフェデラルエクスプレス社による全損事故は3件です。
事故の要因の一つとして、操縦装置の反応がやや過敏なことがあるといわれていますが、今回の事故と関係があるかどうかはまだ分かりません。

【速報】成田で貨物機着陸失敗・炎上

2009年03月23日 08時39分21秒 | うちなー日記(沖縄編)
起きていきなりこの事故のニュースを目にして、驚きました。

今朝、6時48分頃、成田空港ランウェイ34Lに着陸進入中だった、米フェデラル・エクスプレス社のマクドネルダグラスMD-11F(FX80便中国広州発:貨物便)型機が折からの強風に煽られて着陸直前に滑走路に激突、回転しながら炎上し、滑走路中央付近の西側に離脱して仰向けの状態で停止しました。
午前8時前後に乗員2名が次々に機体から救出されましたが、先ほど残念ながら2名とも死亡が確認されました。

関東地方は昨夜から低気圧が通過しており、成田空港でも事故当時には北西方向から平均風速15m程度の強風が吹いていたようです。(気象庁のアメダスデータより)
ランウェイ34Lは、南南東から北北西方向に伸びており、向かい風での着陸進入でした。(通常、飛行機は向かい風で離陸・着陸します。)
安定した風向・風速であれば、風速15m程度でも十分安全な着陸は行えます。(実際、海上や海岸の空港ではその程度の風は頻繁に吹いていますし。)しかし、風向や風速が乱れている場合(ウインドシア)、特に滑走路に近い場所では飛行機は想定外に大きく動揺し、ハードランディングになり、最悪主翼から突っ込むことになるのです。
恐らく、今回の事故原因もウインドシアだと思われます。






近所で芸能人に遭遇

2009年03月21日 10時45分05秒 | うちなー日記(沖縄編)
↑発掘調査に参加中の苅谷俊介氏(産経新聞記事より転載)

今朝、Yahoo!ニュースを見ていたら、次のような記事が配信されていました。多分、今日付けの産経新聞にも掲載されていると思われます。

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「元石原軍団の苅谷俊介さん 発掘調査参加」

3月20日20時26分配信 産経新聞

元石原軍団の苅谷俊介さん 発掘調査参加

 奈良・纏向遺跡の発掘調査には、故石原裕次郎さんが率いた石原軍団の元メンバー、俳優の苅谷俊介さん(62)も参加した。
 
 考古学に興味を持ったのは約30年前。人気刑事ドラマ「西部警察」のロケの帰り、都内で裕次郎さん宅の建て替え工事に伴う発掘調査を見たのがきっかけ。
 
 古代ロマンにとりつかれた苅谷さんは「土運びからやります」と調査への参加を申し入れ、ロケの合間に発掘作業。今では、土器などの時代ごとの見分け方もマスターし、日本考古学協会の会員でもある。

 邪馬台国の魅力にひかれ、十数年前から纒向遺跡の調査に毎年のように参加。今回、遺跡中心部の発掘を市教委から聞きつけ、3月上旬から泊まり込みで調査に加わった。「事務所のマネジャーには『3月はスケジュールを空っぽにしておいて』と頼んだぐらい」と笑顔を浮かべる。

 土を削る道具「ガリ」を使って丹念に作業する姿に、市教委の橋本輝彦主任(39)は「柱穴などの遺構を探すのも安心して任せています」と太鼓判を押した。
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以上、引用終わり。

さて、何故この記事をこのブログに転載したかというと、実は私、この苅谷氏に一昨日遭遇したのです。

一昨日、19日は夜を徹して行われた同窓会明けで、眠い中で母校の天理高校を訪ね、恩師のO川先生や元副担任のY田先生たちと会い、同窓会での出来事を話したり、以前頼まれていた泡盛の甕入り古酒を渡したりしました。
昼前には母校訪問を終え、通勤と通学で天理市内に来ていた家族と一緒に、近頃お気に入りの桜井市の喫茶店へ食事に行きました。
その喫茶店は日替わりランチが名物で、結構人気店なのですが、ご飯時をややこえていたのに、この日は超満席で、店員さんもお疲れの様子でした。
さて、店の窓際のテーブル席でご飯を食べていたら、窓側を向いていた父が突然、「お、俳優が来たぞ」と言ったのです。振り向くと、車から降りてきた初老の作業服姿のがっしりとした男性がこちらに歩いてくるではないですか。その男性は店に入ると、私たちの席と通路を挟んだカウンター席に座り、日替わりランチを注文しました。
あまりに自然な来店と、注文の仕方に、私はてっきり地元の土木工事関係の方だと思ったのですが、父は「俳優だ」と自身たっぷり。そういえば、どこかで見た気はするのですが、その場では多分他人の空似だろうと私は思っていました。
そのときは父も名前を思い出せず、ケータイで調べようにも検索できませんでした。次々にお客さんが入ってきて、外で待っているグループもいたので、あまり長居はせず、私たちは喫茶店を後にしました。

