古い話で恐縮。たまには、いや初めてかな。お城の話題を。
2016年12月12日は秋田市のシンボル、千秋公園(久保田城)の深部に入り込んでみた。
何を今更、千秋公園などを・・・と言われるかもしれないが、
(´π`;)ワタシは秋田市に40年以上も住んでいながら、これまで千秋公園の中をまともに見たことが無かった。
公園での花見は40年近く前に一度だけ、他は植木市や昼竿灯で公園入り口の中土橋を掠めたくらいか。
11月末、会社をリタイアしてまもなく差し歯が取れたので、
千秋公園のすぐ近くに有るかかりつけの歯科医院に行ったら、
歯の土台から治療が必要とのことで、数回、通院することになった。
最後の通院日、「そういえば久保田城の中ってまだ見たことが無かったな。
今日を逃せば、この先、しばらく街中に来ることは無いし・・・。」
なので、この日、思い切って訪ねてみることにした。
久保田城表門(一の門)
昔はこういった門には警護の侍が居て厳しく検問されたようだ。
水のみ百姓だった (´π`;)ワタシの祖先などは一生くぐることはなかっただろう。
立派な表門をくぐると、奥の方に立っていたのは、第12代秋田藩主・佐竹義堯公の銅像だった。
立派なお顔立ちだ。今の殿様(佐竹知事)とは似てないような、いや、やはり似てるかな。
秋田市のホームページによると、
第12代秋田藩主佐竹義堯(文政8年(1825年)~明治17年(1884年))は、近代秋田を築いた最後の藩主であり、
戊辰戦争では、新政府方に属して戦いました。明治維新の激動期を生きた象徴的な人物です。
この銅像は、大正4年、義堯公の徳をしのぶ戊辰勤王記念銅像建設委員会によって本丸に建立されました。
しかし、太平洋戦争により、昭和19年(1944年)に解体撤去され、台座だけが残っていました。
その後、昭和28年に佐竹家から銅像が寄贈されましたが、市民から「小さな銅像は寂しい。ぜひ復元を。」
との声が多く寄せられ、平成元年、戦前のものと同じ大きさで復元されました。
とあった。
次いで、久保田城御隅櫓(おすみやぐら)へ。
いつもは千秋トンネルの上に建ってるのを運転しながらチラッと眺めているだけの存在だが、
今日は初めて間近から見上げてみた。
なお今日は休館中なので中に入れなかった。
解説によると、昔は武器庫で、元々は2階建てだった。
一見、天守閣のように見えるが、これは復元にあたって観光用に展望室を加えたから。
このことを (´π`;)ワタシは今日初めて知った。
御隅櫓の近くから秋田市の市街地を眺めると・・・
北北西側が割と開けている。はるか遠くに見える白いお山は男鹿の寒風山。
再び、佐竹義堯公の銅像の前を通り、帰途につく。
これは公園の中にある池の表面。茶色いのは枯れた水草。
格別の感慨も、これといった収穫も無く、久保田城を下りた。
やはり (´π`;)ワタシは城跡よりも山を歩いてる方が愉しい。
以上。
初め顔の輪郭は似てるかなと思いましたが、
義堯公の方が御眼が理知的で威厳があるかな。
まあ人間は顔じゃない。心ですね。
ご先祖様は、キリッとした お顔立ちですもの。
そうですね。地元の人ほど行かない傾向は確かに有ります。
私の場合は、特にその傾向が強いです。
26年前、市の中心地から20キロ近く離れた郊外のニュータウンに家を建てました。
買い物であれ、役所の手続きであれ、大半のことは家の近くで自己完結しております。
それでも会社員時代は秋田駅隣のビルに通っておりましたが、
リタイアしてからはかかりつけの歯医者に行く以外、市の中心地には全く用が無くなりました。
息子が転勤で秋田の山王に住んでいました。
3、4年の任期だからとせっせと秋田に通い、久保田城も2回行きました。
意外と地元の方は行かないみたいですね。
私はお堀の蓮が印象に残っています。