昨日になって、父が名前を思い出したようで、「確か『かりやしゅんすけ』とか言ったかな」との情報を元に、ググって見たら、「苅谷俊介」氏の公式サイトに行きあたりました。そこの写真を見てようやく、「あれは本物だったな」と私も納得しました。
苅谷氏がかなりの考古学ファンであること、そして昨日の新聞で「卑弥呼の宮殿跡?が出土」という記事が載っていたので、多分その発掘か見学に来られていたのだろうと推測したのですが、そこに今朝の新聞記事が目に入ってきたのです。

遭遇した喫茶店は、当の纒向遺跡からJRの線路を挟んですぐの場所にあり、多分昼休みに寄ったのでしょうか。
日本考古学協会は現在国内でも最も権威ある考古学会だそうで、その会員になるとは、趣味もここまで極めると良いものですね。
私も帰省の際にはよくその喫茶店を利用していますから、また遭遇の機会もあるかもしれません。



網膜静脈閉塞症

2009年03月16日 15時42分43秒 | うちなー日記(沖縄編)
「網膜静脈閉塞症」という病気があることをご存知でしょうか。
実は、私は去年の今日、3月16日にこの病気に罹り、一時は失明の危機に陥りました。

去年の3月15日、春休み前半の帰省を終え、私は沖縄に戻りました。夜には早速バイトにも行き、沖縄での通常の生活に復帰しました。
ただ、その日はさすがに疲れており、予定のシフトよりも早く、4時間ほどでバイトを切り上げて家に帰り、すぐに寝ました。

翌朝、起きて異変を感じました。
いつも、起きるとすぐにケータイで時間を確かめるのですが、その日は何故か画面が靄がかって見え、文字が読めなかったのです。
よくよく確かめてみると、右目の視界全体が真っ白になっており、ちょうど、激しい運動をした後に一時的に目の前が白くなるときのような感覚でした。
前日帰沖したばかりで、多分疲れで目が痺れてる程度のものだろうと思い、もうしばらく横になっていましたが、少しマシになったものの、視界は元に戻りません。
その日は日曜日で、眼科も開いておらず、しかたがないので疲れをとるために一日寝て過ごすことにしました。

しかし、昼寝から覚めて、日が暮れても完全には視界は元に戻りませんでした。
さすがにちょっとやばいぞと、焦り始めて、大学に行って、研究室のパソコンで情報を集めることにしました。
この時点では、朝とはやや異なり、視界のそこかしこにチカチカとした光の点が散在しているような感じになっていました。
インターネットで調べてみると、片頭痛による一時的な視力障害というものに行きあたり、疲れが原因だと思っていたので、そういう類のものなのだろうと思いました。

その翌日17日は、写真展の搬入日で、私が企画したイベントだったこともあり、戻らぬ視力をおして、朝から那覇の会場へ搬入に向かいました。日中、写真をプリントしたり、他の人の作品貼りを手伝ったりしました。
自分の作品の搬入も終わり、夕方になって、丸一日以上経つのに未だ視力が戻らないことに気付き、さすがに一時的な視力障害どころではないのかもしれないと思い始めました。
ついに眼科に受診することを決意して、写真展会場近くの眼科に行きました。
診療時間終了間際に入った診察室で診てもらった結果は、「目の血管が詰まった可能性がある」、「すぐに大きな病院で受診すべき」とのことでした。

その翌日、18日の朝、前日言われた通りに、琉球大学医学部付属病院の眼科を受診しました。大学病院の初回診察方法は独特で、最初に簡単な問診を受けた後、次に眼科の教授による診察を受け、その後専門の先生による診察となります。
専門の先生の診察の際、網膜血流の造影検査、眼球CTスキャンなどの検査を受けました。造影検査は、注射で血液中に造影剤を入れて血流を確認するのですが、薬剤の副作用のため、一瞬異常に気持ち悪くなり、吐き気を催しました。実に嫌な検査でした。

診察の結果、「網膜静脈閉塞症」と診断されました。
この病気、病名が示す通り、網膜上にある静脈が閉塞を起こし、眼底出血や網膜浮腫を引き起こします。視界が真っ白になったのは、眼底出血のためだったのです。
通常は、50代以上の高齢の方がなる病気だそうで、私のような若者がなるのは珍しいのだそうです。
血管の閉塞が続き、血流が復旧しないと、網膜機能不全に陥り、失明します。また、浮腫が黄斑(網膜の中心部)部分に及ぶと、視力が著しく低下し、長期に渡って障害が残ることもあります。実に恐ろしい病気なのです。
原因としては、血管の炎症や、動脈硬化、血液粘性の増大などがあり、私の場合は、恐らく風邪気味で血管の炎症が起きていたところに、実家の引っ越し作業や帰沖の飛行機での移動、バイトなどの疲労で血圧が過度に上がって血管を痛め、網膜中心静脈が閉塞したようでした。
幸い、完全には血管は閉塞しておらず、血流は既に再開していたので、視神経の壊死という最悪の事態は免れていました。

その後、罹患後しばらくは予断を許さない状態なため、ほぼ毎日通院することになりました。バイトも、3月20日で退職(これは元々その予定でしたが)し、極力目に負担をかけないよう気をつけました。
しばらく経ち、4月末になって、浮腫が黄斑部分に及んだために著しく視力が低下し始めました。矯正視力が0.8程度だったものが、一気に0.2まで下がり、視界の中心付近はほとんど真っ暗になってしまいました。浮腫のふくらみのため、物も歪んで見え、さすがにこのときはかなりの危機感を抱きました。
ここで、浮腫を抑えるため、レーザー治療が始まりました。浮腫の部分は網膜が眼底から浮いている状態ですから、それをレーザーで再度圧着させるのです。結構高額な治療法ですが、これも独特な課金制になってるらしく、初回に20万円(保険適用で6万円くらい)必要ですが、二回目の治療以降はお金はかかりませんでした。
さらに並行して、浮腫の治癒を促進するため、高気圧治療も受けることになりました。あのベッカムやらが使っていた療法です。琉球大学病院には高気圧外来があり、毎朝二回1時間半ずつ、潜水艦のような構造の耐圧チャンバー(10人乗りくらい)に入り、水深10mほどの気圧の中で、100%酸素の吸入をしました。
一か月ほどの間、高気圧療法に毎日通い、週に一回レーザー治療を受けました。

その間も、講義は全てキャンセルしたものの、研究室には通い続けていて、指導教官と相談の上(最初は休学もすすめられました)、私自身はほとんどパソコンには触らず、他の人に研究作業を指示して手伝ってもらいました。

そうして6月の末、ある日、研究室の壁にかかっていたカレンダーをふと見ると、日付の文字が見えることに気付きました。つい前日まで真っ暗だった視界の真ん中が、一部回復したのです。これには喜びました。
その後、徐々に浮腫は治まり、7月末には視界は完全に回復していないものの、視力は矯正視力で1.0まで回復しました。
この回復には、主治医の先生も奇跡的な早さだと驚いていて(通常は回復するにしても一年くらいはかかるらしい)、その後の年末の診察では、「今年罹患したうちの患者の中で視力が回復したのはあなたが初めてですよ」とおっしゃっていました。

現在は、まだごく一部に浮腫が点在しているものの、ほぼ視界も戻り、日常生活や車の運転に支障はありません。病院受診も3カ月に一回程度の間隔になっています。

治療中、実は一番キツかったのは、納豆が食べられなかったことだったりします。というのは、罹患後半年ほど、ワーファリンという抗血液凝固薬を服用していたのですが、青汁やクロレラ、納豆に含まれるビタミンKには血液凝固亢進作用があるため、拮抗してしまうため、禁忌だったのです。
結局半年間ほど納豆を食べられなかったのですが、納豆好きの私にとってはかなり堪えました。

目に関わる病気というのは、やはり怖いものです。今回の病気で私が学んだのは、目に異常を感じたら、すぐに眼科に受診すべきということです。
私の場合は、たまたま予後が良かったですが、本来はもっと早く、できれば救急で眼科を受診するべきだったそうです。
この病気は、若者には珍しいものではありますが、複合的な要因で誰でもなり得る病気でもあります。このブログを読んでいる人にも、是非気をつけていただきたいものです。
ともあれ、やはり目に過度の負担を掛けないことが一番なのでしょうね。